Case3-2
『Que c'est beau…(なんて美しいんだ……)C’est Félix.(俺はフェリクス) Comment vous appelez-vous?(名前をお伺いしても?)』
「え⁉ あ、あの⁉」
間に挟まれた『フェリクス』という名前は聞き取れた。だが最初と最後がまったく聞き取れず、理沙はたまらず目を白黒させる。
しかし美丈夫は苛立った様子もなく、恭しく理沙の手を持ち上げた。フェリクスの手には白い手袋があり、すべすべとした絹の手触りが心地よい。
『Mon poussin…Quel est ton amant?(可愛いひよこちゃん……恋人はいるのかな?)』
「え、ええっと……」
まずい早い全然分からない、と理沙は冷や汗をかく。
その直後、いつのまにか戻って来ていたレイヴンが美丈夫――フェリクスの横腹を靴裏で蹴り飛ばした。
フェリクスは『Aie!』と叫びながら派手に転倒したものの、すぐに起き上がる。
『O joie! Un accueil enthousiaste.(おっと! 随分情熱的な歓迎だね)』
『Merci c’est gentil, mais non merci.(ありがとうございます。どうぞお引き取りを)』
(……? な、なんて言ってるの?)
短いものやゆっくりしたフランス語なら聞き取れるようになってきた理沙だが、今目の前で繰り広げられている舌戦には、まるで割って入れる隙が無い。
とりあえずレイヴンの知り合いであることは間違いなさそうなので、理沙はこっそりと店内の清掃に戻ろうとした。
するとフェリクスが再び理沙の前に回り込んでくる。見上げるような長身に迫られ、理沙は思わず『ぎゃー!』と悲鳴を上げてしまった。
その光景にレイヴンが、不快そうに眉を寄せる。
「フェリクス、いい加減にしろ。お前も喋れたはずだろう?」
「――ごめんごめん、あんまりリアクションが良いから、ついからかいたくなって」
「へ⁉ えっ⁉」
先ほどまでの会話はどこにいったのか。突然流暢な日本語を話し始めたフェリクスに、理沙は開いた口が塞がらなかった。
彼は鼻歌を歌いながら、手にしていた紙袋から白い箱をごそごそと取り出す。中から現れたのは、黒いエナメルのハイヒールだ。
「あらためまして、僕はフェリクス・マクレガー。仕事は『Magasin de chaussures(靴屋)』だよ」
「く、靴……?」
よく見るとその靴は、前回の『裏稼業』で理沙がボロボロにしてしまったものだった。ヒールやつま先に細かな傷がついていたはずだが、今はすっかり元のすべらかさを取り戻している。
そこで理沙はようやく、レイヴンの言っていた言葉を思い出した。
「もしかして、フェリクスさんが『ツテ』ですか?」
「はい。と言っても、腐れ縁のようなものですが」
「ひどいなあ。同じ『調停者』なのに」
その言葉に理沙はえっ、と目を見開いた。
「フェリクスさんも『調停者』なんですか⁉」
「うん。なった時期はこいつよりもずっと後だけどねー」
あっはっはと豪快に笑いながら、フェリクスは隣に立つレイヴンの背中をばしばしと叩いた。見たところ、どうやらフェリクスの方が少しだけ背が高いらしい。
レイヴンの瞳がだんだん険しくなっているのに気づいた理沙は、話題を変えようとフェリクスに話しかけた。
「あの、素敵な靴をありがとうございました! すみません、ひどい扱いをしてしまって……」
「いいんだよ。靴は人に履かれてこそだ。でもちょっと気になることがあって――そぅれ!」
「ひゃあ⁉」
するとフェリクスは、突然理沙を抱き上げた。
揃えた足を抱え、自身の腕に座らせるように持つと、肩に手を置くよう目で合図する。理沙がフェリクスの肩を掴むと、意気揚々と店奥の小部屋へと向かう。
「あの、フェリクスさん⁉」
「はは! 本当にひよこのように軽いな!」
「ひ、ひよこってどういう意味ですか⁉」
