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7. みいちゃんと相合傘。

 みいちゃんはその後、すぐさまお昼も働き出した。

 お父さんの会社の人の紹介のようだった。


 昼間は工場に行って、夜は元働いていたお店でホステス。

 それは疲れるだろう。考えるだけで、げっそりしそうだ。


 そしてみいちゃんはその頃から、家に帰ると化粧も落とさずスーツのままで、畳の上に寝転がってそのまま寝てしまうことが多くなった。


「みいちゃん、起きて。風邪ひくよ」


 みいちゃんが帰ってくる時間まで起きて勉強しているときなら、そうして起こすこともできたけど、そうでないときは、私が朝方起きてから初めてみいちゃんが寝転がっているのに気付くこともしばしばだった。


 布団を敷いて、みいちゃんを抱えて運ぶと、驚くほど軽い。

 身長はさほど変わらないのに、お姫様だっこだってできそうだ。

 そして、お酒の匂いがする。まさか酔っ払いの介抱を自分がすることになるとは、何ヶ月か前までは思ってもみなかったことだった。


「大丈夫だよ」


 と、抱えられたみいちゃんは、いつもそう言った。


「大丈夫じゃないって。風邪ひくって」


 私はそう言い聞かせながら、みいちゃんを布団に寝かせた。


 やっぱり、無理させている。どう考えても、無理させている。

 そうまでして大学に行くことに、何か意味があるのだろうか。

 赤の他人のみいちゃんが、私のためにどうしてそこまで尽力するのか。


 ……そう。本当の親なら、わかる。

 私の本当の親のほうが、もっとすべきことがあるんじゃないだろうか。


          ◇


 七階建ての大きくてキレイなビルを見上げる。確か、三年くらい前にできたばかりのビルのはずだ。

 お母さんが「自社ビルなのよ」と自慢げに言っていたことを思い出す。


 みいちゃんにメールを送る。お母さんに会うというのは言わない方がいいだろう。

 ただ、「少し遅くなります」とだけ打った。


 スーツ姿の何人かが、ビルの中から出てくる。私に一瞥して、何ごともなかったかのように、立ち去っていく。

 やはり、この場に制服は浮いているだろうか。いやきっと、私服であってもこの場にはそぐわないのだろう。


 私は勇気を振り絞って、ビルの中に入っていった。

 きれいなお姉さんが二人並んで座っている、受付と書かれた場所に行く。


「あの……」

「いらっしゃいませ」


 お姉さんたちは立ち上がり、手を前で組んで、こちらに向かって深く頭を下げた。

 相手が高校生だろうと、きちんと丁寧にお辞儀してくれるんだな、と感心した。

 お母さんの旧姓でのフルネームを伝えて、娘です、と言うと、すぐにわかったようで、電話してくれた。


「すぐに降りて来られますから、そちらにお掛けになってお待ちくださいね」


 お姉さんは、にっこりと笑って端にあるソファを手のひらで指した。

 軽く会釈して、ソファに座る。なんとなく居心地が悪くて、浅く腰掛けた。


 お姉さんの言う通り、お母さんはエレベーターですぐに降りてきた。

 懐かしい、と思った。もうずいぶん顔を見ていない。心なしか、少し化粧が濃くなった気がする。


「どうしたの、急に」

「ごめんね、あの……」

「そこの喫茶店に入りましょ」


 ビルの入り口の横にある喫茶店に向かってさっさと歩き出したので、私もそのあとをついていく。

