9 「今日からここお前の部屋にするから」
今日も今日とて拓斗は学校へ行く。
登校中に突然の雨に襲われ、そしてようやくたどり着いた学校では雨の所為で濡れていた廊下で転び、授業を受けては一番難しい問題を当てられ、給食では自分の分のデザートだけ配り忘れられ、午後の体育で隣のコートから飛んで来たバレーボールが直撃して保健室に運ばれる。
そんな常人ならなんて厄日だと思うような日常を当たり前に過ごした拓斗は、体育の後の授業を一時間保健室で過ごした後教室に戻り帰る準備を始めた。
「拓ちゃんごめんね、私も一緒に居ればよかったんだけど……」
「いや、ひかりの所為じゃないから」
幽霊校長の所へ実体化の練習をしに行っていたひかりも戻り、ようやく帰宅できると今度は慎重に廊下を歩いていた拓斗だったが、職員室の前を通った所でちょうど出て来た教師と鉢合わせてしまった。
「真城」
「……樋口、先生」
げ、と思わず言いそうになった拓斗は慌てて取り繕うように言って目の前の教師を見上げた。二年の学年主任であり、そして拓斗が欠席した体育の後の数学を受け持つ四十代の男性教師だ。
彼は拓斗を見つけると途端に眉間に皺を寄せて睨むように彼を見た。一年の頃から拓斗はこの教師にやたらと目の敵にされているのだ。
「お前さっきの授業サボったな」
「あの、ちょっと前の体育で怪我して……」
「そのちょっとのことで毎回毎回授業をサボるのか。どうせ大した怪我もしてない癖に最近の子供はすぐに怪我したって大騒ぎしてまったく嫌になる」
揚げ足を取るように拓斗の言葉に突っかかって来る樋口に、その言葉を受けた拓斗よりも傍にいたひかりの方が腹を立てた。
「何この先生!」
「大体お前は注意力が散漫なんだ。だからすぐに怪我するしテストでも点が取れていない。他の先生はお前が不幸体質だとか何とか言って憐れんで甘やかしてるが、俺もそうすると思うな。そもそも不幸体質なんてあるわけがない。日頃の行いが悪いんだ」
「……」
「おい、聞いてるのか真城」
「……はい、すみませんでした」
「ねえポルターガイスト! ポルターガイスト起こしていい!?」
「こ、今後気を付けますので失礼しますっ!」
「話はまだ終わって――」
今にも暴れ出しそうなひかりの声に拓斗は早口になりながら頭を下げてその場から逃げ出した。背後から樋口の怒声が聞こえて来るが勿論足を止めることはせず昇降口から飛び出す。
「ああもう、腹立つ!」
「ひかり、お前落ち着けよ……」
「何で拓ちゃんは怒らないの! いつもあんな理不尽な目に遭ってるのに!」
拓斗が巻き込まれる不幸は注意した所で回避できるものばかりではない。ひかりは見ていなかったが今日の体育でのボールも完全に拓斗の死角から飛んで来たもので、勿論飛ばした本人も拓斗に恨みがあった訳でもない。ましてや気絶して保健室に運ばれたというのに大した怪我ではないと言われたのだ。拓斗が怒らなかった所為で余計にひかりの方がヒートアップする。
しかし拓斗はそれでも怒ることも悔しいと思うこともなく平然と言った。
「いや、だって慣れてるし」
「慣れてるって……」
「あの先生に突っかかられるのも、他の先生に無駄に贔屓されるのも、疫病神だって遠巻きにされるのもさ、全部慣れたから」
唖然とするひかりに、拓斗は自嘲を誤魔化すようにへらっと笑った。
それに確かにテストの件は全く言い訳できない。彼が授業中に寝かけてしまっているのは事実なのだから。
拓斗にだって言われたことに対して腹を立てることも確かにあるが、そんな彼よりもずっと激怒している存在が隣にいるのだ。他ならぬ拓斗の為に怒るひかりが。
「ひかりが俺の分まで怒ってくれたから大丈夫だよ」
「でもあの先生には聞こえないでしょ! ……やっぱりちょっと驚かせてやるんだった」
「……ほどほどにしろよ」
むっとしながら呟いたひかりに、今度は拓斗も苦笑して強くは止めなかった。ポルターガイストで怪我をさせるのは問題外だが、それでも普段自分をいびる樋口が驚く姿はちょっと見てみたいと思った。
