Case3-8
「――ふぅむ。金に桜色とは、実に珍しい毛色よ。それにわずかに『神格』の匂いがするが……」
すると老人は目を眇め、何かを思い出すようにゆっくりと瞬きした。その仕草を間近で見た理沙は、ようやく違和感の正体をつき止める。
(この人たち、下瞼で瞬きしてるんだわ……!)
普通の人であれば上瞼が下りるもの。だが彼らは濡れたような大きな眼を、下瞼で蓋をするように瞬きしている。その姿にどこか見覚えがあり、理沙は必死になって記憶を手繰った。
だが老人の手が頬に触れ、理沙は嫌悪に思わず鳥肌を立てる。
(ど、どうしよう――)
するとその直後、老人の頭に朱塗りの盆が叩き込まれた。そのままぐらりと仰向けに倒れ込む。
突然の光景に理沙は目を見開き、慌てて背後を振り返った。そこにはすぐ後ろについていたちさとが、はあはあと息を荒げながらお盆を握りしめている。
「だ、旦那様! 貴様、何を――ぐふぁっ!」
血相を変えたお付きの男めがけて、理沙は右手で押し込むように肘鉄を食らわせた。その流れるような仕草に、男は抵抗する間もなく卒倒する。
畳の上に昏倒した二人の男を前に、理沙は高らかに吼えた。
「なめんじゃないわよ!」
助けてくれたちさとに素早く礼を言い、理沙は女たちを廊下へと逃がす。最後の一人が部屋を出たのを確認し、理沙は自らも脱出しようと後に続いた。
だがようやく意識を取り戻した老人とお付きの男が、背後から迫って来る。
「貴様! よくも儂の餌を……! 絶対に逃がさんぞ!」
すると廊下に面していたすべての襖が、一斉にパァンと開いた。中からは宴会の客――ではなく、黒くどろりとした膜に覆われた何かがぶわわわとあふれ出てくる。
見た目のあまりの気持ち悪さに、理沙はぎゃー! と顔を歪めた。
「何これ⁉」
「子らよ! 女たちを捉えよ!」
老人の掛け声を合図に、黒いぶよぶよは理沙たちに襲い掛かった。一番後ろを走っていた理沙の腕にしゅるりと巻き付くと、べたりと廊下にへばりつく。
「いやー⁉」
「だ、大丈夫ですか⁉」
気づいたちさとが戻り、引き剥がそうと試みるが、ぶよぶよは理沙の腕に食らいついたまま離れない。このままではまずい、と理沙は首を振った。
「ちさとさんは逃げて! 早く!」
「でも……」
「いいから!」
狼狽えるちさとに顎で合図し、理沙は再び自身の腕と向き合った。かんざしで何度かぶよぶよを刺してみるが、ゼリーのような感触が伝播するばかりで、ダメージを与えられている感じがしない。
(どうしよう、離れない……!)
そうしているうちに、下卑た笑いを浮かべた老人たちがじわじわと歩み寄って来る。かんざしを持つ手が震え、理沙は自らを叱責するかのように唇を噛んだ。
その瞬間――ぶちぶち、と太い縄が千切れるような音がして、今まで理沙を縛り付けていた力が一気になくなった。
途端に理沙はバランスを崩し、そのまま仰向けに転倒する――と思ったところで、背後からしっかりとした胸板に抱きとめられた。
見ると黒いぶよぶよは、理沙の腕と床に張り付いていた部分の真ん中あたりで切られており、頭上からはあ、と聞き慣れたため息が漏れる。
「まったく……私が来るまで待てないんですか、あなたは」
「レイヴン!」
レイヴンは理沙の体をぐいと引き寄せると、すぐに自身の後ろへと庇いたてた。その手には何故か立派な刀が握られており、理沙は思わず口をつく。
「に、日本刀……使えるの⁉」
「フェンシングは嗜んでいたんですが……残念ながら、これしかありませんでした」
刀身を振り下げ、波紋についたぶよぶよの欠片を払う。レイヴンが手慣れた様子で鞘に納める姿を見ながら、理沙はもう一人の存在を尋ねた。
「あれ、龍神様は?」
「どうやら神格が拮抗していて、ここに入ることが出来ないようです。あいつの力を落とすことが出来れば―― っ!」
斬られて弱体化していたのか、水たまりのように廊下に広がっていた黒いぶよぶよが、今度はレイヴンめがけて触手を伸ばしてきた。次から次へと掴みかかってくる様に、レイヴンは苛立った表情を浮かべている。
そこに強い風圧が押し寄せたかと思うと、直後ぎゃいん、と金属の擦れあう嫌な音を立てた。目の前の光景に理沙は息を吞む。
「――レイヴン!」
先ほどの老人が、レイヴンめがけて勢いよく日本刀を振りかざしてきた。レイヴンがそれを素早く受け止めると、老人はにやと口元を歪める。
「なんだ貴様は! この世のものではないな!」
「お察しの通り、私はただの『異邦人』です。ですがあなたも、この国の元々の神ではないようですが?」
「貴様の与り知らぬことよ!」
老人とは思えない身のこなしで、両者の剣戟は長く続いた。レイヴンは涼しい顔をして対抗しているが、その足元がじりじりと後退しているのが分かる。やはり慣れない武器では本領を発揮できないのかもしれない。
敗色がわずかに滲んだその瞬間、突然レイヴンが叫んだ。
「リサ! 『神体』を破壊してきてください!」
「わ、わかりました!」
「させん!」
老人は慌てて理沙を止めようとしたが、その進路をレイヴンが妨害する。理沙はその隙に転がり出るように廊下を走ると、目につくものを探し始めた。
屋敷の中の部屋を片っ端から巡回する。
どの部屋にも金色の畳が綺麗に敷かれており、床の間には花瓶や翡翠、掛け軸などが飾られていた。高級な旅館となんら遜色ない豪華さだ。
(一体『神体』って何だろう……? 鏡……はないし、木は庭にいっぱい生えてるからどれかわかんないし……)
それに大切なものをわざわざ外に置く理由もないだろう。理沙はさらに思慮を巡らせる。
(剣……さっき使っていた刀以外、武器は見当たらないし……。もしも櫛だったりしたら、この時間だけで探しきれるかどうか……)
だがこのままではレイヴンがやられてしまう、と理沙は必死になって次々と襖を開け放った。迷路のように続く部屋の中を、とにかく延々と駆けまわる。だがどこにも神体らしきものはなく、理沙は祈るような気持ちで次の部屋に手をかけた。
するとその瞬間ぴりっとした痛みが走り、理沙は一度手を引っ込める。
「……?」
恐る恐る襖を開ける。今度は痛くない。
その部屋は他の部屋より広々としており、御影石の床の間と掛け軸が飾られていた。一見すると何の変哲もない光景なのだが、理沙は妙に気になり、しらみつぶしに室内を確認する。
(これ……石?)
やがて理沙は床の間の前にしゃがみ込んだ。
別の部屋に飾られていたのは見事な翡翠や瑪瑙の原石だったが、ここにあるのはどう見てもただの灰色の石だ。
どうしてこんなものを大切に飾っているのか……と理沙は吸い寄せられるように手を伸ばす。
(――!)
だが指先が触れた瞬間、まるで引き込まれるような力を感じ、理沙は慌てて手を離した。まるで魂ごと持っていかれそうな不思議な感覚に、理沙は何度か自身の手のひらを確かめる。
(間違いない……これが『神体』……!)
理沙はすぐさまかんざしを構えると、石の上で振りかぶる。
だがその腕を、どこからか現れた付き人の男がわしづかんだ。そのまま理沙の体ごと引っ張り上げられる。




