3. みいちゃんとお父さん。
部屋は別々だったからよくわからないけれども、その晩、私たちは二人ともとうに眠っていたのだと思う。
そのとき私は、たぶん、とても怖い夢を見ていた。どんな夢だったのかは、今となっては思い出せない。
ふいに、電話の音が寝ぼけた私の耳に響いてきた。
夢の中かと思ったけれど、だんだんと感覚が戻ってきて、それは本当に家の電話が鳴っているのだと、少ししてわかった。
昼間ならそんなに気にならない電子音が、静まり返った家の中では私たちの眠りを妨げるには十二分の音で、耳を汚す。
夜中の電話は不吉。誰がそう言ったのか。
いたずら電話か何かだろう。すぐに呼び出し音は止まるに決まっている。
けれども私の予想に反して、電話の音は鳴り続けた。
起き上がるのが億劫で、みいちゃんが起き出す気配を感じてから、再び目を閉じた。
電話の音が止まった。みいちゃんが何か言っている。でも何を言っているのかは聞き取れない。
そして、しばらくの静寂。
ああ、大したことではなかったのだ、やはりいたずらなのだろう、とまた眠りに落ちようとしたとき。
私の部屋の襖が開いた。
「沙希ちゃん」
みいちゃんの、押し殺したような声。
「……なによう」
私は布団を深く被った。
どうせいたずら電話で嫌なことを言われて、その愚痴でもこぼしに来たのだ。
そんなものにつきあってはいられない。私は明日も学校がある。
「いますぐ着替えて」
言いながら、みいちゃんは私が被っていた布団を剥ぎ取った。
「なにすんの!」
思わずそう言って、みいちゃんの顔を睨みつける。いくらなんでも、こんな夜中に愚痴に付き合うほど人間はできていない。
あれ。ボーッとしている私だけど、少し寝ぼけているくらいの方がサッと怒れるんだなあ、と間抜けなことを思い始めて、そしてみいちゃんの顔を再び見上げた。
もしかして傷ついたような顔をしているんじゃないかと思ったから。
でも、みいちゃんは。カーテンの隙間から差し込む月の明かりの中で。
ただただ、静かに私を見下ろしていた。
整った顔立ちから表情が消え失せていて、人形みたいだと思った。
けれども人形ではない証拠を見せ付けるかのように、ゆっくりと口が動く。
「亮さん、事故で病院に運ばれたって」
「……え?」
これは、悪い夢の続きなのだろうか、と思った。
◇
タクシーでお父さんが運び込まれたという病院に着く。
みいちゃんは落ち着いた様子で、夜間受付で「さきほど連絡いただいた者ですが」と切り出していた。それから看護師さんに案内されて病室に向かう。
扉を開けるとすぐそばのベッドに、お父さんが眠っていた。
いや、眠っているの? 違う、こんな真っ白な顔をして、目を閉じてまっすぐ上を向いて。ぴくりとも動かない。
死んでいるんだ。
そこで初めてそう思った。けれども実感というものは、まったく沸いてこなかった。
いつも家にいない人だったからかもしれない。よく、わからない。
まるでドラマの一場面のようだった。警察の人もいて、私たちに頭を下げ、みいちゃんに何か言っていた。お医者さんも、どのような措置をしたのかをみいちゃんにしゃべっていた。
そして本人確認したいと言った。
「ご家族の方に」という言葉が聞こえる。家族? 誰のこと? 誰から誰までのこと?
みいちゃんが私のそばにやってきて、そして右手を差し出してきて、私の左手を握った。
「一緒に、見てあげよう?」
優しい声だった。私はゆっくりと顔を上げる。
みいちゃんは口の端を少しだけ上げた。いつものような、完璧な笑顔ではなかった。歪んだ、笑顔とも泣き顔とも言えない顔だった。
私たちは手をつないだまま、お父さんの顔を見た。
本当に、眠っているかのような顔だ。
「間違いありません」
みいちゃんは小さな声でそう言った。
交通事故だって。相手はいないのが不幸中の幸いで。中央分離帯に突っ込んで、それで車は大破したんだって。なのに、こんなに綺麗な顔なんだね。
みいちゃんが、私の横でぼそぼそと言っていた。その言葉は耳には入ってくるけれども、意味を成して私の頭には入ってこない。
お父さん、なにやってんの。早く起きなきゃ。みいちゃん、泣きそうだよ。
言葉にしたいのに、口にできない。
「車、女の人のだったんだって。運転手もその人。重症なんだって。この病院にいるみたい。亮さん、助手席に乗ってたんだって」
私はみいちゃんの横顔を見る。
みいちゃんは、口の端を少し上げて、笑った。
「もう……しょうがない人だなあ」
そう言って手を伸ばす。そしてお父さんの頬に指先で触れた。
「だから言ったのになあ。もうみいちゃんで最後にするんだよって」
私は、みいちゃんの横顔を見つめ続けた。みいちゃんはその報告を、どんな思いで聞いたのだろう。
「こういうのは死ななきゃ治らないって言うから……治ったのかなあ」
そう言うと、はらりと一筋、涙をこぼした。
◇
それからどうやって家に帰ったのかは、よく覚えていない。
たぶん病院に治療費を払ったりとかタクシーをまた呼んだりとか、いろいろあったとは思うのだけど、私は何もできなくて、ただ呆然としていただけだった。
気が付いたら家で、みいちゃんが伯母さんに電話したりしていたのを覚えている。
その後のお通夜やお葬式の準備も、みいちゃんが一人で頑張っていたような記憶がある。
やっぱり、ほんの少し一緒に暮らしただけだから冷静に行動できるのかもしれない、なんてことを思った。
ああ。
私は自分の肩を自分の手で抱いて、部屋の隅で丸まる。
私は本当に一人になってしまったのだ、と急に怖くなった。
どうして死んじゃったの、お父さん。本当にここまでバカ親父とは思わなかった。女の人と一緒だったなんて、笑うに笑えないよ。それで私を一人にして、私はいったいどうしたらいいの。
部屋の外でみいちゃんは電話を掛け続けている。
私は、自分の声が漏れないように、声を押し殺して泣いた。