8. みいちゃんと風邪。
「家事は当番制にしよう」
と提案したのは、次の日だった。
全部やります、と言えたら良かったのだけど、残念なことに私は家事が得意ではない。
お母さんは私にそういうことを教えてはくれなかった。お母さん自身、得意ではなかったし、働いていて教える時間がなかったということもあるだろう。
だから少しずつ覚えていこうと思った。
「ええー、いいよお、沙希ちゃんはお勉強しなくちゃ」
みいちゃんはそう言って拒否したけれど、だからと言って引き下がれない。
「いいの。合格圏内にいればいいんだもん。模試の結果、見たよね? このへんの大学ならどこだって行けるくらいだもん」
「そうなんだ、すごいね、沙希ちゃん!」
本当は多少の誇張が入っているのだけど、みいちゃんを説得するにはそれくらい言わなくてはいけない、と思った。
言ったからには、絶対に合格しなければならないけれど。
「でもね、私、料理とかあまりできないんだ。だからね……教えて?」
最初は教えるということに手間が掛かってしまうかもしれない。けれどもそのうち役に立てるはずだ。
いや、役に立たなくちゃ。
「みいちゃんが教えるの?」
みいちゃんは少し首を傾げて、きょとんとしている。
「……嫌?」
「嫌じゃないよー。ていうか、みいちゃんが沙希ちゃんに教えること、あるんだねぇ」
「……そりゃあ、あるでしょ」
「へへー、なんか偉くなったみたーい」
そう言って、笑う。
どうもみいちゃんは、私を過大評価しているようだ。
◇
それから、二人で並んで台所に立つことが多くなった。
美味しいから揚げの作り方とか、たまねぎのみじん切りの仕方とか、みいちゃんはわかりやすく教えてくれた。
ある日シンクの前で、みいちゃんはぽつりと言った。
「でもねぇ、みいちゃんは中学しか出てないから」
「そうなの?」
「うん、それこそ、早く働きたくて。でも高校くらいは行っておくべきだったかなあ、と思うんだ。昼のお仕事も中卒じゃなかったら、もっと給料のいいところがあったかもしんないし」
「そうなんだ……」
初めて知った。
いや。私がみいちゃんについて、何か知っていることがあっただろうか。
「だから沙希ちゃん、お勉強の邪魔になるようなら言ってね? 少し手伝ってくれたらそれで助かるんだから。受験に差し支えない程度にね?」
「あ、……うん」
大学。今までは、特にやりたいこともなく、ただ進学するのが普通なのだと思っていた。
でも今は、そんな簡単な思いで行ってはいけない気がする。
「あっ、でも、夜のお仕事は好き。お客さまもみんな良い人だよ。でもいつまでも今の店のフロアに出てはいられないだろうから、お店持ちたいんだー」
「自分のお店? すごい」
「そんなすごいお店を作る気はないんだけどねー」
そう言って、みいちゃんは時計を見る。
「大変! もう行かなきゃ。油、気をつけてね!」
バタバタとエプロンを外し、メイクをして、派手なスーツに着替え、みいちゃんはホステスの顔になる。
玄関まで見送って、ハイヒールで走るみいちゃんの背中を見つめる。
私はちゃんと、みいちゃんの助けになれているんだろうか、とため息をついた。
◇
次の日のお弁当は、おかずだけ夜作ることにしている。朝寝坊したら外で買わないといけなくなるからだ。コンビニなんかで買うと高くついてしまう。朝起きたらごはんだけ詰めればいい。
二人分のお弁当を作って、冷蔵庫に入れる。
玉子焼きは、ずいぶん上手く巻けるようになった。私にしてはすばらしく早い進歩だ。中学のときの調理実習では、ひどい有様だったのに。
今はまだ学校もあるし受験も心配だけど、大学を出て働き出したら、お金だって入れられるようになる。
そうしたら、みいちゃんも楽になるだろう。
助け合って二人で暮らすんだ。
少しずつ、みいちゃんの言う「家族」に近づいている、と思うと、胸が温かくなった。
◇
私が朝、お弁当にご飯を詰めていると、みいちゃんがごそごそと起き出して来た。
「おはよー」
「おはよう、起こしちゃった?」
「ううん、もうそろそろ起きようかと思ってたから、大丈夫」
そのとき、みいちゃんが嫌な咳をした。喉が詰まったとか、そんな感じではなかった。みいちゃんは喉に手を当てている。
「風邪ひいたんじゃない?」
「そうかなあ」
「病院、行かないと」
「病院、きらーい」
心底嫌そうに、みいちゃんは顔をしかめる。幼稚園児でもそんなに嫌がらないんじゃないかというくらい。
とはいえ、また咳が止まらなくなっているから、心配しないわけにはいかない。
「子供じゃないんだから。今日は私が食事当番だし。お昼の仕事、ちょっと早めに出て病院に行ってね? なんなら終わってからでもいいから」
「えー」
「えー、じゃない」
「はあい」
やっぱり、みいちゃんをお母さんだと思うのは、相当に無理がある気がする。
「お熱はまだ出てないと思うんだけどな。だから大丈夫だよー」
「測った?」
「……ううん」
「じゃ、測って。顔、赤いよ」
「これは照れてるんだよー」
どんな言い訳なんだか。
私はお弁当を包み終えると、救急箱のところに行き、体温計を取り出した。
「はい」
「うー」
渋々ながら、みいちゃんは体温計を脇に挟む。ピピピ、という音がするまで、私はみいちゃんを監視した。
脇から取り出した体温計を見つめて、みいちゃんはうなずいた。
「熱、ないよ」
「見せて」
みいちゃんが私に数字を見せずにケースに戻そうとしたから、ムリヤリ奪う。三十七度四分だった。
「あるじゃん」
「そんなの、平熱だよー」
「ひどくなる前に病院に行くの! ねっ」
「わかった……」
唇を尖らせて、でも珍しく強気の私に逆らおうとは思わなかったのか、みいちゃんは首を縦に動かした。
私はお弁当を鞄に入れ、まだパジャマ姿のみいちゃんに振り向きながら、
「絶対行くんだよ、絶対だよ! ひどくなってきたら、お仕事お休みさせてもらってよ、絶対だよ!」
と言いながら、玄関を出た。
みいちゃんはうなずきながら、私に手を振った。