その名は衛鞅
若くして後事を託された孝公には、秦を中原の列強に負けない豊かな国にする夢があった。
孝公は、中華全土に眠る在野の逸材を求めて、募集をかける。
秦を豊かな国にするための、具体的な方策を提言出来た者を、秦で政治に参与させるというものだった。
中華全土から、若くして才能豊かな者たちが、自身の提言を胸に秘め、続々と秦の都・櫟陽に集まって来る。
その中に衛鞅という青年が居た。
彼は元は衛という国の公子だったが、衛に居ても先が無い。
当時の王族の子供たちは、跡継ぎの太子以外は公子と呼ばれていたが、その中でも、衛鞅の様に後継順位の低い者たちは、少ない食い扶持を貰い、一生芽が出ない日陰の身となる者が少なくなかった。
彼は一念発起して、魏国に居を移し、士官する事にした。
そしてたまたま彼の才能に気がついた丞相・公叔座に目をかけられて、能力を発揮し、中庶子まで出世する。
ところが才能にかけては文句無しだが、一本気な性格ゆえに融通が効かない。
自分の信念をけして曲げずに、ズケズケとした物言いをするため、上司や同僚には完全に煙たがられてしまっていた。
それは例外が無く、魏の恵王にも同じ態度で望んだため、いくら公叔座のお気に入りであっても、面白いはずがない。
顔を見るだけで拒否反応を示す様になった王からは、徐々に敬遠される様になっていった。
それでもまだ公叔座の庇護があるため、務まっていたのだが、只ひとり衛鞅を心配し、味方になってくれていた彼も、拠る年波には勝てず、やがて病の床に臥してしまった。
恵王は公叔座を見舞い、彼がもう永くない事が判ると、後継者を誰にするべきか尋ねた。
はじめ公叔座は恵王の様子を伺いながら、言い淀み、言葉を控えた。
それでも恵王は諦めずに、公叔座に再び尋ねたため、彼は仕方なく口を開いた。
『魏の国には現在適当な人材がおりません。強いて挙げるとするならば、我が弟子・衛鞅でしょう。彼は現在まだ中庶子ですが、王の格別の計らいを以て、丞相に抜擢し、彼を用いるほかありませぬ。彼を抜擢するならば、きっとご期待に応えるでしょう。ただ彼は直言の士です。もし王が彼を用いないのでしたら、彼を絶対に魏から出してはいけません。必ずや魏に災いを及ぼします。殺すべきでしょう。』
それを聞いた恵王は、この時驚きの余り、
『それ程なのか?』
と反射的に聞き返したという。
恵王にしてみれば、小うるさいだけの輩としか見ていなかった衛鞅が、公叔座の評価では、丞相に抜擢し得る人材と言われたのだからびっくりしたのだろう。
衛鞅は師の公叔座が病に臥していると聞き、見舞いに訪れた。
公叔座は恵王から、自分が死んだら誰を後継者に選べば良いか尋ねられたため、衛鞅を推薦した事を伝えた。
そして、恵王が衛鞅を選ばない時には、殺すように指示した事も隠さなかった。
公叔座としては、魏国の国益は考えなくては為らないが、かわいい弟子を殺すのは忍びなかったため、その狭間で苦しんでいたのだろう。
公叔座は早く魏国を離れ逃げる様に衛鞅に伝えた。
ところがそれを聞いた衛鞅は、公叔座に安心するようにと応えた。
『陛下が先生の推薦を用いないのでしたら、先生の指示も用いないでしょうから、私は命の心配をする必要も無いでしょう。』
衛鞅は公叔座に『お大事に…。』と言い引き上げた。
その数日後に公叔座が亡くなると、果たして恵王は思った通り、衛鞅を用いなかった。
公叔座が病の床で、もはや的確な判断が出来なかったのだと、恵王は考えたのであった。
そのため、衛鞅を殺す事もする必要が無かったのだろう。
結果、衛鞅の予測した事が正しかったと証明されたのであった。
ところが、恵王には不問に付された衛鞅であったが、日頃から衛鞅の物言いに含むところがあった同僚たちは、公叔座の庇護が無くなった衛鞅に容赦しなかった。
この機会に衛鞅を陥れようと、依って集って恵王にある事無いこと讒言したため、結局は罪に陥れられそうになり、逃げる羽目になった。
この時に衛鞅の脱出を手伝ってくれたのが、魏の商人で、中華を叉に駆けて商いを営んでいる女主人であった。
彼女は魏人であり、常日頃から衛鞅の才能を個人的に高く評価していた。
『この方は将来きっとその才能を開花させるに違いない。』
彼女はそう感じていたため、自分の信念に忠実に行動したのである。
その行動力が、衛鞅を救った。
衛鞅は彼女の商団の行商人に紛れ込み、無事に魏国を脱出する事が出来た。
そして秦国内に無事に逃れると、商団の女主人は、
『いずれまたお会いする事がありましょう。それまでお元気で♪』
と別れの言葉を伝えて去って行った。
後にこの女性が衛鞅の妻となる事になる。
ただこの時は、お互いにまだそんな運命に気づいていなかった。
衛鞅は去って行く彼女の後ろ姿を眺めながら、その姿に感謝の意を込めて頭を下げた。
そして、気持ちを切り換えると、これから待ち受ける新しい可能性を思い描きながら、踵を返して歩き出した。
行く手にはどんな試練が待ち受けているのだろうか?
衛鞅の心は弾んでいた。
その挑戦を待ちきれずに気持ちが逸っていた。
衛鞅は知らないが、そんな彼の背中を、いつの間にか振り返って見おくっている、女主人の姿があった。
彼女は衛鞅の姿が見えなくなるまで、その後ろ姿を見おくっているのだった。
彼女の名前は白雪と言った。