Case2-10
「さて、そろそろ私たちも帰りますよ」
「あ、はい!」
レイヴンに呼ばれ、理沙は慌てて一歩を踏み出した。だが足にじくりとした痛みを感じ、思わず足をひっこめる。
「リサ?」
「あ、足が……」
恐る恐るかかとを見る。慣れないハイヒールで走り回ったせいか、なかなかの傷が出来ていた。見ると余計に痛覚が刺激されてしまい、理沙は不格好に足を引きずる。
「だ、大丈夫です。これくらい――⁉」
だが苦笑いを浮かべたのとほぼ同時に、ふわりと理沙の体が浮かび上がった。気づけばレイヴンに横抱きにされており、間近に迫る美貌に理沙の鼓動が早まる。
「レ、レイヴン⁉」
「面倒です。このまま帰ります」
「で、でも」
「婚約者なら、甘えるのが普通だと思いませんか?」
「まだその役やるんですか⁉」
『婚約者』という盾を取られ、理沙はそれ以上何も言えなくなってしまった。レイヴンはそのまますたすたと部屋に戻ると、一旦理沙をソファに座らせ、着替えの入った理沙のリュックとスニーカーを背負う。
差し出された化粧鞄を、理沙はおずおずと胸の前で抱えた。
やがてレイヴンは、ポケットからいつもの懐中時計を取り出して蓋を開く。すると以前も聞いた鐘の音が、遥か上空から鳴り響いた。
「さあ、行きましょうか」
「うう……」
逃げ出せない理沙を、レイヴンがどこか楽しそうに抱き上げる。まるでアデライトとヴィクトルを思わせる体勢に、理沙はそれ以上顔を上げることが出来なかった。
扉をくぐると、そこは見慣れた『トワ・エ・モア』の店内だった。レイヴンは理沙を応接用のソファに下ろすと、その隣に荷物を並べる。
理沙はようやくハイヒールを脱ぐと、ほっとしたように足を投げ出した。だがすぐに飛び上がると、ソファの上で正座する。
「す、すみません! せ、せっかくのドレスと靴が……」
見ればドレスは汗と人混みに押されて皺が寄っており、ヒールにも細かな傷がいっぱいついていた。
弁償しないと……とレイヴンからのお叱りを待っていると、意外なことに穏やかな声色が返ってくる。
「構いません。これが私の仕事ですし」
「へ?」
「『悲恋』の筋書きを書き換えるために、必要であれば衣装を仕立てる。ヴィクトルに用意したスーツも、同じ仕事の一環です」
「そ、そういえば……」
「それに今回はあなたも、多少は働いたようですし」
大きく見開いた理沙の目が、レイヴンの漆黒の瞳とぶつかった。途端に恥ずかしくなり、理沙はすぐに床に視線を落とす。
だがレイヴンがぽろりと口を滑らせた。
「まあ、靴は管轄外ですが」
「えっ」
「これこそ気にしなくて構いません。古くからのツテですから」
「ツテ?」
よく分からないが、怒られるわけではなさそうだ。理沙は心の底から安堵すると、ようやくほっと肩の力を抜く。
するとタイミングよく、レイヴンの頭上に手紙が現れた。レイヴンは慣れた手つきで受け取ると、さっさと開封する。
「……お二人は無事追っ手から逃げ切ったようです。国境を越えた後小さな村で生活を始め、たくさんの子どもたちとともに幸せに暮らした……と。」
「じゃ、じゃあ……」
「ええ。成功ですね」
「やったー!」
理沙は抑えきれない喜びを発散するかのように、天に向かって高く両手を突き上げた。それを見ていたレイヴンは微苦笑を浮かべる。
「良かったですね」
「はい!」
理沙は臆面もなく答えると、下ろした自身の両手をじっと見つめる。
(行動すること自体に、意味がある……)
かつてのレイヴンの言葉を噛みしめるように、理沙は再び強く拳を握りしめた。
新しい週の始まりを迎え、理沙は緊張した面持ちで教室へと向かった。入学してからまだ一週間だというのに、既にいくつかのグループが出来上がっており、理沙は自身の席に鞄を下ろすと静かに椅子に座る。
リュックから筆箱とノートを取り出した。
隣には相変わらず寝入った状態の王子がおり、理沙はよしと気合を入れる。
(だ、大丈夫……行動することに、意味がある!)
