Case4-12
やがて讃美歌は終わりを迎え、オルガンは次の曲を奏で始めた。家に戻る人の波に紛れるようにして、二人は教会を後にする。
「家まで送ります」
「へ⁉ い、良いですよ! そんなに遠くないですし」
「こんな遅くまで付き合わせたお詫びです」
頑として譲らぬレイヴンに、理沙はじゃあと住所を伝えた。ひりひりと肌に張り付くような寒さの中、二人は無言のまま裏通りを歩いていく。
一本向こうの大通りは、イルミネーションやクリスマスマーケットで賑わっているようだったが、理沙にとってはこの二人だけで歩いている時間が何よりも幸せだった。だがものの十数分で下宿に到着してしまい、理沙はがくりと肩を落とす。
そんな理沙をよそに、レイヴンはゆっくりと振り返ると静かに口を開いた。
「年末は、日本に帰るのでしたね」
「あ、はい。冬には一度戻るって約束したので……」
さらに気の重い会話に、理沙はしょんぼりと眉尻を下げた。
学校が長期休暇に入ると知り、実家から一度帰るようにと連絡が来たのだ。しかしようやく『トワ・エ・モア』の従業員に昇格した理沙としては、年末年始もレイヴンと過ごしたかった。
だが事情を説明したところ、レイヴンの方から『Non』を叩きつけられた。
ちゃんとご家族を大切にしなさいと諫められてしまい、理沙は自分の言動が子どもじみたものに思えて、恥ずかしく感じられたものだ。
「帰路は気をつけて。あなたは色々とそそっかしいところがある」
「う、は、はい……」
ぐうの音も出ないとばかりに、理沙はしゅんとうつむいた。すると頭上からレイヴンの変な咳払いがして、理沙はそろそろと顔を上げる。
直後――眼前に差し出されたものを見て、理沙は我が目を疑った。
「あの、これは……」
「今日は、クリスマスイブでしょう?」
レイヴンの手には、小さな箱が収められていた。
黒――ではなく、傾きによって濃い紫色に表情を変えるそれに、細い銀色のリボンがかかっている。だが『Toi et Moi』の文字はなく、理沙ははてと首を傾げた。
なかなか受け取らない理沙にしびれを切らしたのか、レイヴンが眉を寄せる。
「……いらないんですか?」
「え、あ、あの、あたしにですか⁉」
「この状況で、他に誰がいるというのです」
信じられない、という思考に支配されつつ、理沙は恐る恐るそれを受け取った。ちらりとレイヴンを仰ぎ見ると、早く開けろと言わんばかりに睨んでくる。
半ば急かされるようにリボンを解き、蓋を開けた。
中には収められていたのは、白のレザーブレスだった。
留め具の部分は金で出来ており、精緻な細工がなされている。端にはピンク色の宝石がきらきらと光を弾いており、あまりの可愛らしさに理沙は一瞬言葉を失った。
「かっ……」
「か?」
「可愛いっ……!」
宝石と同じくらい目を輝かせる理沙を見て、レイヴンは思わずといった風に笑いを漏らした。だがすぐにいつものからかうような微笑に戻る。
「喜んでもらえて何よりです」
「あ、ありがとうございます!」
いますぐ着けたい、と理沙はわたわたと取り乱す。だがああっと声を上げると、大急ぎで背負っていたリュックを開いた。
目の前でがさごそと何かを探す理沙に、レイヴンは不思議そうに首を傾げる。
「あ、あの、これ」
「これは?」
「わ、渡そうか、ずっと迷っていたんですけど、その、……いつものお礼というか……クリスマスの、プレゼントです」
そう言うと理沙はネイビーの箱を差し出した。手のひらに収まるそれを受け取ったレイヴンは、しぱしぱと目をしばたたかせている。わくわくと期待に満ちた理沙の圧に負けたのか、苦笑しながらそれを開けた。
現れたのはネクタイピン。
端には小さな青い石がついている。
「この石、アイオライトっていうんですけど……『前進する』って意味が込められているそうです」
「前進……」
「……レイヴンがつらいのなら、今はまだ、無理に進む必要はないけれど……。でも、もしもまた前に進みたくなったら、その時は、……これを着けてもらえたらって、思って……」
言いながら徐々に恥ずかしくなってきて、理沙はかああと頬に朱を走らせた。買い物に付き合ってくれたクロエに感謝しつつ、必死になって思いを伝える。
「と、とにかく、元気になって、ほしかったんです!」
「……まったく、あなたという人は」
するとレイヴンはそっとコートの前をくつろげた。ぎょっと目を見張る理沙の前で、しゅるりとネクタイを表に出す。今着けているタイピンを外すと、理沙からの贈り物に付け替えた。
驚愕のあまり口が塞がらない理沙を見て、また吹き出すように笑う。
