Case3-10
「……!」
変貌を目の当たりにしたちさとは、さすがに言葉を失っているようだった。その顔を悲しそうに見つめながら、龍神様は大きな鼻先を彼女に向ける。
「怖いでしょう? でもこれが……わたくしの本当の姿なのです」
「……本当の、姿?」
「ええ。わたくしとあなたは違う生き物。ともに生きていくことは出来ません」
『――共に生きていくことは、出来ないわ』
(――⁉)
突然脳裏をよぎった声に、理沙ははっと目を見開いた。慌てて周囲を窺うが、誰も理沙に話しかけた気配はない。
(今のは、一体……)
だが今は二人の動向に注目しなければと、理沙は思考を振り払った。ちさとは答えを導き出せないまま、しばし茫然と立ち尽くしていた。
やがて人の姿で戻って来た龍神様は、ちさとの前に歩み寄ると『すみません』と小さく零す。
「分かっていただけましたか? どうか、あなたはこのまま人として――」
すると龍神様の手を、ちさとは両手でがしっと握りしめた。
「そんなの嫌です!」
「えっ」
「うちはどうしたらいい? あっ、もしかして儀式をすればいいん?」
言うが早いかちさとは、ぽかんとする龍神様を残し、どこにそんな体力が残っていたと聞きたくなるような勢いで走り出した。
理沙が止める間もなく、水泳の飛び込み選手のようなしなやかさで、滝壺めがけて身を投げる。
「えーっ⁉ ちょっ、レイヴン! た、助けないと!」
「もう向かっているようですよ」
レイヴンの冷静な言葉通り、いつのまにか姿を消していた龍神様が、ざばあとすぐに水面から飛び出してきた。
ちさとを抱きかかえたまま、祭壇の隅にへろへろと倒れ込む。若干涙目になったまま叫んだ。
「な、なんてことするんですかー⁉」
「だって、うち元々『龍神様の花嫁』に選ばれてたし」
「そ、それは! そもそもわたくしが望んだことではなくてですね!」
「相手がリュウなら、うちは喜んで嫁になるわ!」
ストレートすぎるちさとの言葉に、龍神様は二の句が継げないようだった。白い肌は真っ赤に茹で上がり、ああでもないこうでもないと説得の材料を探している。
「そ、そうだ! わたくしと契りを結ぶと言うことは、人ではなくなるということなのですよ⁉」
「人やなくなる?」
「わたくしと寿命を共にする――人よりはるかに長く、その時を生きることになるのです。恐ろしいことだと思いませんか?」
真摯に説き伏せる龍神様を、ちさとは黙って見つめていた。だがすぐににっこりと微笑むと嬉しそうに口を開く。
「すっごく素敵やない!」
「ど、どうして、そうなるのです……!」
「だって、ずっとリュウと――好きな人と一緒にいられるということやろ?」
「そ、れは……」
「それに逆に言うならうちが嫁に来んと、リュウはこの先ずうっと一人ってことやない? ……うちは、リュウにそんな思いさせる方が嫌や」
ちさとの純粋な返しに、龍神様はついに白旗を上げたようだった。もう顔も上げられないとばかりに両手で顔を覆う龍神様を見て、理沙は嬉しそうに笑う。
「本人同士が望んでいれば大丈夫……ですかね」
「まあ、これも一つの『幸せな恋』ではあるでしょう。……もちろん、けして楽な未来ではないでしょうが」
淡々としたレイヴンの言葉に、理沙は静かに視線を落とした。
ただの人であったちさとは、龍神様と同じ途方もない時間を生きることになる。人としての輪廻から外れ、同じ時を生きて来た人を見送り、たった一人になっていく途方もない悲しみを味わうことだろう。
だがその代償として、幼い日からずっと恋い慕っていた龍神とともに暮らせる。十年先も、百年先も――。
それが『幸せな恋』なのか、理沙には分からなかった。
でも。
「きっと――『どうしたいか』を自分で選びとれることが、大切なんだと思います」
ぽつり、と零した理沙の横顔を、レイヴンは静観していた。だがすぐに理沙の頭に手を伸ばすと、ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でる。
「な、何するんですか⁉」
「まだたった二回目なのに、もう随分とこの仕事をこなしてきたような、生意気なことを言うものですから」
「い、良いじゃないですか!」
「誰も悪いとは言っていませんよ。それよりも――はい」
するとレイヴンはいつの間にか持ってきていた化粧鞄を、理沙の腕の中にどすと下ろした。突然のことに理沙がぽかんとしていると、レイヴンはいつもの美しい微笑を浮かべる。
「最後の仕事が残っていますよ」
「は、はい!」