 窓際の席にお母さんが腰掛けたので、私は斜め前に座った。

 すぐにウェイトレスが水とメニューを持ってくる。お母さんはメニューを広げて私の前に出した。


「ここ、ケーキも美味しいわよ」

「あ、うん……」


 でも、そんなにお腹も空いていなかったので、オレンジジュースだけ頼んだ。


「で、どうしたのよ。電話くれれば良かったのに」

「あの……会って話したかったから……」

「そう。何?」

「あの……」


 何から言えばいいんだろう。

 いろいろ考えていたのに、お母さんの顔を見ると、吹っ飛んでしまっていた。


「あんた、本当にお父さんに似てるわよね」


 ふいにそう声を掛けられて、顔を上げる。

 お母さんの顔を見る。少し眉根を寄せていた。

 どう見ても、懐かしいと思っているような顔ではなかった。

 むしろ、忌々しいとでも思っているような。


 急速に、身体が冷えていく。私はまた俯いてしまう。

 お母さんの小さなため息が聞こえた。


「あっ、お疲れ様ですー」


 急にお母さんの声のトーンが上がった。

 明らかに私に向けた声ではなかったから、私は縮こまって俯いたままそれを聞いた。


「お疲れー。あれ、娘さん?」

「ええ、まあ」


 二人組の男の人は、ふうん、と興味なさそうに言うと、近くの席に座る。

 お母さんは少し声を落として言った。


「悪いけど、まだ仕事があるとこ抜けてきたから、早く言ってくれると助かるんだけど」

「あっ、あの……お父さんが……」

「死んだこと? 知ってるわよ。後妻さんが電話してきたから」


 そう言ってから、鼻で笑う。


「交通事故ですってね。女と一緒だったって。地方版に小さく載ってたわ。後妻さんもお気の毒」


 そう言って小さく喉を鳴らす。

 お気の毒、と言いながら、その言葉にこれっぽっちも気遣いが感じ取れないのは、気のせいではないだろう。


「あんたは伯母さんのとこにいるの?」

「えっ」


 ふいに言われて、頭を上げる。

 お母さんは私の表情を見て、少なからず驚いたようだった。


「違うの?」

「えと……まだ、いっしょに……」

「ええ、後妻さんと住んでるの? ああ、保険があるか。交通事故だしね」


 保険。ここでそんな言葉が出てくるとは思わなくて、二の句が継げなくなった。

 私は俯く。膝の上でこぶしをぎゅっと握った。


 言葉が出てこない。でも、これだけは言わなくちゃ。このために来たのだから。

 私は言葉を振り絞る。でも、お母さんの顔を見ることはできなかった。


「私……大学に……」

「ああ、進学するの。頑張ってね。あんたは成績がいいから、大抵のところは大丈夫よ」


 他人だ、と思った。本当に他人なんだ。血が繋がっているはずなのに。

 お腹を痛めて産んだ子は無条件にかわいい、子どもを愛さない親なんていない、なんて都市伝説みたいなものなんだ。

 私もそれを信じていたかったのに。


 ふいに、涙があふれてきそうになった。

 でもダメだ。この人に涙なんて見せちゃいけない。


 なんとかこらえて、頭を上げる。

 みいちゃんのことを侮辱したような誤解をしていることだけは、訂正しなくちゃ。

 私は背筋を伸ばして、少しだけ声を張って言った。


「みいちゃん……後妻さんのことだけど、大学に進学させてくれるって言ってるの。そのために昼も夜も働いてくれてる。血が繋がってないのにね。私のために、美味しいご飯もつくってくれてる。お弁当も毎日」


