函谷関
秦の玄関口である函谷関は北側、つまりは中原と呼ばれた地域の国から向かうと、必ず目の前に立ちはだかる高い壁である。
(;^_^A城壁兼砦と言った所で、この高い城壁のお陰で、秦国は春秋戦国時代を通して、何度にも渡る合従軍からの攻撃を撃退する事が出来たのである。
実際に目の前に立つとその高さは圧巻の一言に尽きる。
その壁は東西50キロに渡って続いており、入り込む余地が無い。
白夆は感心しながらそれを見ている。
「こりゃあすごいですな…聞きしに勝る雄大さだ…。これを見るだけでも来た甲斐が在ったと言うものです。」
秦初はそれを聴いてほくそ笑みながら、
「正に天然の要塞だな…そもそも聳え立つ山と山の間の峡谷を利用しているからね…地形的にも聳える山脈と黄河の支流の屈曲部をうまく取り入れていて、攻めにくく守りやすい。背後に続く岩場も元々は山の一角なのだろうな…長年の風化と地鳴りの被害などの影響から、山肌が剥き出しになり、岩場が競りだしている…そこに目をつけて人の手を加えて要塞化したのが函谷関だ。峡谷の隙間を関で塞ぐ様に建てられているだろう…要所を塞ぐから要塞と言われる由縁だ。関の門そのものは、そんなには高く作られていないが、その上に造られた二重の楼閣のお陰で大きく見えるのだろう。その代わり幅…厚さは在るだろうがね…。どちらかと言うと、岩肌の高さに造られた砦と砦を結ぶ廻廊が圧巻と言うべきで、あれが在るから高い壁の様に見えるだけの代物だろうが、それでも守りには適しているし、実際守りやすい。見た目の圧巻さも効を奏するだろうしな…それよりも凄いのは、ここが天然の要害たる由縁の立地条件だ。目の前には黄河の支流が流れていて、それをまず越えなきゃならん…そして問題は関を越えた後に在るのだが、それは聴くよりも実際に見た方が良いだろう…」
秦初は上を見ながら、呆れた様に感心している白夆と連れ立って歩きながら、愛馬・管仲の鼻面を撫でている。
管仲は「ブルルルルッ」と嬉しそうに嘶く。
趙良はというと、そんな二人の後を歩きながら、愛馬・鮑叔の鬣を擦ってやっていた。
鮑叔は嬉しそうに頬を趙良の顔に擦り付けてくる。
函谷関は日暮れが来ると門が閉まってしまい、翌朝までは開く事は無いので、出入りの時間には気をつけなければ、出れないし入れない。
但しどこの世界にも例外はあって、緊急時の出入りは関の管理を任された最高責任者に委ねられる。
戦時は配置された将軍のうち最高位の人物が決めるだろうし、平常時は文官の場合もあった。
但し、大抵の場合は自分の決断という依りは、君主の兵符を持っているか、いないかで判断されたし、わざわざ都まで確認の使者を出す事さえ在った。
話をもとに戻そう。
関の入口に辿り着くと、長蛇の列に並ぶ。
秦の様な貧しい国に来るために、わざわざ函谷関に長蛇の列を作って並ぶ者が居るのかと問われると、此れが実際に居たのである。
但し、その殆どは秦国内に用事があるのでは無い。
いや無論そういう人もいるが、その殆どは、西の巴や蜀を通って、そのまた西の羌や月氏へと行く者、南下して百越に行く者などもいたそうである。
つまり函谷関とは、単に秦国を守る関門というだけに留まらず、ここで比較的栄えている東の地域(中原)と、秦以西の西羗と呼ばれた蛮族の地域を結ぶ要衝でも在ったのである。
その二つの世界を隔てているのが、函谷関という訳であった。
列の最後部に並び終えると、秦初は白夆に、一言、注意を与えた。
「例の…笑顔で賄賂配布活動は、ここではやらぬ方が良いぞ…」
その声は人の注意を引かぬ様にぶっきらぼうな物言いだったが、白夆には聞こえる様にわざわざ彼の肩を組むような仕草をしていた。
白夆はそれを耳聡く聴くと、
「なぜなのです?」
と怪訝な顔をしている。
それはそうだろう…彼はそのやり方で中原諸国を巧みに渡って来たのだ。
その様な反応をしても不思議は無い。
秦初はほくそ笑みながら、
『やはりやるつもりだったのか…』
と少々、肝を冷やす。
まだ始まったばかりなのに、白雪から預かった大切な弟君を酷い眼には合わせられない。
秦初は彼に優しく諭す様に説明してやった。
「一度しか言わぬから、よ~く腹に落としておけ!秦人全てに賄賂が効かないとは言わぬが、秦人は元々生真面目で不器用な性格の者が多い…怒りを買って牢屋にぶち込まれたり、或いは労役に駆り出されたり、したく無ければ、顔を売るための他の手を考える事だ。郷に入れば郷に従え…此れはそういう意味で使う事が望ましい。皆、使い方を間違えておる様だな。相手に合わせるというよりは、相手を知ってどう対応するのかを考える方が余程能動的で私は好きだ。つまりは…相手を知り、己を知れば百戦危うからず!という事だ。斉の孫武はなかなか良い事を言う。彼の子孫に孫臏という者がいるが、あいつもなかなかの人物だ…。」
そう言うと、白夆の顔をまじまじと見つめながら、
「(^◇^)判ったかね?」
と尋ねた。
白夆は自分の首を擦りながら、
「わかりましたよ(^-^;…まだ首が胴から離れるのだけは御免被りたいですからな。肝に命じます…」
そう言って苦笑いした。
「それが良かろう♪お主もまた知恵を捻り、新たな商売の仕方を考える機会とするが良い。物は考えようと言うものだ。成長の切っ掛けとするが良いぞ♪」
