Case1-2
からん、と清楚な鐘の音がして、一気に目の前の世界が広がる。
(ここ……洋裁店? クーチュリエ?)
男性用のスーツを着たマネキン。
しかし隣には女性用のドレスも飾られている。
窓際には見ただけで高価だと分かる本革の応接ソファ。奥には艶々とした飴色に輝く木目のカウンターがあり、その奥の棚にはさまざまな種類の生地が、色合いごとに整然と積まれていた。
漂う空気が明らかに高級店のそれで、理沙は踏み込んだことに一瞬だけ後悔する。だが目の前に現れた人物を見た瞬間、その躊躇はすぐに吹き飛んだ。
『Bienvenue, mon seigneur. Toi et Moi.』
「――ッ!」
しっとりとした絹糸のような黒髪。
肌は大理石のように滑らかで、少し長い前髪の合間からは黒曜石の瞳と長い睫毛が覗いている。鼻筋はすっと通っており、薄く整った唇が異国の言語を口にした。
背は高いが、威圧感を与えない均整のとれた体型。
濃いブラウンのネクタイに、長袖の白いシャツ。袖の中ほどに引き上げるためのバンドがついていた。そして背中部分が大きく開いたベスト――こちらではジレというのか――を重ねている。
首元には目盛りのついた紐が下がっており、どうやら採寸用のメジャーのようだ。
間違いないと確信した理沙は、彫刻のような顔に凝視されながらも、しどろもどろに言葉を紡ぐ。
「あ、あの、ええと、ア、アイ、ウォンテッド、ディスショップ……」
『Qu'est-ce que c'est?』
「アイブ、ウォンティド、トゥ、シーユー!」
『……』
だめか、と理沙は絶望したように眉を寄せる。
だが青年はわずかに目を細めると、がらりと発声を変えた。
「――これなら分かりますか?」
「あっ⁉ に、日本語⁉ しゃ、喋れるんですか?」
「仕事で必要な時がありまして、一通り勉強しました」
にこ、と微笑む青年を前に、理沙はうっかり涙を浮かべそうになった。ちゃんと伝えなければ、と持っていた口紅を青年の目の前に掲げる。
「あの、これ! 昔、あたしにくれましたよね⁉」
「え?」
「四年前! 日本で! 公園で泣いていたあたしに!」
だが理沙の剣幕に対して、青年はきょとんとした表情を浮かべている。たまらなくなった理沙はそのまま一息に、溜まっていた感情を口にした。
「あの、その節は、本当にありがとうございました! この口紅のおかげであたし、お化粧とかお洒落が好きになって、友達も出来て……だから、自分だけじゃなくて、同じように悩んでる女の子を綺麗にするお手伝いがしたくて、それで! こ、ここまで、留学して、きて……」
そこで理沙はようやく、自分がべらべらとしゃべりすぎていることに気がついた。お礼を言うだけのつもりだったのに、気づけば自分の身の上まで語っている。
あああと自己嫌悪に陥る理沙だったが、青年はさして気にした様子もなく、ふ、と一笑した。
「たしかにそのくらいの時期、日本に出向いたことはありました。ですが、あくまでも仕事の都合。あなたとはお会いしていないと思いますよ」
「――へ?」
突然の肩透かしを食らった理沙は、自分でも驚くほど情けない声をあげてしまった。すると青年は理沙が手にしていた口紅をひょいと持ち上げ、どこか嬉しそうに眺める。
「ああ、でもうちの商品であることは間違いないです」
「で、ですよね! こちらの商品、で……」
言いかけて、理沙はふと口をつぐんだ。
店内を見る限り、この店は洋裁店かドレスを仕立てるクーチュリエだろう。そこの商品にどうして口紅が? という疑問が浮かぶ。
「あの、こちらのお店って……」
「ここは『Toi et Moi』――ただの仕立て屋ですよ」
そう言うと青年は、その美しいかんばせを再び笑みに変えた。
理沙はその瞬間――間違いない、と息を吞む。
(やっぱりこの人が、口紅をくれた人だ……!)
証拠があるわけでもない。
当の本人も違うと否定している。
だが理沙の本能はどうしようもないほど、彼がその人物であると訴えていた。何とかしてこの思いを伝えたい、と理沙は必死になって言葉を続ける。
「あ、あの、お礼をさせてください!」
「お礼?」
「わたし、この口紅に本当に救ってもらったので……その、本当は代金をお支払いすべきだとおもうんですけど、今あまり、お金がなくて……」
「ですから、この口紅は私では――」
「なのでええと、……か、代わりに働きます! お給料はいりませんし、掃除でも荷物運びでもなんでもします!」
理沙のあまりの勢いに、さすがの青年も驚き目を見開いていた。だがすぐに微苦笑を浮かべると、そっと理沙の顔に手を伸ばす。
(――⁉)
突然のことに、理沙は思わず目を瞑った。
すると青年の指が、額にはりついていた理沙の前髪を優しく払う。先ほどからの緊張で汗がにじんでいたのだろう。
返答を今か今かと待ち望む理沙に向けて、青年は丁寧に告げた。
「必要ありません」
「……え」
「さして大きな店ではありませんし、人手には困っていません」
「で、でも」
「見たところ、あなたは学生でしょう? でしたらアルバイトをするよりも、まずは勉学に集中するべきです」
「それは、そうなんですけど……」
「お礼なら、ダンスパーティー用のドレスが必要になった時、ご相談ください」
青年はそう告げると、実に可憐に微笑んだ。
だがその表情には『これ以上は来ないでください』という意志がはっきりと感じられ、理沙は思わず二の句を呑み込む。
しかしここで諦めるわけにはいかないと、ぎゅっと口紅を握りしめた。
「と、突然、変なことを言ってすみませんでした……。でもあたし、本当に感謝していて、しきれないくらいで……だから、あの、ま、また来ます! それで、あの、……お、お名前だけでも教えていただけませんか?」
青年はわずかに眉を寄せた後、渋々というように呟いた。
「――レイヴン。レイヴン・リヴァハート」
「あたしは理沙、天音理沙です!」
すると青年は理沙の方をじっと見つめた後、薄く唇を開いた。