お気の毒な景監
呆然自失からようやく抜け出した孝公は、すぐに家裁に命じて景監を呼び出した。
景監は、『おっ!早速効果のある方針が決まったのかな?』と"主の喜ぶ顔が目に浮かぶ"と嬉しくて仕方がない。
そそくさと足も軽やかに参上すると、予想に反して頭ごなしに怒鳴りつけられたから堪らない。
景監は驚きの余り、目が点になって立ち尽くしてしまった。
「何だ!あの男は…訳の判らない事を言いおって!」とご立腹の様子で、「景監、聞いていた話とまるで違うではないか?いったいどういう事か!」と景監自身に火の粉が掛かる始末である。
彼も主がなぜそんなに怒り心頭なのかが皆目判らず、困ってしまった。
そこでまず、経緯を知るのが解決の早道と、先ずは怒りを静めてもらって、話を聞く事にした。
「我が君、お気持ちは判りますが、まずは怒りをお静め下さい。私にはいったい何があったのか皆目見当が着きませぬ…何があったかお話下さい。」
景監は長年仕えているから判るのだが、日頃は冷静で大人しい主も、自分の納得出来ない事があると、その意図が判るまでは、頑なに追究して止まない。
そして不条理な事には、今のように声を大にして怒り心頭になるのだ。
「奴は国を治るための根源は慈愛の精神と君主の徳である!…その事を例を挙げながら切々と説きおったのだ…下らぬ事に時間を割きおって!だから怒っておる…」
孝公は一気に捲し立てると『お前もそう思うだろう?』と言わんばかりに景監を見つめた。
景監は『?』といまいち話が見えないのか困った顔をしている。
そしておもむろにこう応えた。
「我が君…私には彼が至極まともな事を言っている様に想えるのですが…いったい何が悪かったのでしょうか?」
孝公は景監のその言葉を耳にすると、『フゥ~』と諦めにも似た溜め息を大きく吐き出した。
そして一言それに応えた。
「それで何が出来る?」
そんな物は犬でも喰えぬ…鯔のつまりは無駄であるという事らしい。
「お聞きしましょう…」景監は詳しい説明を求めた。
「慈愛とは何ぞや、そもそも私が民を大切にしない君主とはお前も思うまい、だろう?そして徳とは何ぞや…徳は積む事で始めて身につくものだ。生まれながらに徳を持った者などおらぬ…様々な艱難辛苦を乗り越え、人の営みを知り、その中で喜怒哀楽を経験しながら、得ていくものだ。いわゆる徳土を積むという事だ。」
孝公はそこまで言うと、一息ついた。
景監も『民を大切に想う』という点においては、君主様程、慈愛の精神をお持ちの方はいないと想っている。
だからこそ今のこの現状を憂いて何とかしたいという気持ちが強いのだという事を理解していた。
でなければ、民のために涙を流す事など本来あり得ないではないか。
そして『徳』の事についても『徳は積むもの…』正に仰る通りである。
此れから積んで行くものを利用する事など出来ない。
彼はそこまで自分の考えが及ばなかった事に恥じた。
そして主の言葉に神妙に耳を傾ける事にした。
「我が君が民を大切に想う気持ちは判っております…どうか話をお続け下さい。」
そう言って主を見つめた。
孝公は話を続ける。
「だが"徳"そのものに形は無いのだ…人それぞれに個性があるように、その人が身につける"徳"というものにも違いはある。人真似で上辺だけ徳がある様に見せても何の意味も持たぬ。その様な物は"張り子の虎"に過ぎぬ。私などはそんな物を身につけている内に時間切れとなろう…それだけ人の一生は短いのだ。三帝五皇の如く何百年も生きられるのならば、それも良かろう…が、私もお前も民草もそれ程永くは生きてゆけぬ!私の肉体と精神が色褪せぬ内に結果を出さねば成らん。それに今のままでは民の生活も以たぬであろう。私の言いたい事が判ったかな?ゆえに悠長に三帝五皇の話しなどを聞いている暇は無いのだ。犬も喰えぬ…と言ったのはそういう事だ。"蓼食う虫も好き好き"と言うが、私にはそんな事をして要られぬよ…少々言葉が過ぎたかも知れぬがな…」
孝公は言いたいだけ言葉にすると、「少し考えたい…」と言って居室の奥に引き込もってしまった。
景監は只ひとり、その場に残される形となってしまった。
これは孝公が相当に頭にきている事を物語っていた。
しかしながら、よくよく聞いてみるにつけ、主の言い分もけして間違っていない。
むしろ期待が高かった分、怒っても当然かも知れなかった。
どちらかと謂えば、衛鞅がなぜそんな御託を並べて引き上げたのかが、理解出来なかった。
彼にとっても何度もある機会では無かろう。
『わざわざ機会を作ってやったのに、いったいどういう了見なのだろう。ここはひとつ彼の意見も聞いてみる事にするか…』
景監はそう想い、主の居室を辞すと、その足で衛鞅の泊まる宿へ向かった。
道中彼は考えていた。
そして沈着冷静な彼には珍しく、あの坂道に差し掛かる頃には、せっかくの機会を不意にした衛鞅に対して、腸が煮え繰り返っていた。
『……』
一方の衛鞅は、孝公の居室を辞すと宿に戻り、軽く食事を摂ると庭に出て、木々の枝に留まる小鳥たちの囀りに耳を傾け、庭で寝そべる猫にちょっかいを出して、一緒に戯れたりして、午後のひとときを満喫していた。
すると彼方からひとりの男が、躍起に為って坂道を登って来る…誰在ろう景監その人であった。
