公主・蘭玉
孝公が内門を通って、居室に戻る回廊を歩いていると、居室の前にひとり佇む女性の背中が見えた。
孝公は少し驚いたものの、笑みを浮かべると、
「蘭玉、お前ここで何をしておる…?」
そう言いながら、歩み寄った。
女性はその声で振り向くと、一瞬喜びの表情を見せたものの、次の瞬間には溜め息をついて、『呆れた』と言わんばかりに、
「何をじゃあ有りませんよ…兄上こそ連絡も寄こさずに、今の今までいったいどこに居らしたのですか?」
そういうと、興味津々といった呈で悪戯っぽく笑った。
孝公はそう言われて始めて、事の次第に気づいた様に、
「それはすまなかった…実はな…」
とそこまで言うと、急いで左右を見廻わす素振りを見せた。
そして、辺りに誰もいない事を確認した上で、話しを継いだ。
「実はな…黒龍の案内で、子規殿の邸に訪問していたのだ。色々と相談があったゆえな。ところが、生憎の雪で帰る事が出来なくなってしまったという訳だ。吹雪も酷かったであろう?さすがにああ為ってしまえば、あそこは陸の孤島だ。使いを出せば出したで死人が出るから、昨夜は大人しく子規邸で過ごしたという訳だったのだ。そもそも隠密で内々に行う必要があったのだから、私としては、やむを得ぬ行動だったのだが、心配をかけてすまぬ…」
そう説明を終えると、蘭玉は成る程、納得といった顔をしている。
(;^_^A因みに蘭玉とは孝公の三歳離れた妹である。
そして蘭玉は日頃は皆から『公主様』と呼ばれている。
公主とは、君主の妹や、時には娘を差す事もあるが、要するに公族の女性の事だ。
因みに君主の妻のことは妃或るいは、夫人という。
そして、君主の母親は大后という事になる。
公主蘭玉は母親である大后と今も一緒に暮しており、未だに嫁ぐ気は無いらしい。
その蘭玉も宗室の一員であるから、子規が父・献公の時の相国である事は知っており、現在は引退して誰とも会わない事も知っている。
だから兄の話しを聞いて、昨日突然、黒龍を迎えに来た訳も直ぐに理解したのであった。
「私は物判りが良い方なの!それは兄上も知っているでしょう?だから兄上の元気な姿を見ればそれで安心するし、済む話だわっ♪ でもね、母上は、それはそれは、ご心配に成ったのよ…謝るなら母上に仰って?」
孝公は、「(^-^;!!」と即座に事の重大さを理解した。
すると、孝公の居室の中から、大后が心配そうな顔をしながら、姿を現わしたのであった。
「これは母上、御心配をおかけしてすみませぬ…」
孝会は直ぐに頭を下げて謝った。
しかしながら、さすがは大后というべきである。
大変心配していたであろうに、落ち着きを取り戻すと、
「話しは聞いていました。貴方の元気な顔が見れて安心したわ。それで子規殿とはお話しは出来たのかしら?」
そう言って、優しく微笑んでいる。
孝公は、
「はい!お陰様で本音で話す事が出来ました。詳しい話しは差し障りがあり、お話しする事は出来ませぬが、成果は得たと思っております。」
そう応えるとニッコリ笑って母親を見た。
大后はその息子の顔をジーッとしばらく見つめていたが、やがてゆっくりと相槌を打つと、
「渠染、貴方は私の息子ではありますが、今や此の国の君主なのですから、自分の信じた道をお行きなさい。私は貴方を信じていますよ…。伝えたかったのは、それだけです。疲れたでしょうから、少し身体を休めなさい。では蘭玉、行きますよ!」
大后はそう言うと、蘭玉の手を取って、いそいそと引き上げて行った。
「母上、ありがとうございます…」
孝公は引き上げて行く母の背中を見えなくなるまで 見送っていた。
『さて、少し寝ようか…』
孝公はそう想いながら踵を返すと、いつの間にか居室の扉の陰から、買蔣の顔がニョキッと出て、心配そうにこちらを見ている。
孝公は苦笑してしまった。
恐らく話しの顛末はこうだ。
今回は隠密の道行きだったので、景監以外は行き先を知らない。
但し、買蔣には、大后様に会って来ると告げていたので、帰らぬ主人を心配した買蔣が、大后様に泣きついたという訳なのだろう…。
孝公は笑いながら、
「買蔣、そんなにビクつかなくとも良い!」
そう言いながら手招きして、
「叱らないから、出て来なさい!」
そう言って安心させてやると、買蔣はまだ少しオドオドしては居たが、仕方が無い…という仕草で扉の陰からようやく現れた。
孝公はそんな買蔣に、優しく諭すように語り掛けた。
「お前は私の身を心配して、打てる手は打ってくれていたのだな。有り難う…さすがは私の家宰だ。」
そう言って買蔣の気遣いに礼を述べた。
そして、
「お前にも心配を掛けたな…すまない。」
と素直に詫びた。
買蔣は恐れ多いと言わんばかりに、恐縮しているが、"要らん事をした"と怒られるかも知れぬとビクついていたので、少し拍子抜けした後に安堵したのである。
ひとまず買蔣の誤解は解けた様なので、
「しばらく寝たい。夕刻までは起こさぬように!」
そう命じて、居室の奥に消えた。
孝公は寝台に倒れ込むなり、連日の疲れからか、いつの間にか寝てしまった。




