Case2-8
レイヴンがようやく手を離すと、男はすぐさまレイヴンの前から飛びのいた。他の男たちも緊張を露わにしており、そんな彼らを前にレイヴンは美しい笑みを浮かべる。
「彼女は私の婚約者です。何かご無礼をいたしましたなら、どうぞわたくしに」
「あ、あたし、何もしてないです!」
「このようにとんだ『mégère』でして。それで? いかがされましたか」
見透かすようなレイヴンの視線に、男たちはしばし互いに視線を交わしていたが上手い言い分が思い当たらないようだった。
それを見たレイヴンは理沙の肩を抱くと、さっさと回廊の奥へと足を向ける。
だが二人が背中を見せた隙をついて、先ほど腕を掴まれた男がレイヴンめがけて殴りかかった。驚いた理沙が悲鳴を上げるよりも早く、レイヴンは身を翻すと固く握りしめた拳を男の腹に突き立てる。
ぐは、とくぐもった声が聞こえ、男はそのままどさりと倒れ込んだ。その光景を見た他の男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
回廊には理沙とレイヴン、そして気絶した男だけが残された。
「レ、レイヴン、今のは……」
「以前、ボクシングを習っておりまして」
「は、はあ……」
一瞬の出来事だったので、理沙もはっきりと視認出来たわけではない。だがレイヴンの反応の速さといい、一撃で大の男を気絶させるパンチ力といい、本当にただの仕立て屋なのだろうかという疑問が生じる。
(あ、ただの仕立て屋ではないか。こんな変な仕事をしているわけだし――)
とまで考えたところで、理沙は「あああ!」と目を見開いた。突然の奇声にレイヴンはぱちぱちと瞬き、珍しく身構えている。
「一体何ですか、突然」
「あ、あの! アデライトさんとお話は出来たんですけど、相手の男がひどいDV野郎で!とりあえず処置だけはしたんですけど、たぶんもうすぐ婚約発表されちゃうかもしれなくてそれで」
「落ち着いてください。もう準備は出来ています」
そう言われて連れてこられたのは、理沙が着替えに使用した一室だった。中にいた人物を見て、理沙は「嘘っ⁉」と口を開く。
「ヴィクトルさん! どうしたんですか、その恰好!」
「リ、リサ⁉ うう、やっぱり似合わないよな……」
そこにいたのは騎士団の制服ではなく、しっかりとした正装姿のヴィクトルだった。後ろの長いテールコートに、ウィングカラーのドレスシャツ。
ボタンには金の縁取りがなされたオニキスがあしらわれており、首元にはシルクのボウタイが見える。
靴も履き古されたものではなく、傷一つない黒革のストレートチップという完璧な出で立ちに、理沙は思わず口元を両手で覆った。
「す、すごく、似合ってます!」
「え? そ、そうかな」
「はい!」
「……婚約者の前で、他の男性を褒める度胸だけは褒めてあげましょう」
隣でぼそりと落ちた呟きに、理沙は慌てて隣に立つレイヴンを見上げた。だがレイヴンは言ったことも忘れたかのように、しれっとヴィクトルに視線を戻している。
(ど、どういう意味? あっ、ちゃんと役に徹しろってこと⁉)
理沙はその真意を問いただしたかったが、レイヴンがヴィクトルに話しかけたことですぐに口を閉じた。
「レ、レイヴン……本当にいいのかい?」
「心配せずとも、君の仕事は私が引き受けます。君は君のすべきことを。良いですか?」
「う、うん……」
緊張した面持ちで、ヴィクトルは部屋を後にする。彼の背中を追いかけながら、理沙はこっそりレイヴンに尋ねた。
「もしかして、ついに決心を⁉」
「口説くのに随分かかりましたが」
にやりと口角を上げたレイヴンを見て、理沙はぱあっと顔をほころばせた。
やがて三人は、多くの人でにぎわう大ホールへ到着した。パーティーはほぼ終盤を迎えており、招待客たちも皆穏やかな雰囲気だ。その雑踏の中、ヴィクトルがすぐさまアデライトを発見する。
「アディ!」
突然の呼びかけに、取り巻きの中心にいたアデライトが顔を上げた。ヴィクトルの姿を目にした途端、分かりやすく驚く。
「ヴィル、どうしてここに? それにその恰好……」
「突然ごめん。でも君に、どうしても伝えておきたいことがあって」
「私に?」
ようやく追いついた理沙とレイヴンも、二人の動向に緊張を走らせる。だが背後から、アデライトを呼ぶ声が飛んで来た。
「アデライト? まったくどこにいるかと思えば」
「お母様……」
「予定が早まりました。行きますよ」
「で、でも、まだ」
「早く支度なさい。皆さまお待ちかねですよ」
アデライトの母と思しき女性は冷たくそう言い捨てると、さっさとホールの奥へと入っていった。アデライトは、母親が消えた先とヴィクトルとをしばし見返していたが、やがて悲しそうに「ごめんなさい」と頭を下げる。
「私、この後用事があって……話はまた後日でもいいかしら」
「そ、それは、……」
まさかのイレギュラーに、理沙は思わず目を見開く。
(だ、だめー! このままアデライトさんが行ってしまったら、婚約が決まってしまうのに!)
