Case2-4
ヴィクトルの部屋は簡素な机やベッドがあるだけの、非常にシンプルなものだった。机上には何度も読み込まれた本が数冊と、何かが記された便箋がある。
ベッドに座るよう促され、理沙はレイヴンと隣り合うようにして腰を下ろした。
「はじめまして、ヴィクトル・リッターです」
「あ、天音理沙です!」
「よろしくリサ。しかし驚いたなレイヴン、君が結婚するとは」
「ええ。我ながらどうしてこんなことになったのか、神に問いたいくらいです」
(……)
理沙が半眼で睨みつけたことに、気づいているのかいないのか。レイヴンはさして気にする様子もなく、旧来の友人と語らうような気楽さでヴィクトルに話しかけた。
「君は? 好きな女性がいると聞いていましたが、進展はあったんですか」
「……」
レイヴンの容赦ない問いかけに、ヴィクトルがわずかに息を吞むのが分かった。やがてはあ、とため息を零すと、微苦笑を浮かべる。
「彼女は……婚約するらしい。他の男性と」
「他の?」
「伯爵家の跡継ぎだそうだ。たしかに彼女にふさわしい相手だと思うよ」
アデライトのことだ、と理沙はすぐに確信した。すると隣にいたレイヴンが「本当にそれでいいのですか?」と問いただす。
「彼女のこと、好きなんでしょう? 思いを伝えることすら諦めてしまうんですか?」
「……もちろん、僕だって悩んださ。でも婚約はほぼ間違いないという噂だし、貴族でもない僕が今更何を言ったところで、意味なんて……」
(貴族でも、ない……)
絞り出すようなヴィクトルの言葉に、理沙はどうして『前回』彼が悲恋を迎えてしまったのかという理由が、少しだけ分かるような気がした。
ヴィクトルは、自身が王太子であることを知らない。だからアデライトとの身分の差を理由に、本当の気持ちを伝えることが出来なかったのだろう。
好きという思いだけでは、付き合うことも結婚も許されない世界。理沙がいた時代では考えられない――と思ったが、ただ自分が知らないだけで、そうした目に見えない『格差』というものは、何らかの形で存在しているのかもしれない、と理沙は考え直す。
レイヴンもまた、しばらく押し黙ったかと思うと静かに口を開いた。
「たしかに、何の家柄も肩書も持たない君が告白しても、彼女は振り向かないかもしれない。でも君の愛する女性は、本当にそれだけで選ぶような方なのですか?」
「……」
「その結果がどんなにつらいものであっても、……行動すること自体に意味があると、私は思っています」
(行動すること自体に、意味がある……)
レイヴンの穏やかな言葉を聞き、理沙は思わず自らの胸に手のひらを押し当てた。ヴィクトルもまた何か思うところがあるようで、わずかに俯いたまま思案している。
やがてレイヴンは立ち上がると、机の上にあった便箋にちらりと視線を落とした。
「色々と言ってすまなかった。君も疲れているだろうからそろそろお暇しよう――っと、この手紙は?」
「うん? ああ、これは今度大臣どのの邸で開催されるパーティーの護衛依頼だよ。護衛というか雑用係かな。大臣殿がわざわざ送ってくださったんだ」
「へえ」
するとレイヴンの虹彩に、一瞬だけ青い輪が浮かび上がった。あまりに短い間だったので、理沙は気のせいだったかと目を何度もしばたたかせる。
そんな理沙に気づいたレイヴンは「早くしろ」とばかりにじっと睨みつけてきた。
「じゃあまたな、ヴィクトル」
「ああ。元気で」
ヴィクトルの見送りを背に受けながら、理沙とレイヴンは何食わぬ顔で、そのまま宿舎を後にした。
先ほど身を隠していた倉庫の辺りまで来たところで、理沙がレイヴンの袖をくいと引っ張る。
「あ、あの、もしかしてヴィクトルさんとは元々友達だったんですか?」
「そんなはずないでしょう。『悲恋』の当事者に介入するのに、一から信頼関係を築く時間はない。だから少々、記憶を捏造させていただきました」
「記憶を……捏造?」
「はい。ヴィクトルは私のことを『古くからの友人』と認識しているはずです」
その答えに理沙はようやく合点がいった。だから突然部屋を訪れても、不審がられることなく話をすることが出来たのだ。
とここで、もう一つだけ確認したいことが増える。
「あの、どうしてあたしを、婚約者なんて……」
「妹の方が良かったですか?」
「そ、そういう意味じゃないです!」
(な、なんだ……別になんでも良かったんじゃない……)
安堵すると同時に、どことなくしょんぼりした気持ちが浮かんできて、理沙はぶんぶんと頭を振った。そんな葛藤を知る由もなく、レイヴンはいつものように淡々と続ける。
「とりあえず、彼に対するプレッシャーはこれでいいでしょう。ヴィクトル自身も相当揺れていたので、あとは決断に至るきっかけさえあればいい」
「それってやっぱり、王子様だって教えてあげるんですか?」
「……それは、まだ秘密です」
ふふ、とからかうように目を細めるレイヴンを見て、理沙はむむと眉を寄せた。やがてレイヴンはいつもの懐中時計を取り出すと、今の時刻を確かめる。
「これで四時。さて次はあなたの出番ですよ」
「……へ?」
再びレイヴンが、かちりと場面を切り替える。
現れたのはアデライトの邸とよく似た洋館と、その中庭を取り囲む回廊の一角だった。だが庭も建物も今までとは段違いに広大で、理沙はたまらず目を剥く。
「こ、ここは⁉」
「大臣邸です」
さしたる動揺も見せず、レイヴンはさっさと回廊を渡っていく。理沙が慌てて追いかけると別邸の一つに行き当たった。
レイヴンはためらいもなく玄関の扉を開け、ずかずかと中の廊下に踏み込んでいく。
「は、入っちゃって大丈夫なんですか?」
「少し場所を借りるだけです」
レイヴンはそのまま、一番近くにあった部屋の扉を開けた。中にはホテルのロビーにあるような立派な布張りの椅子とソファ。そして円形のテーブルが置かれている。
どうやら隣にもう一室繋がっているらしく、入口と似たような扉が壁際にも見て取れる。するとレイヴンは、理沙に向けてさらりと言い放った。
「では、服を脱いでください」
「――⁉」
理沙は思わず耳を疑った。するとレイヴンはネクタイの結び目に指をかけ、左右に揺り動かしている。
その仕草には妙な大人の色気があり、理沙は顔が急激に熱くなるのを感じた。どうして突然。何故。一体何が。
「ど、どうして、こ、こんなところで⁉」
「人目があっては困るでしょう」
「それはそうですけど!」
理沙は真っ赤になりながら、ごにょごにょと言葉尻を濁す。するとレイヴンが何を勘違いしているのかと、さげすむような目で睨みつけてきた。
「――あなたのドレスを作るのに採寸をするだけです。上着を脱ぎなさい」
採寸、という言葉に、理沙ははてと首を傾げる。
だがすぐにレイヴンが手にしているメジャーに気づき、大急ぎでカフェオレ色のカーディガンを脱ぐと、レイヴンの前で姿勢を正した。
はあ、というレイヴンの呆れた吐息と視線を感じながら、彼に指示されるまま体を動かす。