そのままひかりの特訓の成果などを聞きながら拓斗は岐路に着く。今日もトラブルのオンパレードだったな、と思いつつ家の鍵を開けようとした拓斗は、ふと何かに違和感を覚えた。
動きを止めた拓斗にひかりが不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや……あ、鍵が」
いつもと捻る方向が違うのだと気付いた拓斗が鍵を回さずにドアノブに手を掛けると、今朝鍵を掛けたはずの扉があっけなく開かれた。
「ど、泥棒か……?」
「ええっ!?」
恐る恐る家の中に入った拓斗は、警戒しながらその場で家の中を見回す。玄関を見る限り荒らされた形跡はない。
が、すぐに家の奥から聞こえて来た足音に拓斗とひかりは思わず身構えた。
「拓斗君。おかえりなさい」
「……あ」
しかし聞こえて来た声に拓斗は肩に入れていた力を抜く。
「叔母さん」
「叔母さんって、拓ちゃんの?」
「しばらく来られなくてごめんなさいね。元気だった?」
玄関に姿を現した女性は拓斗の母親の妹――叔母だった。ちょうど三十になる彼女は海外に住む拓斗の両親に代わってわざわざ県外から何時間も掛けて一か月に一、二度様子を見に来てくれている。
拓斗は叔母の顔から視線を下げて彼女の腹を見る。以前見た時よりも大きくなっている。もうすぐ拓斗の従兄妹になるであろう子がそこにはいるのだ。
「妊娠してるんだから無理しなくて大丈夫だけど……」
「何言ってるの、中学生が一人暮らししてる方がよっぽど無理してるでしょ! 姉さん達、ちゃんと拓斗君に連絡してるの?」
「まあ、ぼちぼち」
最後に連絡が来たのは二か月前だが、拓斗は曖昧に言葉を濁す。
とりあえず靴を脱いで家に上がった拓斗は、家を出る前よりもいくらか綺麗になっている家の中を眺めて嬉しいやら申し訳ないやら色々な気持ちが過ぎった。おまけに台所からは食欲をそそるいい匂いが漂ってきた。
「叔母さんって、優しそうな人だね」
「ああ」
学校の帰りよりもずっと機嫌が戻ったひかりがそう話しかけると、拓斗は大きく頷く。昔から仕事が忙しくて家に居ることが少なかった両親に代わって、その時は近くに住んでいたこともあって叔母はよく幼い拓斗の面倒を見てくれていた。
ひかりとこそこそと話をしているとお茶を持って来た叔母がリビングに戻って来る。
「ご飯作っておいたからちゃんと食べてね」
「ホントにすみません」
「謝らないの、拓斗君は何も悪くないんだから」
心配そうに拓斗を見る叔母に、彼はどことなく気まずさを覚えて目を逸らす。
『拓斗君は何も悪くない』叔母にそう言われるのは一体何度目だろうか。
「……ねえ、拓斗君」
「何ですか?」
「やっぱりうちで一緒に暮らさない? 一人じゃ大変だし、寂しいでしょう」
「……」
「お母さんのことは私達で何とかするから」
叔母が告げた言葉に拓斗は黙り込んだ。両親が海外に行ってから何度か同じことを聞かれたことがある。中学生である――それも不幸体質の拓斗が一人暮らしすることに叔母夫婦は最初から反対しており、自分の家で引き取りたいと言われているのだ。
しかし拓斗は一度も頷いたことはなかった。その理由はいくつもある。
『この子、疫病神よ!』
拓斗が生まれてから突如起こり始めた彼を含む周囲の不幸に、拓斗の祖母は金切り声を上げて彼を拒絶した。拓斗はおろか彼の親である実の娘すらも遠ざけて、決して拓斗と顔を合わせない。拓斗も祖母の顔は殆ど記憶に残っていなかった。
拓斗の両親はというと、拓斗を毛嫌いする祖母に首を傾げながらも「ならどこかへ引っ越すか」とあっさりと決めてこの家で暮らすことに決めた。拓斗の所為で親との間に溝が出来たというのに両親は呑気に「こっちの方が自然があって拓斗にもいいかも」とにこにこと笑うだけだった。その呑気さは、今でもずっと拓斗の心を救っている。
そして叔母はというと、この家系の中で誰よりも常識人だった。拓斗が体質を理解しながらも普通の甥として気に掛けてくれる叔母のことは拓斗も感謝しているし好きだ。