もしかしてこの髪のせい⁉ と理沙が混乱している間に、フェリクスはソファの上にそっと理沙を下ろした。
理沙が履いていたスニーカーと靴下を脱がせると、丁寧に裸足の指先に手を添える。
『Donc c'est tout…etait-ce un peu trop gros.(なるほど、少し大きすぎたか)』
「な、なんですか⁉」
「少し大きすぎた、と言っているようです」
遅れて現れたレイヴンが、呆れたような目でフェリクスを眺めていた。当のフェリクスは何かのスイッチが入ってしまったかのようで、熱心に理沙の足を観察している。
気づけば小さなメジャーや三角定規のようなものまであてがわれ――やがて満足したのかフェリクスはゆっくりと立ち上がると、ふうと爽やかに額の汗をぬぐった。
『C'est génial!(あーもーほんとサイコー!)』
「言葉が戻っていますよド変態」
「あっ悪い悪い!」
まるでいたずらを怒られた子どものようにウィンクすると、フェリクスは再び理沙の前にしゃがみ込み『ごめんね?』と微笑んだ。
美丈夫のギャップに理沙がどきどきしていると、フェリクスは先ほど見せてくれた黒のハイヒールを絨毯の上に置く。
「むっつり野郎から『女性のパーティー用の靴を一つ』という依頼を受けて、とりあえずこの靴を渡したんだが……どうやら日本人の君には少し大きかったようだね」
「む、むっつり?」
「美しい君の足を、俺の靴が傷つけてしまって申し訳ない……良ければ、君のための靴を改めて俺に作らせてもらえないかな」
陶酔するようなフェリクスの視線を受けて、理沙はうっと言葉を詰まらせた。『Non, merci.(結構です)』とは言い出せない重圧を前に、恐る恐るレイヴンに視線だけで助けを求める。
だが頼みの綱であったレイヴンでさえも、さらりと肯定を示した。
「いいんじゃないですか、作ってもらえば」
「で、でも」
「でも?」
「その、あたし、そんなにお金がないんです……」
それを聞いたフェリクスはしばしきょとんとしていたが、すぐにあの豪快な笑い方をしてみせた。今度はレイヴンも口元を押さえており、理沙は何か間違ったことを言ったのかと狼狽する。
「――失礼。フェリクスのナンパに、そこまで真面目な返事をする女性は初めて見たな、と」
「ナ、ナンパ⁉」
「ひどいなあ、俺はいつだって本気で愛を囁いているのに」
「こいつは気に入った足の女性を見つけると、一通り観賞した後、礼として靴を作るんです。こちらの女性は靴を贈られることなど当たり前でしょうが……あなたにはまだ、少々早かったかもしれませんね」
「そ、そうならそうと言ってください!」
てっきり高額な靴を押し売られるのかと思っていた理沙は、安堵と同時に憤慨する。その顔がまた面白かったのか、レイヴンとフェリクスは再び楽しそうに笑った。
するとレイヴンを睨みつけていた理沙の視線の先に、突如封筒が現れた。レイヴンはすぐに普段の顔つきに戻ると、すばやく開封し中をあらためる。
「ナンパ中に申し訳ありませんが……リサ、仕事です」
「は、はい!」
「お、行ってらっしゃい! 留守番はおまかせあれー」
理沙は慌ただしく元のスニーカーを履くと、赤い化粧鞄を手に取った。リュックよりこちらの方が安全だから、今度からはこちらで仕事に臨むようにと釘を刺されたのだ。
ひらひらと手を振るフェリクスに頭を下げながら、理沙はこっそりレイヴンに尋ねる。
「あの、フェリクスさんは来ないんですか?」
「フェリクスはたしかに『調停者』ですが、依頼される内容が違うのです」
「内容が違う?」
どういうことだろう? という疑問を持つ暇もなく、理沙とレイヴンはいつもの扉の前に到着した。
互いの準備が整ったのを確認すると、レイヴンがドアノブに手をかける。
ガチャリ、といつもの金属の音がし、扉の向こうから光が差し込んできた――




