Case1-9
うう、と理沙は言葉に詰まった。
「で、でも……レイヴンさんのお仕事に、ご迷惑をおかけしてしまうのに……」
「……しばらくそちらの仕事を受けなければいいだけのことです。お気になさらず」
取り付く島もないレイヴンに、理沙はいよいよ頭を抱えた。すると突然、先ほどと同じ高さに、再びぽんと手紙が現れる。
驚いたレイヴンがすばやくむしり取り、やや乱暴に開封して中をあらためる。一体何が書かれているのだろう、と理沙がそわそわしていると、ようやく顔を上げたレイヴンが、苦虫をかみつぶしたような顔で口を開いた。
「――あなたを採用せよ、と」
「え?」
「あなたに、この仕事を手伝わせよ――という、上からのお達しが来ました。どうやら上は化粧も必要なファクターだと認めているようです」
この仕事、と理沙は一瞬理解に遅れた。
だがしばらくして、先ほどまで経験したあれそれのことだと思い至る。
「あ、あたし、ここで働いても良いんですか⁉」
「……上からの命令であれば仕方ありません。ただし新しい化粧品が整うまでです。揃い次第、あなたを解雇します。それでもよろしいのですか?」
「よ、よろしいです! よろしいです!」
よく分からないが、レイヴンの上司? からお許しが出たようだ。ありがとうございます! と両手を組んで感謝を捧げたくなった理沙だが、ふと「そういえば上司って一体誰なんだろう?」と首を傾げる。
一方レイヴンはややこしいことになった、とばかりに綺麗な眉間に縦皺を刻んでいた。だがしばらく逡巡したのち、諦めたかのように肩を落とす。
やがてフランス語でびっしり埋まった書類を理沙の前に差し出した。
「雇用契約書です。学業最優先なので、平日の勤務は夕方の四時から閉店まで。土日は場合に応じて。週三日。個人情報は厳守。もちろん、あちらの仕事もです」
「は、はい!」
「休む場合は事前に連絡を。WhatsAppは?」
「ワツァプ?」
理沙が首を傾げると、苛立った様子のレイヴンが『使えない』と言外にため息を零した。どうやら今までの彼は、あくまでも来客向けの仮面を張り付けていたようだ。
「ではメールで。ここに私のアドレスを書いたので、今日中にタイトルに名前を入れて送ること。本文には何も書かなくて結構です」
「は、はい!」
契約書とは別に差し出された紙片には、綺麗な筆致でアルファベットの羅列が書かれていた。仕事で必要なだけだと分かってはいるのだが、とんでもない宝物を渡されたような気がして、理沙はメモを大切に手に収める。
やがてレイヴンが、静かに理沙を見つめた。
「まったく……。とりあえず、短い間ですがよろしくお願いしますね」
「は、はい! こちらこそ! ……それで、あの」
「? まだ何か」
「結局、レイヴンさんのあのお仕事って、何なんですか?」
するとレイヴンはわずかに顔を顰めた。
どこか悲しそうに、理沙の問いへ答えを返す。
「表向きは仕立て屋『Toi et Moi』、そして裏の仕事は――あらゆる世界の『悲恋』を『幸せな恋』に変えるarbitre――『調停者』です」
「調停、者……」
そう言うとレイヴンは、薄い唇を綺麗な笑みの形に変える。
言葉にならない美しさと迫力を前に、理沙はほんの少しだけ――この選択は正しかったのだろうか、と息を吞んだ。




