灯台下暗し
景監の気持ちのこもった言葉と歯切れの良い誓言を眺めていた黒龍は優しい笑みを浮かべている。
自分が太子様から手を離した瞬間の不安から来る憤りや悔やみから、大后様付きになった後も太子様の行く末を按じていた黒龍は、景監の言葉を聞いて安堵していたのである。
『私が居なくても太子様の周りでは、景監殿の様な若い力が育っていたのだな…あの時は後悔の念が深く胸に突き刺さっていたものだが、結果としては此れで良かったのかも知れない。』
黒龍は景監の気持ちを込めた言葉に依って、そういった境地に到る事が出来たのであった。
そして今後自分にしか出来ぬ事には身体を張ってでも此れを果たすが、なるべく自分は目立たぬ様に影に控えて居て、若い者たちを育てて行く事こそが、自分の役目になるのではないか…そう想ったのだった。
『当面は買蔣を育てていかねばな…』
そう黒龍は感じていた。
一方孝公は、景監の力量を見抜き、自分の誤った方向性に鋭く切り込んできた子規の言葉を噛み締める様に胸に刻むと、改めてその優しい眼差しを受け止めながらこう応えた。
「叔父上のお陰でこの渠梁、目が覚めた様な心持ちが致します。今日は本当にお逢い出来て良かった…大変感謝しております。」
彼は子規に自分の心の変化を素直にそう伝えた。
子規はそんな甥を愛おしく見つめながら、
「それは良かった…この老体も貴方に何かを伝られたのでしたら、お話しした甲斐があったというものです♪」
そう言いながら、自分を直ぐに改める事の出来る君主としての甥の力量に深く安堵していたのである。
そして今ならばこの甥に伝えるには頃合いではないかとそう感じたのか、意を決した様に話を続けた。
「若君…いや我が君、私にはもうひとつの提案があるのですが、聞いていただけますでしょうか?」
子規はそう述べると、孝公の顔を真剣に見つめた。
孝公は子規のその改まった態度に、気持ちの強さを感じたため、身を引き締める様に襟を正すと、
「無論です…是非ご教授いただきたい!」
そう応えると、こちらも子規に真剣な眼差しを向けた。
そんな甥を頼もしく眺めながら、子規は口を開いた。
「宜しいでしょう…此れから申し上げる事は、今後の貴方にとっては大事な事だと私は想っています。些細な事の様に普段感じている事が、実際にはとても大切なのだという事がお分かり頂けるのではないでしょうか?」
子規はわざわざ念を入れる様にそう言うと、少し間を置く様にほくそ笑んだ。
そして改めて確かめる様に甥の顔をまじまじと眺めると、こう言葉を継いだ。
「我が君、貴方は先ほど…私に逢い、言葉を交わせた事に感謝していましたね?それは私も同じ想いを感じております。それは間違いでは在りません。しかしながら、貴方は今ひとり大事な理解者の事をお忘れでは在りませんか?如何です…」
子規は勿体振りながら、そう告げた。
『??』
孝公はそれが『はっきりとした提案』ではなくて、『自分に対する問い掛け』として伝えられた事に、少々戸惑いを感じていた。
『叔父上はいったい何を仰りたいのだろう…?』
彼は想いつく限りの考えで頭の中を巡らせながら、少し考え込んでいた。
そしては端としてある事に閃きを感じると、その想いをそのまま素直に口に出した。
「叔父上!叔父上はもしかして兄上の事を仰っているのですか?如何です…」
孝公は俯いて考え込んでいた頭を上げるや、子規の顔を見上げながらそう答えた。
子規は「フッ」とほくそ笑むと、
「御名答です…嬴虔様の事です。私はあの方こそ、貴方の一番の理解者であり、貴方の心の支えに為って下さる方なのだと想っています…」
そう言って、相も変わらぬ優しい眼差しで甥を見つめている。
孝公はその言葉を反芻しながら、再び考え込んでいた。
『確かに兄上は立派な方だ…それは私も理解している。そして戦では常に先頭に立ち、比類無き戦果を挙げられて来た。その大丈夫たる姿は常に他を圧倒し、並ぶ者など居らぬ。あの気高さやその強き心は海の様に広く、山の様に大きい兄上の懐の深さから来ているのだと感じる。私も兄上の持っている強靭な心と身体があったなら…そう感じたものだ。しかしながら、兄上はどちらかというと保守的な考え方の御方だと私は想っている。だからこそ、改革の方針には添わないと思い、相談して来なかった。だが、叔父上はそれは違うと意見されている様だ?私が誤った見方をしているのだろうか…』
