色味
あの藍色のネクタイだけが、色を持っていた。
だけど、それも今はごみ収集車に積み込まれて、もうない。
部屋に戻る時に響いた階段の音が、少し未練がましく耳に残っていた。
扉を開ける。なんとなく、他人の家に上がるように丁寧にサンダルを揃えた。
少しだけ広くなった部屋の真ん中で、あぐらをかく。
そして、深く、深くため息をつく。
ため息をつくと幸せが逃げると聞くが、自分は今日どれぐらい幸せを逃したのだろう。
「そんなこと、今更どうでもいいや」
そう言ってまた、幸せを逃す。
「……もう、何にも見えないな」
霞んでいく。視界に映るもの全て、色が抜け落ちている。
そう。もう、自分の世界はモノクロだ。
鮮やかさなど微塵もない。けれど、透き通ってもいない。どんよりとした、灰色だ。
最初は、会社の中。次に、雑踏が響く町。
しまいには、鏡に映る自分さえもなんの色味もなかった。
色盲かと思い、眼科に行ってはみたものの、特に異常はないと言われた。
異常は大有りなのだが、なんだか何もかもめんどくさくなって、それ以来検診にも行っていない。
「もっと複雑な病気だったら面倒だし、何よりそんな金無いし」
親に借りるなんてこと出来ない。また、嘆息を吐かれて、「情けない。親不孝者が」と勝手に涙を零されるだけだ。
もちろん、親もモノクロだ。
「新しい仕事もすぐに見つかるはずないし、俺一生このままなのかな」
未来ある若者を少し通り過ぎたほどの年齢だが、絶望しかない。
道を踏み外したつもりも、勇ましく進んだつもりもない。
ずっと、自分はそこから動いていなかった。
振り返ってみれば、懸命に生きているフリさえせず、怠惰を貪りながら、日常を送っていた。
すれ違うように、置いていかれるように生きていた。
その結果がこれだと言うのなら、不透明な自分を受け入れる他ない。
溜め込んだツケが、回ってきただけだ。
「分かっては、いるんだけどな」
悲しくて、涙が出てきた。
勝手過ぎる。自業自得だ。自分に対する不甲斐なさが悲しみに拍車をかける。
滲んでいく。黒く縁取られた輪郭さえぼやけていく。そのまま、跡形も無く消え去ってくれればいいのに。
この、灰色に塗りつぶされた、体と、心から離れたい。
そう叫ぼうとして、口を開けた時、色が見えた。
息が止まる。あれは確か、水色だっただろうか。
狭い部屋の中であるにもかかわらず、立ち上がって走り始めた。
すぐに水色に辿り着いて、息を呑んだ。
それは、埃を被ったギターだった。手入れなど全くされず、弦は錆び付いている。
けれど、モノクロの世界で何よりも輝いていた。
「そうか。そうだったのか。俺は」
零した涙は、透明だった。
お話としてはこれでおしまいです。
一応、直近で投稿しているシリーズの前身となります。
そちらが完結致しましたら、この作品は削除します。
お目汚し、大変失礼いたしました。