Case1-5
太い馬の頸と背後のレイヴンに挟まれる形で、理沙は懸命に体勢を整える。
「ひ、ひえっ、動く……馬ってこんななんだ……」
「乗馬経験は?」
「あ、ありません!」
がちがちに緊張している理沙が面白かったのか、レイヴンはわずかに目を見開くと、口元を隠すようにして笑った。
なんだか馬鹿にされた気がして、理沙が頬を膨らませているうちに、レイヴンは脇にあった手綱を手に取る。
「とりあえず行きましょう。時間がない」
するとレイヴンは踵を馬の腹に押し付けた。
それを合図に馬首が巡り、一歩一歩と足を進め始める。ぐらぐらと左右に揺れる背に、理沙は必死になってバランスをとった。少しだけ落ち着いたところで、理沙は背後のレイヴンに話しかける。
「あ、あの、ここフランスですか?」
「違います」
「で、ですよね……」
分かり切った答えと知っていても、聞かずにはおれなかった。
パリのど真ん中にある洋裁店。中にある扉を開けたら、突然広大な森の中。どう考えたって普通じゃない。
(どこでもドア? じゃなければ……死後の世界、とか)
自らの出した結論にぞくりと背筋を震わせた理沙は、レイヴンから続きを聞きだそうとする――が、突然レイヴンが理沙の腰に腕を巻き付けてきた。
「レ、レイヴンさん⁉」
「静かに。……少し速度を上げます。舌を噛まないよう、喋らないで」
それを契機にレイヴンは「はッ」と発すると、先ほどよりも強く馬の腹を蹴った。突然のことに馬は驚き、ぐんと四つ足を加速させる。ザザ、ガザ、と触れ合う枝葉の音も荒々しく、理沙はレイヴンの腕の中でたまらず体を固めた。
(な、何⁉ 何が起きてるの⁉)
すると疾駆するレイヴンの馬とは別に、リズムの違う蹄の音が近づいて来る。顔を上げた理沙が恐る恐る脇を振り返ると、背後から漆黒の馬が猛然とした勢いで追いかけて来ていた。
馬上には甲冑に覆われた兵士の姿も見える。
「レ、レイヴンさん! 後ろから! 何か来てます!」
「追手です。逃げますよ」
「追手⁉」
人生で初めて聞く単語に、理沙は目を大きく見開いた。
宣言通りレイヴンはなおも速度を上げ、器用に馬を駆りながら森の中をひた走る。しかし追手もなかなかの名手らしく、レイヴンとの距離を一切開かせぬまま、ぴったりとくっついてきた。
やがてピシ、と空気を破るような破裂音が理沙の耳の横を走る。顔を上げると前方の木に矢が刺さっていた。
理沙が慌てて振り返ると、差し迫って来た黒馬の騎手が、馬上から弓を引いているではないか。
「ゆ、弓! 撃ってきてます!」
「分かっています!」
再び矢が放たれる。すると矢はレイヴンの馬の尻をかすめた。
ばらり、と荷物をくくっていた縄がほどけ、二つあるアタッシュケースのうち一つが落下する。
(――あっ!)
地面に投げ出された鞄はがぱりと口を開くと、無残に中身を飛び散らせた。どうやら中には化粧道具が一式詰まっていたらしく、高そうな化粧筆や鏡、ケースに入ったファンデーションなどが、苔むした大地の中に盛大にばらまかれる。
だがレイヴンはそれには構わず、先ほどよりも速度を上げた。
「少し飛びます。私の体をしっかりと掴んで」
「と、飛ぶって……」
すると森の先がわずかに明るくなった。
ようやく脱出できる、と理沙が期待したのもつかの間、その先は切り立った崖に繋がっている。
だがレイヴンは進行を止めるどころか、なおも加速し続け――理沙は無我夢中で彼の体を掴んだ。
(ひいいいい!)
やがて、ふわっと気持ちの悪い浮遊感が理沙を襲った。
無重力から、一転して全身にかかる負荷に、理沙は懸命に歯を食いしばる。その直後、激しい衝撃とともに荒々しい蹄の音が続いた。
(が、崖を、飛び越えた……⁉)
レイヴンの体を抱きしめたまま、理沙はそうっと背後にいた追手を探す。追手は向こう側にとどまっており、何度か崖の傍を行き来していた。どうやら鎧が重たすぎて、こちらまで飛ぶのは難しいようだ。
ほっと息をつくのもつかの間、理沙はすぐさま赤面し、レイヴンに回していた腕を慌てて離した。だが当のレイヴンは気にもしていないのか、淡々と理沙に告げる。
「なんとか撒けましたか……仕方ない。このまま行きます」
「い、行くって、どこへ……」
「――巫女のもとへ、です」
レイヴンに連れてこられたのは、巨大な市壁の前だった。
市門に当たる場所には通行者用の橋が架かっており、理沙はレイヴンとともに馬で入場する。すると少し進んだ先で、同じく馬に乗った青年騎士に呼び止められた。
「レイヴン殿! 良かった、どこかで事故に遭われたのかと」
「失礼。ちょっと落とし物を拾っていたら、追手に気づかれまして」
(もしかして、わたしのこと……?)
青年は革の肩当に防具という、まるでゲームに出てくる戦士のような出で立ちをしていた。体もしっかりと鍛えられており、腰には剣を携えている。
あまりじろじろ見るのは失礼だろうか、と理沙が視線を泳がせていると、青年は早口に言葉を続けた。
「急ぎましょう。こちらへ」
青年の先導に従い、理沙とレイヴンは大通りを駆けた。
道中、理沙がちらりと周囲を窺うと、石造りの平屋のような建物が林立している。外国の住居という印象だが、理沙のいたパリとは明らかに年代が違うようだ。
やがて街の最奥にある王城へとたどり着いた。
周囲を堀で囲まれたその場所に、青年はためらうことなく馬を進める。城壁内にある馬留につなぐと、レイヴンは馬の背に残っていたもう一つの鞄を手に、青年とともに城内へと乗り込んだ。理沙も慌ててそれに続く。
回廊を渡り、ある廊下の突き当りで立ち止まると、青年が扉を押し開いた。
「――巫女様、仕立て屋が到着いたしました」