Case2-6
ソファを手で示され、理沙はおずおずと腰を下ろした。するとレイヴンがすぐ目の前にしゃがみ込み、理沙の足をそっと手に取る。
びく、と緊張を露わにした理沙に気づいたのか、レイヴンは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「靴を履くときはまずかかとを合わせて。それから指先を滑り入れる」
そう言うとレイヴンは理沙の足首に指をかけると、ハイヒールのかかとに優しくあてがった。そのまま手慣れた仕草でつま先部分を嵌めてくれる。
その姿はガラスの靴の持ち主を探し出した『Cendrillon』のワンシーンのようで、もはや理沙は赤面することすら忘れていた。
ぼうっとする理沙の両足にあっという間に黒いハイヒールが輝き、レイヴンは立ち上がるとそのまま理沙の手を取る。
「ゆっくり立ち上がって……膝は曲げずに、ヒール側にも重心をかけて」
「は、はい!」
「背筋を伸ばして、体の内側に力を入れる。上から紐でつるされているように――」
レイヴンの指示に一つずつ従いながら、理沙はようやく絨毯の上に立った。12センチという高いヒールを履くのは初めてで、理沙はその不安定さにまず驚く。
だがレイヴンが支えてくれているという安心感もあり、しっかりとバランスを取ると、改めて鏡の中の自身を見た。
そこには普段の恰好とは似ても似つかない――シンプルだが豪奢に着飾った『大人の女性』がいた。
隣に立つレイヴンからの視線を感じ、思わず照れて視線をそらす。するとそんな理沙に気づいたのか、レイヴンが優しく目を細めた。
「――こういうのを、日本では何というんでしたか」
「え?」
理沙は期待に満ちた眼差しで、どきどきとレイヴンの言葉を待った。やがて「ああ、」と顎下に手を添えると、レイヴンは嬉しそうに微笑む。
「『馬子にも衣装』でしたね」
「――ッ!」
途端に理沙は頬を膨らませ、レイヴンの手をぱっと離した。その分かりやすい憤慨に苦笑しつつ、レイヴンは静かにこの先の作戦を語る。
「今夜、アデライト嬢の婚約が発表されます」
「! でもこの会場にはヴィクトルさんが……」
「そうです。私はヴィクトル氏を説得し、彼が奮い立つ最後の契機を与えます。その間にあなたはアデライト嬢に取り入り、同じく『説得』を試みてください」
「説得……」
「先ほどのヴィクトルのように。彼女に自身の気持ちを自覚させ、行動に導く。……もちろん、最終的な決断は当事者である彼らにゆだねますが」
心臓の音が早まっていく。だが理沙はしっかりと頷いた。
「分かりました。やってみます!」
「よい返事です。ではこれを」
するとレイヴンは一通のカードを差し出した。金の縁取りがなされたそれには、何やら難解な言語が書かれている。
「これは?」
「パーティーの招待状です。門番にこれを見せれば、問題なく入れるでしょう」
「こ、こんなもの、一体どこで」
「大臣の筆跡を記憶して模写しました。偽造品です」
さらりと言ってのけるレイヴンに、大臣の筆跡なんて一体どこで……と理沙は首を傾げた。だがヴィクトルの部屋にあった便箋を思い出し、はっと目を見開く。
(あ、あの一瞬で……筆跡を覚えていただなんて……)
レイヴンに与えられている権能には、はたしてどれくらいの種類があるのだろうか。理沙はもはや達観した面持ちで、偽造された招待状を眺める。
すると視界の端に、見慣れない鞄が飛び込んできた。
「それからこれも。その格好に『sac à dos』は相応しくありませんから」
「これって……!」
「化粧鞄です。中身はまだ揃いませんが、とりあえずこちらだけ手に入ったので」
差し上げますとレイヴンが差し出したそれを、理沙は恐る恐る受け取った。取っ手と本体は本革で出来ており、色は理沙のリュックとよく似た深い赤色。蓋を開けると裏側に鏡がついており、斜めに固定することが出来る。