「……」
「……拓ちゃん?」
返事をする前に拓斗は顔を上げて宙に視線をやった。ちょうどひかりのいる辺りを暫し見つめた拓斗は、やがて居住まいを正すと叔母に視線を戻して「すみません」と頭を下げる。
「俺、やっぱりこの家で暮らしたいんです。家事だってそこそこやれてるし、十分楽しくやれてますよ」
「拓斗君、でも」
「こう見えて俺、料理も得意になったんです。大丈夫ですよ、これまで一年暮らせたんですからこれからだって平気です」
何も心配することはない、と笑う拓斗に、叔母はどこか探るような視線を向ける。しかし全く笑みを崩すことのない拓斗に暫し沈黙した後折れたのは叔母の方だった。
「拓斗君」
「はい」
「本当に大丈夫なのね? 嘘は吐いてないわね?」
「勿論」
「……はあ、まったく頑固なのは誰に似たのかしら」
「母さんじゃないのは確かですね」
「いい? 何かあったら絶対に連絡するのよ。タクシーでも新幹線でもすぐに飛ばしてきますからね?」
「……はい」
拓斗が頷くとようやく納得したように叔母が立ち上がる。そろそろ帰らなくては夫が先に帰って来てしまうのだ。
「それじゃあ拓斗君、戸締りと火の元には注意するのよ」
「はい、分かってます。叔母さんも転ばないように気を付けてくださいね」
「ありがとう。この子が生まれたらまた来るからね」
そう言って自分の腹に手をやった叔母は、何度か振り返りながらようやく歩き出し、駅の方へと向かって行った。
彼女の姿が完全に見えなくなると、拓斗は肩の荷が下りたように小さく息を吐く。
「さて、せっかく作ってもらったから食べるか」
「ねえ拓ちゃん」
「何だ?」
「どうして断ったの? 叔母さんすごくいい人そうなのに」
家の中に入ると、叔母との会話を邪魔しないように大人しくしていたひかりがすぐにそう尋ねて来る。
今しがた叔母に言った通りだ、そう返そうとした拓斗はしかし口を開いた所で止めた。ひかりには誤魔化さなくてもいいと、そんな風に思ったからだ。
「叔母さん、もうすぐ子供が生まれるんだ」
「うん、お腹大きかったね」
「例えばさ、向こうの家で暮らしたとして、俺の所為でその子に何かあったらどうなると思う」
「……拓ちゃん」
「俺、叔母さん達好きだからさ。嫌われたくないんだよ」
大丈夫だなんて保証はないし、生まれたばかりの赤ん坊が危険な目にあっても自ら逃げることなんてできない。その子が怪我をするのも嫌だし、その所為で叔母や叔父から嫌われるのも嫌だった。
「それにさ、今は一人暮らしじゃないだろ」
「……え?」
「それで十分楽しいからな。……あ、そうだいい事思いついた」
一瞬拓斗の言葉の意味を理解し損ねたひかりがそれを反芻している間に、拓斗は手を打ってどこかへ行ってしまった。一人取り残されたひかりは、ようやく彼の言ったことを理解すると慌てて拓斗を探す為に動き出す。
「拓ちゃん!」
「あ、叔母さんちょうど掃除してくれてたんだな」
広いと言っても一軒家だ、すぐに拓斗は見つかった。普段あまり立ち入らない和室の戸を開け放って中を確認していた彼は、ひかりの声を聞いて彼女の方を振り返る。
「ひかり、今日からここお前の部屋にするから」
「私の、部屋?」
「幽霊って言っても一人で落ち着きたい時もあるだろ? 俺は勝手にここに入らないようにするし、それにひかりがいる時は戸を閉めておいてくれれば俺もそこにいるんだなって分かるしさ、いいと思うんだ」
「……」
「あ、ポルターガイストで戸って閉められるよな?」
「う、うん。大丈夫だけど」
たった一人でこの家に住む拓斗が一人暮らしではないと言った。そしてひかりの為に部屋まで用意してくれた。彼女の居場所を作ってくれた。
「拓ちゃん……」
「なんだ?」
「泣きそうなんだけど」
「え、何で?」
和室は嫌か? と大真面目に尋ねて来る拓斗に、ひかりは触れられないと、認識してもらえないと理解しながらも思い切り彼に抱き着いた。
「ありがとう!」
「声近っ! どこから喋ってんだ!?」
「……拓ちゃん。もっとこう、察して」