彼は見た目にも相当に怒っている様で、既に頭からは湯気が出ている…(;^_^A
(^-^;『やれやれ…案の定と言うべきか、相当…御冠の様だな!』
衛鞅は予期していた事とはいえ、苦笑してしまった。
彼は意識的に、ある意味故意にやっているのだから良いとしても、此れに付き合わされる方は、やはり堪ったもんじゃ無い…。
『彼にはまだ協力して貰わなければならない…ここでそっぽを向けれると困る (^^;)少し労わなくてはな…。』
そう想い立つと、努めて明るい笑顔で景監を迎えた。
「景監殿!お陰様で君主様にお会い出来ました。有難う御座いました。御礼申し上げる。」
衛鞅は丁寧にお辞儀をして感謝の意を表した。
景監は先程まで怒っていたのに、機先を制してお礼を言われたため、『グッ!』と変な擬音を出して口から吐き出しそうになった罵声を呑んでしまった。
もともと根が真面目であり、お人好しな彼は下手に出られると弱い。
それに冷静になり、よくよく考えてみれば、自分の一時の感情に任せて衛鞅を非難して、万が一、彼に気分を害されるとこの先君主様の目的は座礁して仕舞うかも知れないのだ。
『我が君は一時の気持ちに任せてご立腹されているが、元々聡明な方…きっとまたこの男をお召しになるに違いない…その時に私の行いでせっかくの機会を逃させる訳には参らぬ…ここはひとつ私が間を取り持っておかねば成らぬ。』
そう想ったのだった。
この様に常に君主・孝公の気持ちを慮って考え、行動出来るのが景監であり、だからこそ孝公もこれまで全幅の信頼をおいて来たのだと言えるだろう。
当然、衛鞅は元々そこいらの事は既に読み切った上での行動なので、景監が譲歩する事は判っていた。
しかしながら、想っていたより気持ちの切り換えの早いこの男の行動に感心せずには要られないのだった。
『やはり伊達に君主様に長年お仕えしている訳では無いな…この男もかなり処世術には長けている様だ…つまりは賢いって事になる。余り虐めても可哀想だが、善きにつけ悪きにつけ、しばらくはお付き合いして頂かないと、私の予定が狂ってしまう。何とか機嫌を取っておかねばな…』
衛鞅はそう考えて、彼の理解を得られる様に振る舞う事にした。
「ところで…御用の向きは如何なる事でしょう?」
衛鞅はやむを得ず話を振って、様子をみる事にした。
すると景監は、衛鞅から話の核心に触れてくれたので、話がしやすくなったとみえて、やがて語り出した。
「衛鞅殿…いったい我が君に何をお勧めになられたのですか?貴方が帰った後、私は呼び出されて、それはもう頭ごなしに叱られました。どういう事なのかご説明頂きたい。」
景監は既に冷静に立ち返っているが、言葉の端々には怒気が微かに感じられた。
景監の怒気は即ち君主・孝公の気持ちの有り様を示して要るのだから、景監を通して、孝公の気持ちは衛鞅にもジンジンと伝わって来る。
『当然だろうな…怒らせる気は毛頭無かったが、もしあの話しにそれだけ怒りを感じたので在れば、この先かなり見込みがある。』
衛鞅はそう想い安堵した。但し、それを正直に話す事は憚られるので、こう応えた。
「そうですか…それは申し訳御座らん。ただ、私は君主様の目指す所を具体的に知る必要性を感じていまして…まずは政で一番大事な根源である"徳"の話をしたので御座る。しかしながら、君主様には、皇や帝の話はつまらなかった様ですな…終始眠たそうに欠伸をされていましたから…そこで、ものは相談ですが、今一度面会を設定して頂く事は出来ぬものでしょうか?君主様のお好みはだいたい見当もつきましたので、今度は上手くやりますよ♪どうです?また骨を折って頂けませんか?貴方だけが頼りなのです。」
衛鞅はきちんと噛み砕いて判りやすく話を終えると、丁寧にお辞儀をして懇願した。
『貴方だけが頼りなのです…』
こうまで言われると、さすがに景監も悪い気はしない(。-ω-)…
『最大の褒め言葉だな…この男、一筋縄ではいかぬ様だ。私は元々この男に何かを感じている。かなりの確率で私の本能が彼を否定しないのだ。こういう時の私の勘は必ず当たってきた。ここはひとつ辛抱して付き合ってやるとするか…でも言質は取っておかねばな…またやらかせられると困るぞ…(;^_^A』
景監はそう感じて、しばらくわざと考え込んだ振りを決め込んだが、やがてコクりと頷くや、話を切り出した。
「間違い無いのですな?次は本当に大丈夫でしょうな…約束出来ますか?」
景監は念を押すようにそう確認した。
衛鞅はフッと微笑むと、「間違い御座らん!」と断言して、約束を守ってくれると言う。
景監は『仕方無いか…』と想い、決断してこう返事をするのだった。
「判りました!もう一度だけ…私が貴方に機会を作って差し上げます…その替わり必ず約束は守って下さいよ…私も主上から度々怒鳴りつけられるのは生きた心地がしないのでね(^-^;…」
此れが景監のお人好しである由縁なのだが、果たしてそれがどういう事になるのかは、またのお話である。
「御苦労をお掛けする。宜しくお願い致します…」
衛鞅はそういうと頭を下げた。そして想った。
『御苦労をお掛けする…しばらくずっとね…』
そして腹の内では舌を出すのだった。
『すまんな…貴方だけが頼りなのだ』と!