孝公はそう疑問を感じていた。
するとその考えをも織り込み済みだったかの様に、子規は悩める甥に優しく語り掛けて来た。
「我が君!私がなぜ潔く引退の道を選べたのか…それが貴方には判りますか?先代・献公様が亡くなった時に、私にはまだまだ遣り残した事が実際、山の様に沢山在ったのです。この国の行く末を真に憂いている者の中には、私の続投を望む声さえ多々ある中で、私が清々しいくらいに身を引く事が出来たのは、貴方という聡明で我慢強い気持ちを持った後継者がいたからなのです。そして、その貴方を支える事が出来るであろう嬴虔様の存在が大きかった。あの方は確かに少々他人を侮る嫌いはあります。しかしながら、戦場で培った声望とその影響力、そして強き心と懐の広さは侮れませぬ。そして何より、あの方は貴方に一目置いております。何故か…それは彼が貴方に有って、自分には無い特別な才能を貴方の中に感じているからでしょう。貴方には他人を労り、痛みの分かる優しい気持ちがあり、それがこの国を今後変えて行く大きな手立てとなる…そう感じているからなのだと私は想っています。そんな二人が今後、協力して事に当たれば、自分の出番はもはや無かろう…私はそう想ったからこそ、潔く身を引く事が出来たのですよ♪」
子規は何の迷いも無いと言わんばかりに、はっきりとそう述べた。
孝公はその話を聴きながら、子供の頃の事を思い出していた。
『兄上は私が叱られている時にはよく私を庇ってくれた…そして私が弱気に為っている時には励ましてくれた…また私の事を事ある毎に助けてくれた…』
考えてみるに、此れまで兄にどれだけ助けられて来たのだろう…。
『確かに叔父上のいう通りかも知れぬ…私もまだまだだな。良し!ここは素直に叔父上の言葉を入れて、兄上に一度直に会って御相談してみよう…』
孝公はそう決断すると、その眼には希望の光が宿っていた。
そして子規の眼差しを見つめ直すと、こう応えた。
「叔父上の御言葉肝に命じます。一度兄上に直にお会いして、御相談してみようと思っています。」
子規は愛すべき甥が、自分の意見を汲んでくれた事に安堵していた。
恐らく嬴虔は、若君の改革に対して真摯に向き合ってくれるに違いない。
「よくご決心なされましたな…それが宜しいでしょう♪私には貴方達が手を取り合って改革を成功為される姿が目に浮かびます。よくお話し合いに為って、ひとつずつ問題を解決されると良いでしょう…」
そう言うと、大きく口から息を吐きながら、
「此れで私の心残りも無くなりました。後はあなた方次第です。衛鞅殿や景監殿、若い世代の方々と一緒に悩みながらも、自信を持って事に当たると宜しい。先の事は誰にも判りませぬ。必ずしも順風満帆とは行かぬでしょうが、皆で協力しながら是非、この国を良くして行って下さい。私も陰ながら見守っております。そしてどうしても困った時には、また相談にいらっしゃい。その時には、この老体で役立つ事なら喜んで遣らせて頂きましょう。」
子規はそう述べると窓の傍に寄って行って外を眺めた。
外はいつの間にか吹雪になっており、銀杏並木は勿論、雪に覆われていて、一面が真っ白に染め上げられて、他には何も見えなかった。
孝公は重ね重ね、丁重にお礼を述べて感謝の気持ちを表した。
景監や黒龍も頭を下げている。
子規はそんな彼らに優しくこう告げた。
「どうやら外は吹雪いて参りましたな…今夜はここに泊まって、明くる朝、早くに引き揚げられると宜しい。さすれば互いに難を逃れられて良いでしょう…」
外界を包む激しい吹雪は、人の営みの垢や穢れを拭い去るかの如く、相も変わらず降り注いでいた。
雪は激しい吹雪の噴霧により、到るところを容赦無く白く染め上げて行く。
あたかも若者たちの行く手に試練を与える様に、その激しさは増して行くので在った。




