子規の助言
やがて静寂は破れて、子規は意を決した様に口を開いた。
「良く此れだけの草案を練られましたな…良く出来ていると、この子規…感銘を受けております…」
そう述べると、子規は吐息を尽いた。
『此れだけのものを構築しておきながら、若君がわざわざ忠告を求める意図とは何で在ろうや?…恐らくそれは唯々、一点にこそ在るのだろう…』
それが子規をして溜め息を洩らした点であった。
孝公は、叔父上が評価してくれた事を素直に喜んだ。
小上造となり、献公に依って国の相国(★丞相の意)に任命されて、長らく政権の運営を担ってきた実力者の言葉は、自然と受け入れる事が出来る。
「有難う御座います。叔父上にそう言って頂けると自信が持てるというものです。」
孝公はそう感謝の意を表した。
しかしながら、合わせて同時にこうも想っていた。
評価をしたその言葉とは裏腹に、子規の顔が浮かない様にも見えたためである。
それはまるで何かを心配している様に、孝公には見受けられたのだ。
『叔父上はもしかすると、私と全く同じ懸念に思い当たったのかも知れない…』
彼はそう感じて少々言葉に詰まってしまった。
子規はそんな甥の有り様を横目で眺めながら、
『ほぉ~!我が溜め息を理解したか…やはり聡明な方だな。私も所作には気を配らねば成るまいよ…』
そう感じて助け船を出す事にした。
子規がいみじくも孝公と同じ懸念に到達したのは、ある意味自然の成り行きである。
彼は当代で宗主の嬴氏から抜けて子家を起こした人物である事は先に述べた。
即ち、宗主としての立場から物を見るという事が出来た訳で、此れは彼が子家を起こした後も、政権を担うに当たって、献公の心の有り様を推察し、中央集権化を推し進める上での利点にも為っていた。
子規は気持ちを改めて切り換えると、懸念して歪んでいたで在ろう心持ちを正し、笑みを浮かべると孝公に気遣いを見せた。
「若君!貴方の懸念は判ります。私も元々は宗主の一員でしたからな…恐らくはこの新法を発布する事に依る反発を怖れての事なのでしょう。ですが、それは改革者を常に悩ませる問題なのです。貴方だけが直面している事では無いのです。各いう私や貴方の父君・献公様もそれは経験されています。現実は厳しい。何かを改めたり、新しい考え方を押しつけたりする場合には、少なからず反発は受けるものです。それが受け手に取っては、むしろ当たり前の行動であり、感情です。それをいちいち一身に受けて、自分だけで受け止め様とするのは、むしろ傲慢というもの。貴方の責任感や正義感は良く理解出来ますが、現実は皆で受け止め、受け入れれば宜しい。貴方は衛鞅という駿馬を手に入れられたのだから、彼をもう少し信用すると宜しいのです。恐らく彼はそれだけの覚悟で此れを草案したのでしょう。よくよく覚悟を決めねば、此れだけのものは示せませぬ。彼は矢面に晒される事を十分に念頭に容れておりましょう。改革を成功させる為には、ひとえに彼を信じ、貴方が彼を守って遣らねば成らない立場で在るのは、明白です。その貴方自身が悩んでいてどうします?無論、人外の者では無いのですから、人としての心は有りますし、どうしても感情に左右される事も在りましょうが、この施策を作り上げた時の、初心をいつまでも忘れぬ事…此れさえしっかりとして居れば、恐らくこの先も乗り切れる事で御座いましょう。私の言っている事が、聡明な貴方にならば判ると存じます。どうか心安らかに、信念を曲げぬ強い心を持って、目的を達せられますよう願ってやみません。」
子規は強く激しい気持ちを込めながらも、その言葉の端々には優しい気遣いを忘れず、堂々とした姿勢で、その言葉を愛する甥に告げた。
それはある意味、改革を決意した甥に対する贈る言葉で在った。
孝公はその強く、そして心のこもった言葉のひとつひとつに、押し潰されそうな位に塞いでいた心の有り様が、少しずつ氷解して行くのを感じ取っていた。
『この方は何て凄い、心の強い持ち主なので在ろうか…父上がこの子規という人物を自分の善き相談相手として、政権の重責を任せていた気持ちが、今に為ってようやく理解出来た…』
孝公はそう想いながら、衛鞅が最後にいみじくも自分に訴えていた、あの言葉を思い出していた。
『…それにこの先、此れまでとは比較に無らない様な試練が、待ち構えている事で御座いましょう。君臣一体となって事に当たらねば成りませぬ。御存知の様に私はこの秦では新参者に過ぎません。君主様だけが頼りなのですから、それをゆめゆめお忘れ無き様に…』
『成る程…衛鞅は確かにそう言っていた。あれは今、叔父上が私を諭された事と相通じておる…衛鞅と叔父上は君の直臣という立場でも同じだが、考え方にも似たような所が在るのだな…叔父上の仰る通りかも知れん。』
孝公は再び初心に戻る事に決めた。
勿論、自分ではそもそも初心を忘れる様な事は無かったと今でも信じている。
…信じているが、どこか途中で欠落した気持ちが在ったのかも知れないと、改めて気持ちを引き締める事にしたので在った。
「叔父上、御言葉…強く心に刺さりました。私はもう迷いませぬ。必ずや衛鞅を始めとして、景監や黒龍、そして自分の信ずる気持ちを大事にしながら、必ず改革を成し遂げて見せまする。どうか叔父上も温かい心で見守っていて下さい。叔父上の熱き心のこもった御言葉、この渠梁けして忘れませぬ。感謝致します!」
孝公は子規の顔をまじまじと見つめながら、拝手して、深々と頭を下げた。
子規はそれに応える様に、ウンウンと頷きながら、再び目頭を拭った。
その目からは大粒の涙が光っていた。
景監はそのやり取りを眺めながら、瞼に熱いものを感じていた。
黒龍は人目も憚らず、両の目から涙していた。
何充はあれ程に嫌がっていた主君が、真摯に向き合っているのを見ていて、やはり心に燻られている『心残り』が主君には在ったのだと感じていた。
子規は潔く身を引く決断をした様に見えて、自分の遣り残した次世代への遺産を、どうにかして伝えたいという想いが在ったのだと感じたからである。
それが証拠に、引退された後も、各国の情勢を調べたり、他国の改革の有り様を調べたりしながら、知識を蓄積されていた。
『あれは恐らく自分の趣味でも在るのだろうが、次世代、つまりは渠梁様に伝える意志のため…なのだろう。』
何充は今自分の前で繰り広げられた二人のやり取りを眺めながら、彼なりにそう解釈したのだった。
雪は未だに津々と降り続いており、止む気配は無かった。
『どうやら先は長く成りそうだから、夕げの支度も念頭に置かねば成るまい…』
何充はそう想いながら、只ひとりひっそりとその場から抜け出した。
下男達に采配を伝えに、歩く廊下は冷え切っており、身体の芯に強く刺さった。
吐く息は白く、歩きながら後ろに流れて行った。
★注…この時代はまだ丞相という位は作られていない。