 そう言って、笑った。でも上手く笑えているだろうか。自信がない。

 お母さんは虚をつかれたように、身を少し引いた。

 それから少し辺りを見回して、小さく会釈する。さっき入ってきた二人組の男の人たちが、こちらをじっと眺めていたのだ。

 お母さんは落ち着かない様子で、そして腕時計に視線を落とした。


「ああ、ごめんね。そろそろ戻らなくちゃ」


 そこでウェイトレスがコーヒーとジュースを持ってくる。

 お母さんは一口だけコーヒーを口に含んで言った。


「あんたはジュースがまだだから、いてもいいわよ。支払っておくから」


 そう言って立ち上がると、脇に置いてあったバッグを手に取る。中から財布を出して、ゴソゴソしたかと思うと、一万円を取り出して、テーブルの上に置いた。


「お小遣い。何でも好きなものを買うといいわ」


 見上げると、お母さんはにっこりと微笑んだ。

 私は、いらない、とも言えなかったし、ありがとう、とも言えなかった。

 でも私の言葉は待たず、お母さんはすぐに喫茶店を出て行った。


 そこで気が付いた。

 みいちゃんはいつも、私が喋り終わるまで待ってくれている、ということに。


          ◇


 電車に乗って家の近くの駅まで着くと、雨が降っていた。

 傘を持ってきていない。

 私は深くため息をつく。なんて嫌な日なんだろう。


 仕方ない。売店で傘を買うか、それとも濡れるのにも構わず、走って帰るか。

 お金ならある。一万円も。でも使いたくなかった。このお金で傘を買ったら、一万円が役に立ったことになる。


 走ろう、と思ったときだ。


「沙希ちゃん!」


 みいちゃんが、売店の影から飛び出してきた。

 なんで。なんでいるの。

 私はそれが信じられなくて、みいちゃんの姿をまじまじと見つめてしまう。もしかしたら、私の幻覚か何かかと思った。

 みいちゃんはほっとしたように息を吐いて、胸を撫で下ろした。


「あー良かった。入れ違いにならなかったね。急に降り出したから、濡れちゃうんじゃないかと思ったんだあ。折り畳み傘、玄関にあったし。メールしたけど、気付かなかった?」


 私は慌てて携帯電話を取り出す。本当だ。気付かなかった。


「迎えに……来てくれたの? 仕事は?」

「うん、もう少ししたら行くよ。はい」


 そう言って、傘を差し出してくる。私はその傘を受け取った。

 そのとき、急に涙が溢れてきた。一度流れ出した涙は止まらない。ぼろぼろと頬を伝い、落ちていく。


「やだ、どうしたの、沙希ちゃん。なにかあったの?」


 おろおろとみいちゃんが顔を覗き込んでくる。


「なに……も……ない」


 そう言ったところで、何もないはずはないって思うだろうとわかっていたけれど、それ以外に何て言えばいいのかわからない。


「相合傘しようよ」


 言うが早いか、みいちゃんは私に手渡した傘を奪い取り、開いた。自分の傘は柄を腕にかけたまま。


「えっ……なん……で」


 私がしゃくりあげながら訊くと、「なんとなく」とだけ言って、私の腕に自分の腕をからませて歩き出した。


「ねー沙希ちゃん、プリン買おうよ、プリン、プリン」

「なんで……プリン」

「なんか、食べたくなっちゃったんだもん。プリン、プリーン」


 そう言って何度も何度もプリンと言うので、可笑しくなってきた。笑いが漏れる。

 涙も引っ込んでしまった。


「えっ、ここ笑うとこ? みいちゃん、なんかヘンなこと言った?」

「だって……よく考えるとプリンって間抜けな言葉だよね。なんでプリンって言うんだろう。元々はプディングだよね?」

「こう、プリンってしてるからかな」


 その口調が、本当にプリンっとしている様を言い表したようで、余計に可笑しくなった。笑いが止まらなくなる。


「沙希ちゃん、ヘンなのー。そんなに笑うことじゃないよー」

「だって可笑しいんだもん」


 私の腕にからんだ腕が、温かい。

 だからちょっとしたことでも笑いが出てくるんだ。


「そうだね。プリン、買おう。奢るから」

「えっ、沙希ちゃんが?」

「うん……プリンくらい、買えるから」


 今日のところは、一万円の中から二つのプリンを買って帰ろう。

 さすがに一万円分ものプリンを買うと、おかしいだろう。みいちゃんも不審に思うに決まってる。だからと言って、お母さんに会いに行って貰っただなんて言えない。


 だから、小出しにして使おう。プリンやケーキを少しずつ買って、それでみいちゃんと私で「また食べると太っちゃう」「悪魔の食べ物だよ」なんて言いながら、パクパクと食べちゃおう。

 なんてステキな無駄遣いだ。


 それできっと一万円がなくなる頃には、この胸の痛みも、少しは薄らいでいるはずだ。

 何かには気付いているだろうに、何も訊いてこないことが、本当に有難かった。

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