Case4-6
「い、いったい、何が」
「一時的に、私の服に不可視の効果を付与しました」
レイヴンはゆっくりと立ち上がると、へたりこむ理沙を助け起こした。改めてコートを着せ直してくれるレイヴンを前に、理沙は俯いたまま言葉を紡ぐ。
「あ、ありがとう、ございます。それから……ごめんなさい」
「何を謝るのです?」
「勝手にこっちに来て、助けてもらって……なんか、情けないなって」
勢いのままに飛び出しておきながら、結局レイヴンに助けられている。その格好悪さに理沙がしょんぼりとしていると、レイヴンはしばらく理沙を見つめたあと、ふ、と鼻で笑った。
「本当に。あれだけ啖呵を切っておいて、このざまとは」
「うう……」
「ですがおかげで――私はようやく、この世界に入る覚悟を得ました」
その言葉に理沙はゆっくりと顔を上げる。
ようやく直視したレイヴンの表情は、いつもの穏やかな笑顔ではなく、どこか諦観を含んだ寂しいものだった。
「本当は、……二度とこの世界に来るつもりはなかった。もしも『悲恋』を変えられなければ、私はシャルロッテの死を……もう一度見せられることになる」
「……」
「でもあの戦いの夜――どうして彼女はわざわざ、私の元を訪ねてくれたのか。ずっと心に引っかかっていた。もしやあれが、最後のチャンスだったのではないか、と」
あの時のシャルロッテは、まだ『聖女』ではなかった。行くな、と。一緒に逃げよう、と彼女の手を取っていたら。
「一度だけでいい。……真実を確かめる勇気を、私にくださいますか?」
そう言ってレイヴンは、静かに手を差し出した。理沙は潤んだ瞳を懸命に乾かすと、しっかりとその手を握り返す。
「もちろんです!」
途端にレイヴンが、ふわりと笑った。
心の底から安堵したような笑みを前に、理沙はまたも胸の奥が締め付けられる。それは嬉しさでもあり、切なさでもあった。
(でも……これでレイヴンの恋が叶うのなら、わたしは……)
ぐちゃぐちゃの内心を隠すように、理沙はつとめて明るく笑う。そして二人は改めてシャルロッテのいる天幕を目指した。
人払いを済ませた天幕の中で、シャルロッテは一人ため息をついた。
(あと四時間後、王都を襲撃する……)
自分の役割は、革命軍における旗印としての『聖女』――だが本当は、自分は神に愛されたわけでもないし、戦いを好んでいるわけでもない。
ただ一度の戦いが、二度目の報復を生み、三度目の戦線で大軍を勝利に導いた。その瞬間、シャルロッテは『聖女』とならざるを得なかった。
(わたしに、出来るのかしら)
思わず弱気になる心を、拳を強く握りしめて奮い立たせる。震えが止み、ゆっくりと開いた手のひらを見つめていると、幼馴染の顔が頭をよぎった。
私が『聖女』でなければ、きっと長く共に生きていけたであろう、運命の人。
(レイヴン……)
感傷は心を鈍らせる。シャルロッテは自虐的に笑うと、雑念を払うように首を振った。少しでも仮眠をとろうと、ゆっくりと立ち上がる。
すると背後に知らぬ気配を感じ、シャルロッテは剣の柄に手を添えると、勢いよく振り返った。 だがそこにいた人物に、金色の目を大きく見開く。
「――レイ、ヴン?」
「……シャルロッテ」
つい先ほど別れを告げたはずの元恋人が、シャルロッテの目の前にいた。
シャルロッテは理解が追い付かず、指先を剣から離せないままだ。だがレイヴンは黒曜石のような目を細めると、ただ穏やかにシャルロッテに語りかける。
「言うべきではない、とずっと思っていました」
「……?」
「あなたがこれから成すことは、きっと、多くの人を救うことになる。それはあなたの使命であり、願いであり、私がそれを止めることは、とても――とても、傲慢で、不遜なことなのだと、言い聞かせていました」
でも、とレイヴンは掠れた声を零す。
「それでも私は……私だけの願いを込めて、これを言います。私は……あなたに、戦いに行ってほしくない」
「レイヴン……」
「本当はずっと、伝えたかった。会いに来てくれた時、怖いといって震えていた君を、そのまま帰したくなかった。戦いの場に送り出したくなんてなかった……」
ようやく溢れたレイヴンの吐露に、シャルロッテは何度も瞬いた。だが次第に瞳を艶々と潤ませたかと思うと、たまらずレイヴンの腕の中に飛び込んでいく。
突然の抱擁にレイヴンも驚いていたが、すぐに彼女の体を引き寄せると、今までの隙間を埋めるように強く抱きしめた。
やがてその耳元に、小さく囁きかける。
「シャルロッテ――今の私なら、あなたをここから逃がしてあげられる。……私と共に、逃げませんか?」
「……」
そんな二人のやり取りを、物陰から見つめていた理沙は、はあと息をつくとこっそり背を向けた。レイヴンに返し損ねた手紙を、ぎゅっと抱きしめる。
(これで、良いんだ……)
この悲恋の原因は、二人の言葉が足りなかったこと。レイヴンが本当の気持ちを伝えれば、シャルロッテは『聖女』ではなくなり、二人は幸せに暮らせることだろう。
戦いに赴かなければシャルロッテが死ぬこともなく、レイヴンは『調停者』になることもない――それはきっと、レイヴンが理沙の前からいなくなることを意味している。
「……あ、れ……」
気づけば理沙の瞳からは、ぼろぼろと涙が零れていた。
必死に止めようとするが、次から次へとあふれ出てきて、理沙は懸命に手のひらでそれを押し拭う。
手紙を濡らさないよう慌てて袖を伸ばすが、生地の色が濃くなるばかりで一向に止まる気配はなかった。
(そっか……わたし、また、失恋したんだ……)
一度目の失恋を経験した時、もうあれ以上につらいことはないと思っていた。
でも違った。
二度目の失恋は、こんなにも、自分の中がまるで空っぽになってしまいそうなほど、苦しい。息が出来なくなる。消えてしまいたい。自分が世界で一番惨めに見えてくる。
どうして。
どうしてわたしじゃないんだろう。
レイヴンの隣にいるのは、わたしで、ありたかったのに。
「――っ!」
引きずり込まれそうな暗い思考を振り払うように、理沙はぶんぶんと強く頭を振った。鼻に流れ込んだ涙をずず、とすすり上げると、長い睫毛を何度も何度もしばたたかせる。最後にぐいっと手の甲で眦をこすると、震える口角を無理やりに押し上げた。
(よし! もう泣かない!)
きっとこれから、二人が逃げ出すのを助ける役目がある。それがレイヴンとの最後の仕事になるのなら、最後まで笑ってやり遂げたい。
そう決意した理沙は、改めて大きく息を吐くと、にっこりと笑みを作った。
振り返り、再び二人の動向を観察しようとする――だがその時、信じられない言葉がシャルロッテの口から零れた。
「ごめんなさいレイヴン。そう言ってくれて、本当に……本当に嬉しい。でも、……だめなの。わたしはあなたと――共に生きていくことは、出来ないわ」
長い沈黙の後、レイヴンはゆっくりとその体を離した。俯いたままのレイヴンを仰ぎながら、シャルロッテは穏やかに微笑む。




