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臥せる景監

一方、景監は黒龍におぶられたまま、ようやく帰宅する事が出来た。


黒龍が館の扉を強く叩くと、突如バタバタと音が近づいて来て、「どなたですか?」と女性の声が聴えた。


心無しか声が震えている。


黒龍は、穏やかな声でこう答えた。


「私は君主様の家宰頭で黒龍と申します。景監殿をお連れしました。」


すると慌てたように門扉が開いて、中からは、可愛らしい笑窪(えくぼ)の娘さんが飛び出して来た。


恐らく今の今までずっと泣いていたのだろう。


泣き腫らした顔をしており、目が真っ赤に充血している。


娘は黒龍の背中に景監がおぶられているのに気が付くと、


「主人はどうかしたのですか?」


と聴いて来た。


『こりゃまた参ったな…こんな可憐な娘さんが景監殿の想い人とは…かなりまだお若いのではないかな…』


黒龍はそう想いながら令狐を観察していた。


恐らくは昨晩何の連絡も無く、戻って来なかった景監を一晩中心配していたに違いない。


せっかくの可憐な容姿が泣き崩れたために歪み、肩は震えていて、心ここに在らずという感じを受けた。


また、黒龍の背中で臥せっている景監を見た瞬間、驚きの余りその声は裏返ってしまっており、それは(あた)かも、甲高い叫び声にも聴こえた。


かなりショックを受けたのだろう。


此のままだと、娘さんまで癲癇(てんかん)を起こしかねないと判断した黒龍は、


「大丈夫!命に別状は在りませんから、まずは落ち着いて頂いて…寝床に運びましょう。案内して下さい。」


そう言って、娘を落ち着かせると、案内された床の傍に運んだ。


そして、ひとまず囲炉裏に火を入れさせて、部屋の中を暖かくすると、娘さんにも手伝わせて、景監の身に付けている簑や菅傘を外す作業に入る。


特に簑は三重に着せているので、まるで肥えた力士の様に見えた。


此れは景監の体温を下げない様にする為に、孝公と黒龍が自分達の簑を脱いで、景監に着せた為なのであるが、此のまま着せて寝かす訳にもいかない。


第一、皮膚呼吸の妨げになるから、屋内で暖を取れる状態であるなら、脱がせた方が良い。


あくまでも、道中の苦肉の策といったところであった。


「娘さん、酒があるなら温めておいて下さい。冷えた身体を少しでも温める(かて)に成りましょう。あと、部屋着を二着用意して下さい。重ね着させましょう。なぁに、身体が温まったら後で脱がせれば宜しい。今大切なのは体温を下げない事です。」


黒龍がそうお願いすると、娘さんは急いで部屋着を二着持って来て置き、その足で酒を土瓶に摘めて持って来ると、囲炉裏の上に吊り下げた。


その手際の良さは、先程まで混乱していた人とは思えない程、的確だった。


彼女も彼を助けるために、それだけ必死なのだ。


黒龍は簑を三着分脱がせると、今まで着ていた服も全て剥ぎ取り、その身体を拭いてやって、令狐が用意してくれた部屋着を二着分重ね着させると、よっコラしょと景監を寝床に寝かせた。


ちょうどその頃合いで、酒も温まったらしく、令狐が器に移して持って来る。


それを二人掛かりで、景監に少しずつ飲ませると、彼の口唇や頬からはだんだんと赤身が指してきた。


「もう大丈夫でしょう。後はゆっくり寝かせて、身体を回復させると宜しい。私は医者では無いが、君主様の家宰として長年仕えて来て、ある程度の処置は出来るから信用なさい。後はゆっくり面倒を観てやると良い。それが景監殿にとっては、一番の薬に成るだろう♪」


