Case4-8
長い手袋に覆われたシャルロッテの両手を、レイヴンが優しくすくいあげる。すると彼女はからかうようにはにかんだ。
「ふふ、レイヴンはそのままの格好なのね」
「すみません。ドレスを仕上げるだけの時間しかなくて」
「ううん。……わたしのわがままを、こんな素敵な形で叶えてくれてありがとう」
目を細めるシャルロッテを、レイヴンはただ静かに見つめていた。やがて神に捧げるかのように、誓いの言葉を紡ぐ。
「――私、レイヴン・リヴァハートは、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も……この身が滅びるまで永遠に、あなたを愛し、守り抜くことを誓います」
それを聞いたシャルロッテもまた、そっと睫毛を伏せる。
「わたしシャルロッテは、レイヴン・リヴァハートを愛し、そして……遠い未来で、彼が幸せになってくれることを、心から願います」
わずかに目を見開くレイヴンを、シャルロッテは嬉しそうに見つめ返した。そのまま二人の顔は近づき、レイヴンの唇がシャルロッテのそれに優しく触れる。
誰も知ることのない、小さな小さな結婚式。
理沙はそんな二人を前に、泣きそうな笑みを浮かべることしか出来なかった。
まもなく訪れる夜明けを前に、シャルロッテはすぐに『聖女』としての顔を取り戻した。
ウェディングドレスを脱ぎ、着慣れた甲冑を身に纏う。化粧を落としましょうかと理沙が尋ねたところ、シャルロッテはすぐさま首を振った。
「せっかく綺麗にしてもらったから。それにこの方が『聖女』らしいでしょう?」
にこ、と楽しそうに笑うシャルロッテに、これから起こりうる悲惨な運命の影を見出してしまい、理沙はつい顔を複雑に歪めてしまった。
するとシャルロッテは理沙の手を握りしめ、励ますかのように微笑む。
「泣かないで。……どうか、レイヴンのことをお願いね」
だがそれを聞いた瞬間、理沙の我慢は崩壊した。涙声のまま、ぼろぼろと溜め込んでいた思いを吐き出してしまう。
「あ、あだしじゃ、だめなんでず……」
「どうして?」
「れ、レイヴンには、あだしじゃなくて、ジャルロッデさんが、びつようなんでず……」
うええ、と本格的に泣き出してしまった理沙を見て、シャルロッテはよしよしと彼女の頭を撫でた。そのまま自身の腕の中に抱き寄せる。
冷たい甲冑が頬に触れ、理沙はううと呻いた。
「なら、一緒のことよ」
「ふぇ……?」
「何となく感じていたけど、はっきりと分かったわ。あなたとわたしは、同じものなの」
「おな、じ……?」
「ええ。……わたしは彼のことを幸せには出来なかった。だから今度はあなたが、彼のことを幸せにしてあげてね」
理沙が真っ赤に腫れた瞼を持ち上げると、綺麗なシャルロッテの瞳とぶつかった。そこに映り込んでいる自身の瞳は、これもまた見事な琥珀色で――まるで、シャルロッテと同化してしまったかのような錯覚を覚え、理沙は慌ててぶんぶんと首を振る。
するとシャルロッテが、困ったように苦笑した。
「泣き虫なのは、いつまで経っても変わらないのね」
「へ?」
「何でもないわ。――レイヴンのこと、よろしくね」
そうしてシャルロッテは『聖女』として旅立った。
もう二度と彼女の処刑される場面など見たくない、帰りたいと理沙はレイヴンに懇願する。
だが『調停者』の権能として、この世界の行く末を見届けなければ戻れないのだと、レイヴンから淡々と言い渡された。
目まぐるしく場面は変わり、そのたびに理沙は傷ついていくシャルロッテの姿を目にする。しかし彼女はその美しい顔に一切の怯えを見せぬまま、実に勇壮に戦いを挑んでいた。
そして――運命は変わることなく、彼女は捕らえられ、再び丘へと運ばれた。彼女の最期に背を向け、耳を塞ぎながら、理沙は体を震わせる。