そう諭しながら、愉快そうに笑っている。
白夆は苦笑いしながらも、
『この人が一緒で良かった…危ない所だった。まだ私にはツキがあるようだ…(^_^;)』
そう想いながら、内心は冷や汗を搔いていた。
やがて秦初たちの順番が来て、関の役人が「次!」と言って顔を挙げる。
するとチラリと一瞬顔を向けた途端に、慌てて姿勢を正し直すと、
「此れは秦初様…お帰りなさいませ。」
そう言うと、いかにも解せぬと言った表情をした。
「毎度同じ事を言う様で恐縮なのですが、一言声を掛けて頂ければ、列に並ぶ必要など無いと思うのですが、なぜ並ばれるのですか?」
役人はかなり困った…という顔でそう口にした。
その言葉を受けて、秦初は苦笑いをしながらも、此れにこう応えた。
「毎度お前たちには悪いと思っている。それは本当だ。貴族でも最高位の卿の子息は検問を受けぬ決まりだからな…だが、私はそういうのはスカンのだよ…しかも今回は客人を連れている。我が秦がしっかりと対応している所を見せねばならんのでな…」
「判りました。そういう事ならお受け致します。それでそちらの方はどういったお方なのですか?」
秦初は白夆の方を向きながら、
「公札を出しなさい…」
そう言って白夆に公札を示させた。
「こちらの方は魏の方ですか…御用向きは?」
「私は商人です。こちらは始めてですが、どの国でも日用品は売れます。御用向きがあるかどうかの、今回は下見という訳です。」
商人と聞いて役人はちょっと嫌な顔をする。
しかしながら、秦初の連れとなると余計な事はなるべく言いたくない。
それに商人を入国させてはいけないという法も無い。そんな事を言えば此の列の殆どがそうだ。
通過するかしないかの違いだけである。
「滞在期間は?」
「そうですな…当面ひと月くらいですかな。」
「いいだろう…但し申告を越える場合は役所に追加申請をしてくれよ。通って良し!」
役人はチラッと秦初を見つめると『此れで良いですか?』と苦笑いしている。
「世話を掛けたな…」
秦初はそう役人を労いなら、
「趙良は知っているな…此れは私と奴の公札だ!」
そう言って札を見せると、役人は手を横に広げて、門内を示しながら、『どうぞ♪』という身振りを取った。こうして無事に三人は門を通過する事が出来た。
門はかなり分厚く出来ており、重厚な構えを見せている。
門を抜けると、目の前には新しい景色が見えて来た。
道幅は割とあるとは思うが、それを囲むように左右から競りだしている峡谷が高い。
まるで擂り鉢の中を歩いている様な感覚に陥る。
それが何とこの先ずっと約3kmに渡って続いているため、かなりの閉塞感を感じるのだ。
「若君が仰っていた事がようやく判った様な気がします。」
白夆は左右の峡谷の見事さに感心しながら、上を眺めている。
「此れは凄い光景ですな…私も今まで色んな所を旅して来ましたが、こんな心細くなる所は始めてです…」
此れはこの時代ならではの感想だろう。
現代人の我々が同じ所を歩く場合、落石などに依る事故については考えるに違いない。
或いは、『あの高さから落ちたら死ぬ…』そういった恐怖には駆られるかも知れないが、彼のいう恐怖とはまた別の心配に依るものである。
そう…この先続く渓谷の上から矢による攻撃は勿論の事、大木や大岩などが落とされたなら、確実に助からない、そういった意味である。
騎馬隊で走り抜けるの成らば、一度や二度なら運良く逃れられるかも知れないが、この先3kmに渡って逃げ切れるとはどうしても思えなかった。
さらに此れ程の高さは無いにしても、その後に5kmの断崖はまだ左右に続いて行くのである。
合計8kmにも渡る渓谷の美は確かになかなか拝めるものではないから、物見遊山の気持ちであるならば、なかなか情緒はあるかも知れないが、戦国時代のこの時期の人間にとっては、ある意味死に物狂いで越えなければならなかっただろう。
検問の厳しさも行く手の厳しさも、日本では箱根の山に喩えられる。
箱根の山は天下の険
函谷関も物ならず
万丈の山 千仞の谷
前に聳え後に支ふ
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす…(以下略)
「箱根八里」という唱歌で我が国に函谷関の剣呑さを広く知らしめた一如となっている。
いみじくも白夆が想わず口に出した様に、
『こんな心細くなる所は始めてです…』
この一言がその場の様子を如実に物語っていたのではないだろうか…。
皆、その言葉を聴きながら上を眺めている。
そんな時だった…ふと気がつくと、雲の切れ間から白い粉雪がフラりフラりと落ちてきて、三人の顔や肩にあたって、想わず手で払うと、すぐに気化して水滴に変わった。
『積もるかも知れんな…』
険閣の隙間を縫うように、次から次へと谷底に舞い散る粉雪を眺めながら、秦初は想った。
「殿…急ぎませんと(^_^;)))」
趙良はいつの間にか肩口の傍まで寄って来て、ボソッと小声で呟いた。
秦初は二人を振り返ると、
「先を急ごう…降り積もる前に険道は抜けた方が良かろう…」
三人は馬に鞭をいれると、秦の都・櫟陽に向けて颯爽と走り出した。




