Case.2 C'est en forgeant qu'on devient forgeron.(鍛冶屋になるのは、鉄を鍛えながら)
ざわつく教室の中で、理沙は一人立ち尽くしていた。
(うう、外国の人だらけ……)
今日は初めての授業。
フランスには入学に際しての式典がなく、初登校した日に割り振られた教室に入って、いきなり授業開始となる。もちろん席が決まっているはずもなく、理沙はこそこそと隠れるように端の席に腰かけた。
そうっと様子を窺う。
理沙の金髪は染めたものだが、あちこちに天然のブロンドが見て取れた。容姿も日本人とは明らかに違う、はっきりとした目鼻立ちの人ばかりで、理沙は緊張を露わにする。
(ど、どうしよう、話しかけた方が良いのかな……)
最初が肝心、と勇気を出して隣の席に視線を向ける。
授業前から疲れているのか、机の上に突っ伏したままの青年に、理沙は少しだけ躊躇いつつも、必死に叩き込んできたフランス語を口にした。
『enchantée……?』
理沙の呼びかけに、机上の頭がぴくりと反応した。のっそりと起き上がるにつれて、さらりとした銀の髪が流れる。とんでもなく綺麗だが地毛なのだろうか。
(うわあ……綺麗な顔……)
眠れる青年は、その艶やかな銀髪にふさわしい秀美な顔立ちをしていた。その目は透き通るような青色で、まるで物語に出てくる王子様のようだ。
だが王子は眉間に『不快』とでも書いているかのようなあからさまな渋面を滲ませると、不愛想に返事をする。
『Vous êtes qui?』
「ヴ、ヴィ?」
『……』
困惑する理沙を見て、王子ははあとため息を零すと、再び机に伏せってしまった。教科書通りにはいかないやり取りに、理沙のなけなしの勇気が裸足で逃げ出す音がする。
(ど、どうしよう……なんて言ったのかな……)
聞き返してみようか。でも既に嫌な顔をされているのに、もう一度起こす度胸はない。
青年に話しかけるのを諦めた理沙は、うう、と肩を落としながら授業の準備を始めた。その直後、前の席にどさりと荷物が投げ出されたのを見て、思わず顔を上げる。
そこには真っ直ぐな赤毛をボブカットにした可愛らしい女の子がおり、理沙と目が合った瞬間、ものすごい早口で話しかけてきた。
『Coucou! enchantée, c’est Chloé! Comment tu t’appelles?』
「え、ええと……」
完全に硬直してしまった理沙を見て、赤毛の少女はきょとんと不思議そうな顔をしていた。だがすぐにぱたぱたと手を振ると、教室の反対側に走っていく。
集まっていた女子たちとすぐに話し始めた光景を目にし、理沙はさらに心を陰らせた。
(ど、どうしよう……早すぎて全然分かんない……)
念のため辺りを見回したが、理沙以外に日本人らしき姿はない。教室の隅で縮こまることしか出来ない理沙は、中学生の自分を思い出した。
あの時のように暗くふさぎ込んでいる自分が嫌で、だからお化粧も、髪も、性格も頑張って変えたはずなのに。
しかし何の進展もないまま、講師が教室に入って来た。
カリキュラムについての説明が行われ、理沙はそれらの板書を必死にノートに写す。その間もずっと、これからの学校生活に大きな不安を抱えるばかりだった。
「――まずは玄関の掃除。それから店内の清掃。ただしお客様がおられる場合は遠慮してください」
「は、はい」
散々な初登校に落ち込む暇もなく、同じ日から『トワ・エ・モア』のバイトも始まった。最初ということで、まずはレイヴンから仕事のやり方を教わる。
「電話応対はまだ難しいでしょうから、取らなくて結構です。あとは私の方から必要なことを都度指示します。空いた時間はカウンターか奥の小部屋で、勉強していただいて構いません」
「そ、それだけでいいんですか?」
「あなたに期待しているのは、あくまでも『調停者』の仕事の手伝いだけです。メイクの仕事も、店ではしてもらわなくて結構。買い物や留守番程度は頼むかもしれませんので、こちらを一通り覚えておくように」