そうしてちさとに押し切られる形で、『龍神様の花嫁』の儀式は行われた。もちろん滝壺に投げ込まれるわけではなく、レイヴンの裏技的早業によって仕上げられた婚礼衣装を着たちさとに、理沙が化粧を施す。
その後、理沙とレイヴンが見届ける前で、二人だけの式が執り行われた。
祭壇の前で龍神様が誓詞を読み上げ、ちさとがそれに答える。それから小刀でそれぞれ髪の端を短く切ると、滝壺の中にはらりと零した。
きらきらと光を弾く水面に吸い込まれるように消えていくそれらを見て、龍神様とちさとは目を細める。
晴れ渡る青天。
穏やかな日差し。
世界のすべてが、二人の結婚を祝福しているかのようだった。
重たい花嫁衣裳をようやく脱ぎ、髪や化粧も元通りになったところで、ちさとは理沙の手をとると、嬉しそうに感謝の言葉を口にした。
「りさ、うちを助けてくれてほんとにありがとう!」
「あたしの方こそ、たびたび助けてくれてありがとね。もー本当に怖かった……」
「そうなん? なんかすごい肝が据わってたから、頼もしかったわ」
「あはは……」
ない虚勢も張ればなんとかなるものだ――などと口にするわけにもいかず、理沙は誤魔化すように微苦笑を浮かべた。
するとちさとは、遠くで龍神様と話しているレイヴンの方を見た後、こそこそと耳元に手を当ててくる。
「なあ、あの例文さんって、りさの良い人なん?」
「え⁉ な、なんで、そんなことに⁉」
「え? だって蛙男から助けてくれた時、例文さんすっごい剣幕やったし。やからてっきり、二人は夫婦なんやと思って……」
「め、めめ、夫婦じゃないから!」
咄嗟に否定したものの、理沙は内心パニックに陥っていた。あの時は蛙男をどうするかばかりで、レイヴンの顔なんて見る暇すらなかった。
でもちさとの言う通り、きっと必死になって助けに来てくれたのだろう、と考えるだけで理沙の胸はとくんと音を立てる。
(いやでもあれは、そういう作戦だったというか! 龍神様が来れないというイレギュラーがあったわけで! 別にわたしが危険だからとかそういうのじゃ……ないと……思う、けど……)
次第に顔が熱くなってきて、理沙は思わず頬に両手を当てた。するとそれを見たちさとが、どこか楽しそうに囁く。
「でも、りさは例文さんのこと、好きなんやろ?」
「はあ⁉」
「違うた? 例文さんを見る目がぽうっとしてるから、そうなんかなって」
突然の指摘に、理沙はぽかんとしたまましばらく目をしばたたかせた。
(嘘……わたし、そんな、分かりやすく態度に出してた⁉ そ、そもそも、好きって決まった……わけじゃ……)
そう言いかけて――完全に否定しきれない自分がいることに、理沙はこの時ようやく気がついた。顔から火が出るようで、必死に頬を叩いて熱を下げる。
そんな分かりやすい理沙の態度に、ちさとはぐっと拳を握りしめた。
「好きなら好きって言わんと。男の人は意外と恥ずかしがりやから」
「は、はは……」
龍神様を恥ずかしがり屋扱いできる度胸もすごいが、先ほどのちさとのプロポーズ攻撃を見た理沙には、もはや確かにという説得力しかなかった。
(好き……。好き、かあ……)
頬に朱を走らせたまま、ちらとレイヴンの方を見る。龍神様となにやら熱心に話しているようで、こちらを向く気配はなかった。
その綺麗な横顔に理沙は目を奪われたが、すぐにぶんぶんと首を振る。せっかく下がった顔の熱が、またかっかと燃え滾るようだった。
「――例文殿。本当にありがとうございました」
「いえ。こちらこそ、ご助力いただけましたことに感謝申し上げます」
相変わらず微妙な発音のまま、龍神はレイヴンに向かって深々と頭を下げた。ゆっくりと上げた龍神の顔は、憑き物が落ちたかのように晴れやかで、レイヴンは少しだけ安堵する。
すると龍神がレイヴンに向かって問いかけた。
「ずっと……不思議でした。どうしてあなたは、彼女に向かって素気無くするのかと」
「……どうして、とは」
「だって本心では、ずっとご自分の手元に置いて、どんな危険からも守ってあげたいと思っておられるのに……決してそうしようとはなさらない。何故です? あなたであればきっと彼女も――」
だが龍神の言葉を聞いたレイヴンは、ただ静かに首を振った。
「あれが勝手に走り回るから、制御しきれないだけです」
「……例文殿」
「彼女には、そうして欲しいのです。ただひたすら、自由であってほしい」
――どうか私などには、捕らわれずに。
最後の言葉だけを呑み込んで、レイヴンは寂しそうに目を細めた。