「ボ、『bonjour!』」
「……」
始業前の騒めきの中、理沙と王子の間に流れる沈黙だけが、はっきりと浮かび上がるようだった。でもここで照れていてはだめだ、と理沙はボリュームを上げて再度呼びかける。
『bonjour!』
『……Oui?』
するとようやく届いたのか、王子がゆっくりと顔を上げた。ぼんやりとした目をぱちぱちと瞬かせており、まだ半分夢の中にいるようだ。
理沙は返事が来たこと自体に感動しながらも、はっと次の言葉を思い出す。
(だ、大丈夫、練習したし……!)
『P…pouvez-vous être un ami à moi……?』
友達になってほしい、という意味の言葉を告げると、王子は理沙の顔をじっと見つめたまま、しばし無言で固まっていた。
理沙は最後の審判を待つ罪人のような気持ちで、王子の返事を待つ。
(や、やっぱりおかしかったのかな? で、でも……)
すると王子は軽く首を傾げると、何やら早口で返してきた。
『C’est la première fois qu’on me le dit.(そんなこと、初めて言われた)』
「え⁉ あの、も、もう一回」
『d'accord.(いいよ、別に)』
慌てふためく理沙をよそに、王子は初めてにっこりと笑った。相好を崩すと今までの怜悧な美貌が一気に華やかなものになり、理沙は思わず口元を手で押さえる。
顔が良いのはレイヴンで見慣れたと思っていたのだが、世界には本当に色々な驚きがあるものだ。
『C’est Gérald.(ジェラルドだ)』
「ジェラルド……?」
Oui、と肯定を表す言葉が返って来て、理沙はぱあっと破顔した。慌てて自身の名も繰り返す。
『Je m’appelle Risa! Cordialement!』
すると王子――ジェラルドは、理沙に向けて軽く親指を立ち上げた。だがすぐに大きなあくびをしたかと思うと、再びむにゃむにゃと夢の世界に戻って行く。
とても短いやり取りだったが、それだけで理沙の心臓はばくばくと破裂しそうだった。
(や、やったー! ちゃんと言えた!)
拳を突き上げたいところを、ぐっと我慢して小さくガッツポーズする。すると今度は赤毛ボブカットの女の子が、いつものように始業ぎりぎりに飛び込んできた。
教室に入った途端、いろんな方向からかけられる挨拶に軽快に応じつつ、彼女は理沙の前の席にどかりと座る。
だがすぐにくるりと振り向くと、理沙の筆箱を指さして目を輝かせた。
『C’est mignon!(ちょーカワイイ!)』
(えっ⁉ か、可愛い、……って言った?)
彼女が向ける指の先には、日本で有名な猫のキャラクターが描かれていた。これのこと? と理沙が恐る恐る指し示すと、うんうん! と大きく頷く。
『J'aime vraiment ça!(私、それ大好き!)Viens tu du japon?(あなた、日本から来たの?)』
「へ⁉ あの⁉」
日本、という単語が聞こえた気がして、理沙はとっさにぶんぶんと頷いた。すると赤毛の女の子は大きな瞳をいっぱいに開き、満面の笑みで理沙の手を握りしめる。
『J'aime le Japon!(日本大好きなの!)アニメ、コスプレ!』
「――⁉」
突然聞こえて来た日本語に、理沙はあわわと目を見開いた。だが理沙の困惑をものともせず、女の子はなおも理沙の手を掴んでいる。
『C’est Chloé! ravi de vous rencontrer!(よろしくね)』
「ウ、Oui……」
どうやら彼女はクロエというらしい、となんとか理解したところで、講師が教室に現れた。席を移動していた面々は自分の席に戻り、理沙も慌ててテキストを広げる。
ちらりと見た筆箱のキャラクターが、理沙に微笑みかけているかのようだった。