そう言って渡されたのは、周辺の地図にいくつか印をつけたものと、簡単な接客用の会話例だった。
フランス語と英語、その下に日本語で訳と読み方が書かれており、理沙は少しだけほっとする。
――ちなみに、バイトが決定した日の夜、理沙はレイヴンの指示通りメールを送った。
本文は不要と言われていたが、これから上司になる人に何もないのは失礼ではないかと悩んだ結果、『天音理沙です。これからよろしくお願いします』とだけ書いた。
返事はなかった。
言われた通り理沙が玄関を掃いていると、恰幅のいい初老の紳士が近づいて来た。『Bonjour.』と声をかけられ、理沙は一瞬きょとんとした後、はっとレイヴンからもらった資料を思い出す。
「ビ、『Bienvenue.』!」
すると紳士はにっこりと笑みを浮かべた。通じた! と嬉しくなった理沙は「どうぞどうぞ」とにこにこしながら店の扉を開ける。
『――Bienvenue, mon seigneur. Qu’est-ce que tu fais?』
中に案内するとレイヴンがすぐさま立ち上がり、親し気に声をあげた。どうやら紳士はこの店の常連客らしく、慣れた様子で窓際の応接ソファに連れ立っていく。
同じくして玄関の掃除を終えた理沙は、むむ、と眉を寄せた。
(お客様がいる時は、中の掃除はしなくてオッケー……だけど……)
大きな音を立てないよう注意しながら、そっと店内に戻って来た理沙は、商談の邪魔をしないよう、遠回りをしてカウンターに向かう。
するとカウンター奥に、小さな扉を発見した。ドアを開けると手狭だが、台所のような一角がある。
小さめの冷蔵庫のほか、綺麗に磨かれたグラスやコーヒーカップが棚にきちんと並んでいた。
高校のバイト時代、事務所に来客があった時はすぐにお茶を持って行くように指導されていた。
だがここはフランス。おまけに緑茶などあるわけもない。
(やっぱり出すべき? 出すとしたらコーヒー? でも言われていないことを、勝手にやっていいのかどうか……)
うーんうーんと理沙は一人、シンクの前でうなる。
そうしているうちに話がまとまったらしく、紳士はレイヴンと握手した後さっさと帰ってしまった。
あ、と若干の後悔を抱えた理沙が見送っていると、店内に戻って来たレイヴンが不思議そうに首を傾げる。
「どうしました? 店の掃除を始めて構いませんよ」
「は、はい……」
まただ。あと少し勇気を出せば、ちょっとは違ったかもしれないのに……と理沙は今朝の教室での光景を思い出しつつ、水拭き用のクロスを握りしめた。
だが翌日以降も、理沙の生活に大きな変化は見られなかった。
どうやら昨日座ったところで席が決まってしまったらしく、理沙の席は一番後ろの角になった。
隣には相変わらず眠り続ける銀髪の青年。前の席は、いつも始業ぎりぎりに飛び込んで来る赤毛の女の子だ。
このままだと一人ぼっちのままだ、と理沙は昼食のタイミングを見計らい、誰かに話しかけようとする。
だが日本の高校とは違い、外に食べに出たり、学食に出かけたりと教室からいなくなる人がほとんどだ。食堂でのオーダーに自信がなかった理沙は、取り残された教室で、買っておいたパンを一人ぽつんと食べる。
(ど、どうしよう……すっごい寂しい……)
するともう食事を終えたのか、隣の席の青年が戻って来た。彼は理沙の方を見ると、無表情のまま口元だけを動かす。
『C’est bon?』
まさか話しかけられると思っていなかった理沙は、ちぎったパンを手にしたまま、ぱちぱちと目をしばたたかせた。
青年はそんな理沙をしばらく見つめていたが、やがてふいと顔をそらすと、いつものように机に突っ伏してしまう。
(せ、セボン、って言われた気がする……美味しい? ってことかな)
せっかくのチャンスだったのに、タイミングを逃してしまった。寝ている彼を起こしてまで尋ねるのはためらわれて、理沙はしょんぼりと残りのパンを口に運んだ。