しっかりとしたクッション材と段状の棚もあり、鞄の端には『Toi et Moi』と刻印された金の銘板が縫い付けられていた。
「あ、ありがとうございます!」
理沙は慌ただしく頭を下げると、部屋の隅に置いていたリュックからせっせと中身を詰め替えた。やがてすべての準備が整った理沙の姿を、レイヴンは上から下まで一通り確認し――いつものようににっこりと笑う。
「鞄はどこかに隠しておくように。では――『Bonne chance.』」
レイヴンの言う通り、入り口に立っていた門番に招待状を見せると、驚くほどあっけなくパーティー会場に入ることが出来た。
目立たない場所に化粧鞄を隠すと、アデライトの姿を探す。会場にはドレス姿の女性のほか礼装を着込んだ男性も多く、皆扇子やグラス片手に何ごとか楽し気に談笑していた。
(こうやって見ると、漫画に出てくるヨーロッパの世界そのままみたい)
どんなメイクや髪型が、という好奇心が一瞬頭をもたげるが、今はアデライトを見つけるのが先だ。不審がられないよう注意しながら、理沙はパーティー会場を歩き回る。
だがメインの会場にもバルコニーにも、アデライトの姿はなかった。徐々に人気のない方に向かっている気がして、理沙は一度足を止める。
どうやら建物裏の庭にまで来てしまったらしい。
(どうしよう、見つからない……もう一度会場に戻ってみるか……)
だが甲高い女性の悲鳴がし、理沙はびくんと背筋を伸ばした。慌てて振り返り、身を屈めながら声のした方にささっと接近する。
発生源は東屋の一角――その中にいる男女を見て、理沙は目を丸くした。そこにはアデライトと婚約者予定の令息がおり、激しく言い争いをしている。
「――ここまで来て『婚約を辞めたい』だと⁉ 言ってる意味が分かっているのか!」
「でも私やっぱり……」
「はっ! お前も貴族という身分に生まれたのなら、望まぬ結婚が当たり前だと分かっていたはずだろう。お前だって、今の生活を捨てたくはないだろうが」
「……」
「予定通り、パーティーの終わりに婚約を公表する。そうすれば俺たちは正式な『婚約者』だ。まあ俺は、結婚しても自由にやらせてもらうけどな」
最後は吐き捨てるようにして、伯爵令息が立ち去った。理沙はそろそろと顔を上げると、男が完全にいなくなったことを確認してから、アデライトの傍に駆け寄る。
「あ、あの」
「――ッ!」
理沙が声をかけると、アデライトは予想以上に身を震わせた。誰もいないと思われた場所から突然声をかけられたのだから当然か、と理沙は申し訳なく苦笑する。
だがアデライトの顔を見た途端、すぐに表情をこわばらせた。
「だ、大丈夫ですか⁉」
「え?」
「ほ、頬が真っ赤に……」
どうやら先ほどの悲鳴は、令息がアデライトを叩いた時のものだったらしい。あわあわと取り乱す理沙に対し、アデライトは慣れた様子で静かに微笑む。
「いつものことなので。お気遣い、ありがとうございます」
(い、いつもってどういうこと⁉ あいつDV野郎でもあったわけ⁉)
行き場のない憤りを抱えながらも、理沙はなんとか怒りを堪え、アデライトを東屋のベンチに座らせた。
「ちょっ、ちょっと待っていてください!」
そう告げると理沙は、陸上部顔負けの速度で会場へと駆け戻った。本当は伯爵令息を見つけ出して説教してやりたい気分だが、運命が変わるかもしれない大切な局面に、余計な干渉をするわけにはいかないと必死に自制する。
隠しておいた化粧鞄を掴み、傍にいた女中から氷の入ったボトルをもらうと、再び東屋に舞い戻った。
「お、お待たせしました……!」
息も絶え絶えな状態の理沙はアデライトの隣に座り、さっそくハンカチを取り出した。氷入りのボトルをくるむと、アデライトに差し出す。
「とりあえずこれで、頬を冷やしてください」
「……ありがとう」
アデライトは素直にそれを受け取ると、腫れた片頬にそっとあてがった。拒否されなかったことに安堵しつつ、理沙は改めて目の前にいるアデライトを観察する。