だがたまらず割り入ろうとした理沙の腕を、レイヴンが素早く掴んだ。
「だ、だって、今伝えないと、婚約が!」
「分かっています。ですが……そのタイミングすら、運命を決めるピースとなりうる」
「言ってはだめってことですか⁉」
ようやくヴィクトルが思いを伝える気になったのに。アデライトはこのまま婚約すれば、一年後には死んでしまうのに。
それを変えるために私たちはここにいるはずなのに――どうして、最後の最後で間に合わない?
「未来は、本当に些細な展開で変化する。下手をすれば『前回以上』の悲劇を起こしてしまう可能性だってあるんです」
「前回、以上?」
「そうです。例えばアデライトだけではなく、ヴィクトルも死亡する、とかね」
「――⁉」
その言葉に、理沙は抵抗の力を緩めた。
やがてひどく落ちこんだ様子のヴィクトルがこちらに戻って来る。
「残念。タイミングが悪かったみたいだ」
「ヴィクトルさん……」
「決断するのが少し遅かったね。また今度、ちゃんと自分の気持ちを伝えようと思う。レイヴン、せっかくこんな素晴らしい衣装を揃えてくれたのに、悪かったな」
ありがとう、と目じりを下げながら、ヴィクトルは二人に礼を述べた。理沙はいたたまれなくなり目をそらしたが、レイヴンはにこやかに彼の手を握る。
「私は仕立て屋です。これくらいお安い御用ですよ」
「はは、そういえばそうだったな」
やがてホールの照明が落とされ、正面中央に明かりがともった。この大ホールには二階部分があり、ちょうど正面に当たる部分に張り出したバルコニーのような半円型のステージがある。
突然の演出に階下でざわめいていた招待客たちだが、ステージに現れた大臣閣下と、その縁者である公爵家令嬢――アデライトの姿を認めた途端、波が引くように静寂が広がった。
「みなさま、本日はお集まりいただきありがとうございます。ここで我が姪にあたるアデライト・シルヴィアから、皆さまにご報告がございます」
(アデライトさん……!)
大臣に促され、大衆の前に歩み出たアデライトの後ろには、にやにやと愉悦を浮かべる伯爵令息の姿があった。言っちゃだめ、と理沙は力なく首を振る。
だがその祈りは届かず、アデライトは静かに息を吸い込むと、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「わたくし、アデライト・シルヴィアは――」
レイヴン。
本当にこのままでいいの。
理沙はすがるように彼の方を見る。だがレイヴンは黙って壇上のアデライトを見つめたまま動こうとしない。その横顔を睨みつけた理沙は、先ほどの彼の言葉を思い出した。
(過ぎた干渉は、未来をより悪い方向に導くかもしれない――)
でも。それでも――こんな『悲恋』は間違っている。
そう思った瞬間、理沙は天井に向かって大きく手をあげていた。




