9. みいちゃんと救急車。
補習で少し遅くなって学校から帰ると、みいちゃんは既にいなかった。夜の仕事に出かけたんだろう。
テーブルの上に病院の薬袋が置いてあったから、約束は守ってくれたことがわかった。
中身を見ると、ちゃんと薬を取り出して飲んだ跡がある。薬局の説明書きを読んでみると、確かに風邪薬だ。
夜の仕事に行ったということは、あまりひどい症状ではなかったということかな。
私は勝手に納得して、安堵のため息をついた。
◇
その日、夜遅くまで勉強していると、玄関の方ですごく大きな音がした。何かが倒れるような音。
反射的に立ち上がる。時計を見ると、午前一時。みいちゃんが帰ってきても、おかしくはない時間だ。
「み……みいちゃん……?」
襖を開けて、そっと部屋の外を覗く。明かりはついていない。
まさか、泥棒……とか。
私は自分の部屋をキョロキョロと見回す。武器になりそうなものは見当たらない。
ああ、バットくらい置いておけばよかった。女の二人暮しなんだし。
台所。もし泥棒だったら台所に駆け込もう。確かまだ食器受けに包丁があったはず。
そんな決意を胸に秘め、私は忍び足で、部屋を出る。
何かが動くような気配はない。しばらく動きを止めて耳をそばだてるが、何の気配も感じられない。
もしかしたら猫か何かが、玄関にぶつかってきたりしただけなのかもしれない、と少し警戒を解いたところで、玄関を覗いた。
明かり取りの窓から差し込む月明かりで、玄関が薄く照らされている。
そこに何かがある。
何か、大きなもの。靴とか傘とか、そんなものではない、何か。
「みいちゃん?」
私は胸を撫で下ろす。
玄関に入ったところで、うつ伏せになって倒れこんでいるのが見えた。
「もー、驚かせないでよ。そんなところで寝て」
私は安心して足音を立てて、みいちゃんに歩み寄る。
「だから風邪ひいちゃうんだよ。風邪気味なんだから、ちゃんと布団で」
言いながら、手探りで電気を点けた。そして、次の言葉を飲み込む。
今までも畳の上で寝転がってしまうことはよくあった。そういうときは、だいたいは電気が点くと、みいちゃんは身じろぎしながら「大丈夫だよ」なんて言って、寝たままではいる。
でも、今日は。
みいちゃんは、ぴくりともしない。倒れこんだまま、動かない。
「……みいちゃん?」
あまりに深く眠ってしまっているのだろうか。それとも私を驚かそうとしているのだろうか。
おそるおそる、顔を覗き込む。茶色の髪が、頬にかかっている。
真っ白、だ。まるで血が通っていないみたいに、真っ白。口紅の剥げた唇は、紫色で。
あのときの、お父さんみたい。
「……みいちゃん、起きて。みいちゃん」
私はみいちゃんの肩に手を置いて、身体を揺らす。けれどもまったく反応しない。
「いやだ、冗談やめてよ、みいちゃん……」
だけど誰がこの状態を見て、冗談だと思うだろう。冗談なんかじゃない。
それに、みいちゃんは冗談でこんなことをする人じゃない。
「やだ、やだよ、みいちゃん! 起きて! ねえ、起きて!」
私はみいちゃんを強く揺さぶった。髪がその動きに合わせて揺れる。でもみいちゃんは起きてくれない。
みいちゃんの紫色の唇の前に、震える手をかざした。息が手のひらにかかる感触がして、私は息を吐く。
生きてる。ちゃんと、生きてる。
でも、どうしたらいいんだろう。私は何をしたらいいんだろう。早く、どうにかしなくちゃ。
今だけは、ボーッとしてちゃいけない。いけないのに。
身体が震える。怖い。次に何をしたらいいのかわからない。
「みいちゃん、みいちゃん、みいちゃん」
私は名前を呼び続ける。でもみいちゃんには聞こえていないのかもしれない。
落ち着かなくちゃ。今、この家には私しかいないんだ。
深呼吸する。でも、心臓がバクバクと大きく波打っているのが止まらない。
涙が溢れてきた。こんなとき、みいちゃんならどうするんだろう。他の人はどうしているんだろう。
私は何もできない子どもなんだと、今までずっと守られてきた子どもなんだと、思い知らされる。
誰か、教えて。私が次に何をしたらいいのか。誰か、誰か、誰か。
助けて。
『何かあったら遠慮なく言ってちょうだいね』
ふいに脳裏に浮かぶ、声。
私は立ち上がって、バタバタと電話に走る。
途中、何度もコケそうになりながらようやくたどり着き、電話の脇に置いてあるアドレス帳を開いた。
でも上手く開かない。ようやく目的の電話番号を知ると、震える手でプッシュボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。一回、二回、三回……。早く、早く出て、お願い。
『……はい』
不機嫌そうな、眠そうな、声。
「伯母さん!」
私は叫ぶ。でも震える涙声で、うまく発声できていなかった。
『……沙希? なんだい、こんな夜……』
「みいちゃんが倒れちゃった!」
私はそれだけ言うと、わあわあと声をあげて泣いた。
どうしよう、どうしたらいいの、みいちゃんを助けなきゃいけないのに、なんで私は泣いているの。
『落ち着きな!』
受話器から一喝されて、私は息を飲んだ。
『倒れたって、今? 意識はあるのかい?』
「な……ない……」
『ええっ。じゃあ救急車呼んだっ?』
「あ、きゅ……救急……。ま、まだ……」
しゃくりあげながら、私は言った。
そうだ、救急車。なぜ今の今までまったく思いつかなかったんだろう。
『バカ! じゃあ早く呼びな! 電話切ったらすぐだよ! 救急だって最初に言いな。ちゃんと向こうの人の指示を聞いて、落ち着いて訊かれたことに答えるんだよ』
「う、うん」
『番号は119だよ、わかってるね?』
「うん、119」
そんな誰でも知っていることわかっているに決まっている、と言える余裕は私にはなかった。119、119と頭の中で繰り返す。
『落ち着いたらまた電話してきなさい。とにかく救急車だよ』
「わ、わかった!」
私は電話を切って、さっき唱えた番号を押す。
役割を与えられて、私は少しずつ落ち着いてきていた。手の震えも止まった。
涙声だったけれど、何とか救急車は呼べた。
そのあと慌てて保険証や財布がみいちゃんのバッグの中にあるのを確認して、それを握り締める。
ドラマのようにすぐにサイレンを鳴らしながらやってくるかと思ったら、案外時間がかかって、その間私はみいちゃんのそばにしゃがみこんで、ずっと名前を呼び続けた。
そうしたらきっと、こっちに戻ってきてくれる、と思ったから。