「なんですか、その顔は」
「だ、だって、まさか、すぐに着けてもらえるなんて」
「着けてほしかったのでは?」
「そ、それはそうですけど!」
思いがけない展開に動悸が収まらない理沙に対し、レイヴンはいつもの余裕に満ちた笑みを浮かべている。すると今度はレイヴンが理沙の手にある箱をひょいと取り返した。
「レ、レイヴン?」
「手を」
言われるままに手を伸ばすと、レイヴンは素早く理沙のコートの袖をまくった。
触れた長い指先に驚く暇もなく、ひたりと冷たい革の感触が理沙の手首に宿る。やがてカチ、と金具を固定したかと思うと、ピンク色の輝きが零れ落ちた。
「良かった。サイズは合っていましたね」
「あ、あわわ……」
「リサ?」
まさかレイヴンの手ずから着けてもらえるとは思っておらず、理沙の理性はそろそろ限界を迎えていた。
もうこのブレス外せない、と心の中だけで神に感謝しつつ、必死になって頬の火照りを振り払う。
だが理沙の手にレザーブレスを飾り立てた後も、レイヴンは何故か手を離してくれなかった。振り払おうにもその度胸はなく、理沙はただただぎくしゃくと固まり続ける。
するとレイヴンが何かを思い出したように告げた。
「――さきほど、教会に行った理由について申し上げましたが」
「は、はい」
「一番の理由は――あなたが喜ぶと思ったから、です」
初めて外国で過ごすクリスマス。
一年で最も幸福に満たされたあの世界を、君に見せてあげたかった。
「それでは理沙、――Joyeuses fêtes.」
そう言うとレイヴンは、そのままぐいと理沙の手を持ち上げると――手の甲にそっと口付けた。
寒さで冷え切っていた理沙の手に、どこかしっとりとした柔らかさが触れ、ぎりぎりまで張り詰めていた緊張がついぞ吹き飛んでしまう。
「な、な……⁉」
「早く戻らないと風邪をひきますよ。では、おやすみなさい」
「お、おやすみ、……なさい……」
何ごともなかったかのように、レイヴンは来た道を戻って行く。理沙もまたしばらく放心状態でその背中を見つめていた――が、ぼんと音を立てそうな勢いで一気に赤面する。
(何あれ⁉ 何あれ⁉ ――なに、あれ⁉)
完全に自身の許容量を超えた出来事の連続に、理沙は一人頭を抱えた。
そして日本行きの飛行機の中。
小さな窓の下に広がる雲海を眺めていた理沙は、そっと自身の手首を彩るレザーブレスに目を向けた。
二重に巻かれた白い革に、きらきらと光を弾く輝石。その美しさを確かめるように理沙は静かに腕を持ち上げると、愛おしむようにブレスの輪郭をなぞる。
(レイヴン……早く、会いたいな)
日本に戻ったら家族とご飯を食べて、高校の友達に連絡して、それから――と胸を弾ませる間も、つい『トワ・エ・モア』のことを思い出してしまう。
お土産は何にしよう。甘いものは好きみたいだから、日持ちする和菓子はどうだろうか。クロエには漫画のキャラクターグッズを頼まれているし、ジェラルドにも何か差し入れしたい。あと下宿先の大家さんと……フェリクスはどんなものが好きだろうか。
いくつもの顔を思い出しながら、理沙はふと――フランス行きの飛行機に乗った日のことを追想した。
(あの時は、まさかこんな気持ちになるなんて思ってもみなかったな……)
高校卒業後、フランスに行くと決めたことを後悔したこともあった。両親からも何度も止められた。
言葉も通じない、誰も知らない土地に一人で降り立って、本当に大丈夫なのかと。実際フランスに来て数日は、帰りたいと思ったことが何回もあった。
でも理沙は――レイヴンと出会った。
不思議な仕事を一緒にして、彼のことを知り、いつしか恋に落ちた。もう二度と恋などしないと思っていた理沙が、初めて手にした愛しい感情。
(まだこの気持ちを伝える勇気はないけれど……でも、いつか)
チャリ、とピンクの輝きが光を弾く。
それを見て理沙は、嬉しそうに目を細めた。
やがて理沙は携帯で時間を確認すると、うとうととしたまどろみを迎え入れるように、静かに瞼を閉じた。
心地よい暗闇が広がり、すうと力が抜ける。
(帰ってきたら、一番に『トワ・エ・モア』に行こう……)
そして大きな声で『Meilleurs Vœux!(あけましておめでとう!)』と告げるのだ。きっとレイヴンはちょっと迷惑そうな顔をしてから、呆れたような笑顔を浮かべるに違いない――と想像した理沙は、ふふ、と笑いを零す。
そのまま理沙は、穏やかな眠りの海に落ちて行った。
新しい一年が、どうか幸せなものになりますように。
だって『On n'a qu'une vie.(人生は一度きり)』なのだから。