心配したレイヴンがそっと抱きしめると、いよいよ限界を迎えたのか理沙は大きな声で啼泣した。
そんな理沙の背中を、レイヴンはひたすら慰め続ける。
レイヴンはその間――一粒として涙を流さなかった。
あの世界から戻ってすぐ『トワ・エ・モア』は臨時休業となった。当然バイトも無期限のお休みになったのだが、授業を終えた理沙は、今日もまた店の前で様子を窺っている。
(レイヴン……大丈夫かな……)
『裏稼業』を終えたからか、理沙が預かっていた手紙はいつの間にか無くなっていた。代わりにレイヴンの頭上にいつもの手紙が出現し、すぐに掴んだものの、彼はそれを開けようとはしない。
留守番していたフェリクスが明るく話しかけたが、レイヴンは返事をすることもなく、今日のところは帰ってほしいと理沙共々に告げた。
その後『しばらく休みにします』というメールが来て以来、理沙はレイヴンと顔を合わせていない。
理沙はこそこそと店に接近し、窓ガラスから中を覗き込んだ。だが店内は真っ暗で、人のいる気配はない。
(このまま、お店もやめてしまうかも……)
理沙自身も、気力を取り戻すのにかなりの時間がかかった。
今だって無理やり元気を出しているだけで、心の奥についた傷は多分もう一生消えないのだろうと、ぎゅっと眉を寄せる。
だがレイヴンが負った悲しみは、きっとこの比ではない。
やはりだめかと嘆息を漏らすと、理沙はゆっくりと立ち上がった。
するとその背中に聞き慣れた声が落ちてくる。
「chache-chacheですか?」
「え⁉ か、カーシュ?」
「日本でいう『かくれんぼ』のことです。それにしては随分と下手ですね」
慌てて振り返った理沙の前には、普段通りのレイヴンがいた。仕立ての良いジレに外出用のジャケットとコートを羽織り、手には大きな紙袋を下げている。
突然の大本命の登場に、理沙は考えてきていた言葉をすべて忘れてしまった。
「あ、あの、レイヴン、その」
「ここで話してもいいですが少々寒いです。中に入りましょう」
そう言うとレイヴンは慣れた様子で鍵を差し入れ、さっさと店内に入っていく。遠慮がちについて行った理沙だったが、数日ぶりの店内の景色を前に、ぐっと懐かしさを噛みしめた。
レイヴンがコートを脱いでいる間、窓際にある応接セットの片方に腰かける。
「すみません、飲み物を切らしていて」
「お、おかまいなく!」
「日本人は、不思議な言い回しをするものですね」
レイヴンはそう笑うと、理沙の向かいのソファに腰かけた。テーブルを挟んで沈黙が落ち、理沙は何と言って切り出すべきかと逡巡する。
すると意外なことに、レイヴンの方から口を開いた。
「――ありがとう、ございました」
「……へ?」
「あの手紙を探し出してくれたこと。私はあの手紙が来てから一度も、触れることさえ出来なかった」
書斎のレターケースにしまっていた手紙。
ずっとレイヴンの心にひっかかっていた、最初で最後の後悔。
「本当は……予感があったのです。私が彼女に何を言おうとも、きっと彼女の決意は変わらなかったであろうことに」
「変わらなかった……?」
「はい。必死に理由を挙げ連ねていましたが、結局のところ……怖かったのです。私が彼女の人生に、何の影響も与えられないと思い知らされるのが」
シャルロッテの意志は、あの時点で決まっていた。
二人が離れていた間に、彼女は数多の人の思いを背に受けて――それはレイヴン一人の気持ちだけでは動かせないほど、強く、大きすぎるものになっていたのだ。
それは理解していた。
しかしその蓋を開けて、真実にしてしまうのが怖かった。なぜならそれは、シャルロッテの二度目の死を確定させてしまうものだから。