黒龍は令狐にそう言うと、元気づける様に、優しい笑顔を見せた。


寝床を観やると、景監はスヤスヤと眠りに着いた様である。


こうして、ひとまず落ち着くと、令狐は訳を知りたがったので、黒龍は食卓の机を挟んで座ると、状況を説明してあげた。


まず景監が行き先を言わなかった事、そして無断外泊をした事に触れた。


「行き先を言わなかったのは、国の大事な職務のためです。景監殿は我が君の側近ですから、口止めされた以上は言えなかったのでしょう。それだけ彼が我が君に信頼されている証なのです。また無断で外泊をしたのは、目的地で大雪と吹雪に閉ざされてしまい、身動きが出来なかったからで、それは連絡も出来ぬ程の状況だったのです。外に出ては命の危険が在ったためでやむを得なかったとお考え下さい。けして貴女を(ないがし)ろにした訳では無いのですよ♪彼を信じてあげて下さい。彼は我々にも、おのろけを言う程、貴女を愛しておられますから、心配要りません。」


黒龍はそう言って令狐を安心させてやった。


令狐はその話を聴いて、少し安堵の色を見せていたが、再び心配そうな顔をすると黒龍にこう尋ねた。


「君主様のお役目とはこんなに成る程、危険なのでしょうか?私はそれが心配なのです…」


黒龍はその問いには真摯に応えなければ成るまいと想った。


確かに今回は命懸けの職務という訳では無かったが、我が君の改革を担う以上はいつ何どき危険な目に逢うか判らない…そしてそれを避ける訳にも行くまい。


何しろ側近である以上は、我が君の盾と為って、代わりに死ぬくらいの覚悟が無ければ、その任は務まるまい。


しかしながら、今ここでそれを説明するのは適当では無いし、自分の役割でも無い。


それは景監殿が我が君の側近として、またこの娘さんの夫として、今後の暮らしの中で彼女に直接、説諭する事であり、自分が出しゃばる事ではなかった。


そこで黒龍は、景監の尊厳を傷つけない様に気を配りながら、今回の件の説明をする事にした。


『まさか…浮かれて自分で雪の山に嵌まり込んだなどとは言えまい(;^_^A…』


黒龍は口許に右手を遣りながら、ゴホンと咳き込むと、こう説明を行った。


「実は帰りの道すがら、雪道に倒木が横たわっておりましてな…それは(あた)かも雪に埋もれて見えなかったのです。景監殿はその時に先導して歩いていましたので、倒木の細木に足を取られて、前につんのめり、舗装されていない雪の山に足を取られてズボッと腰まで浸かりました。我が君と私は慌てて彼を助け出しましたが、身体は冷えきって居て、体温が失われる懸念が有りましたので、二人で簑を脱いで、彼に着せて連れ帰った次第です。けして危険な職務では無く、不可抗力に依る事故だったのですよ…」


黒龍はそう伝えると、大きく息を吐いた。


令狐は両手を口許に充てて一瞬悲痛な顔をしたが、今は体温も安定してきて、スヤスヤと眠る景監の姿にチラッと視線をやると、可愛らしく吐息を吐いた。


諦めにも似た複雑な境地である。


景監が軍人であり、国の当主の側近である以上、時には身の危険に見舞われる事は覚悟していた。


常日頃から、軍人の妻に成るとはそういう事なのだと、夫にも説諭されている。


『それが耐えられないならば、私と添うのは諦めて、然るべき人を見つけてやろう。軍人の妻と成るとはそういう事なのだ…』


令狐は景監の言葉を思い出しながら、気持ちを強く持たなければ成らないと腹を括らざるを得なかった。


彼女は黒龍の献身的な振る舞いに感謝を示した。


それに応える黒龍の態度は一貫していた。


「なぁに…彼はまだ若い。此れからは我が君や景監殿などの世代がこの国の将来を造って行かねば成らんのです。この老体が少しでもその一助に為れば、それに優る喜びは御座らん…」


黒龍はそういうと、令狐にも言葉を添えた。


「貴女も今後、御苦労が色々とある事だろうが、景監殿の心の支えと成れるのは貴女しか居ないのです。景監殿も貴女も結局、最後に頼れるのはお互いの存在なのだから、仲良く寄り添って幸せに為って欲しいと願っていますよ♪」


黒龍はそう述べているが、この当時の秦国はまだまだ発展途上の貧しい時代である。


この二人の行く末が果たしてどうなるのかは、この時点では誰にも判らない。


只ひとつ言えるとすれば、孝公や景監、衛鞅などの若い世代が、この状況を打開出来る可能性を秘めているのだと、黒龍は想った。

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