ご挨拶
「もしもし、父さん?」
「ああ。元気でやってるか?」
「俺は大丈夫。父さん達は? いい加減海外回るのは厳しいんじゃないのか」
「そうだな、流石に歳だしそろそろ日本勤務に回りそうだ」
拓斗は自宅で久しぶりに父親と電話をしていた。いつまでも海外を飛び回っている両親を心配していた拓斗に、父は「ひとまず一度、近いうちに帰ろうと思う」と安心させるように告げる。
「そっか。それならいいんだけど……あのさ、帰って来る日が決まったら教えて欲しいんだけど」
「いつものサプライズはもう嫌か?」
「いや、そういう話じゃなくて……その」
「?」
「二人に、会わせたい人がいるんだ」
「きゃー! 拓ちゃん本当!?」
少し気恥しそうに拓斗がそう口にした途端、彼の鼓膜を破りかねないような勢いで母の叫びが聞こえて来た。……電話の後、しばらく拓斗は耳鳴りが収まらなかった。
「お母さん、ちょっといい?」
「ん? どうかした?」
夕食の後、リビングで仕事の疲れを癒すようにソファに寄りかかってテレビを見ていた母親に、ひかりは少し改まったように話しかけた。
「ちょっと、今度の日曜日とか時間ある? あ、お父さんも」
「んー……多分大丈夫だと思うけど、何かあったの?」
「じ、実は……あの、二人に紹介したい人が居て」
「え、えー! ホント!? それってつまりそういうことよね!?」
「……うん」
具体的な言葉はないもののすぐに理解した母は、両手を頬に当てて「うわあ、ひかりが……うわあ!」と喜色満面ではしゃぎ始める。そしてそんな母の大きな声を聞きつけた小雪は「もー何騒いでるの?」と少々機嫌が悪そうにリビングに顔を出した。もう数日で高校受験の彼女はここ数日ぴりぴりしている。
「小雪! いい所に」
「何かあったの?」
「お姉ちゃんが紹介したい人がいるって! 彼氏よ彼氏!」
「……あー」
テンションの高い母とは裏腹に小雪は気の抜けたような声を出す。そして脳内に元担任の顔が過ぎった。
「え、もしかして小雪知ってたの?」
「まあ、お姉に相応しいかテストしたことあるし」
「お姉ちゃん子の小雪が認めてるってことは相当出来た人ってことね」
「あ、あのねお母さん、実は……」
「ただいまー」
母の中の期待度を一気に上昇させてしまった気がして、ひかりが慌てて口を開く。しかし彼女が話し始めたところで玄関から元気よく兄の声が聞こえて、母の意識がそちらへ向いてしまった為タイミングを逃してしまう。
「聡一! 大変!」
「ん? どうかしたのか」
社会人になってもうすぐ一年になる兄が帰って来ると、母は興奮した様子で捲し立てるように聡一に話しかけた。
「ひかりが今度彼氏連れて来るって!」
「あ、やっとか。長かったなー」
「え、聡一まで知ってたの? 何でお母さんには教えてくれなかったのよ」
「そ、それは」
「まあまあ。すぐに会えるんだろ? その時までのお楽しみってことで」
「ちょっとお兄ちゃん」
「……それもそうね。とにかくお父さんにも言わなくちゃ」
楽しみにしてるからね、と無自覚にひかりにプレッシャーをかけた母親は、まだ帰って来ていない父に連絡しようと携帯片手に意気揚々とリビングを出て行ってしまった。
そんな母親の背中を見送るしかなかったひかりは、少し恨めしげな目で兄を見上げた。
「……今のうちに心の準備してもらおうと思ったのに」
「そんな心配しなくてもいいだろ。父さんはそんなとやかく言わねえだろうし、母さんだってひかりが言えば認めてくれるって」
「だといいけど……」
「いざとなったら小雪がすっぱり言ってくれる。なあ小雪」
「別に真城先生の味方をするつもりはないけど……まあ、私はお姉の味方だから」
「ありがとう、小雪」
嬉しいことを言ってくれる妹に不安が薄らいだのを感じたひかりは、お礼を言いながら小雪の頭を撫でて小さく笑った。
今度は少しだけ楽しみにすら思えて来る。何せ自分の大好きな人を紹介できるのだから。
神田家へ挨拶に行く当日、拓斗は緊張した面持ちで歩きながら――少々右足を引き摺っていた。あまりの緊張で昨夜中々寝付けなかった為、拓斗はいつもよりもずっと注意力が散漫しており、そこに漬け込むように巻き起こった不運によって酷い有様になっていた。
「……はあー」
緊張を振り払うように深呼吸した拓斗は目の前に建つ恋人の家を見据えて、そして一度自分の体を見下ろす。……ここに来るまでに色々あったものの、まあ普通に見られる格好ではあるだろう。
僅かに震える手でインターホンを押すと、待ち構えていたのか殆ど待つことなくひかりが飛び出して来た。
「拓ちゃん!」
「おはよう、ひか……」
いつも通りの笑顔で迎えられて拓斗も少し心が落ち着く。……かと思いきや彼女の後ろからこっそりとひかりの母親が覗き込んでいるのを見つけて一気に顔が引きつった。
「あれ、真城先生じゃないですか」
「ど、どうも」
「中学校から何か連絡ですか?」
「あ、いや……その」
きょとんと目を瞬かせる母親に、拓斗は一度ひかりを見た後覚悟を決めて背筋を伸ばした。
「先生?」
「神田さん、本日はご挨拶に参りました」
「え?」
「私は……こちらのひかりさんと、お付き合いさせて頂いています」
「え……?」
首を傾げた母親がそのままの角度でぴたりと動きを止めて固まった。声を出すのが憚られるような沈黙が続き、そして数秒後「あ、先生いらっしゃい」と聡一が顔を出した瞬間、我に返ったように母親が叫んだ。
「ええええっ!?」
「……」
客間に通された拓斗は椅子に腰掛け、煩い心臓の音を聞きながらこの場に集まる面々の顔を密かに窺った。家庭訪問の時と同じ場所のはずなのにプレッシャーの度合いが桁違いだ。
まずは彼の隣に腰掛けるひかり。彼女は拓斗と同じように少し緊張した顔でこちらをちらちらと窺っている。そしてテーブルの角を挟んでひかりの斜め前に座る小雪は何故か拓斗を睨み付けていた。「さっさとしろ」とでも言いたげだ。
続いて拓斗の斜め右にいるのは聡一だ。彼は妹とは対照的に面白そうににやにやと笑って他の家族や拓斗を眺めている。そしてひかりの目の前にいる母親は、先ほどよりは落ち着いたものの、未だ困惑からは抜け出せずに目を泳がせていた。
そして、拓斗の正面にいる父親はというと。
「……」
無言。だがひたすらにこにこと笑みを浮かべながらじっと拓斗から目を離さない。笑顔だというのに、何故か一番恐ろしかった。
「その……」
「君が、ひかりの彼氏か」
「は、はい! ご挨拶が遅れて申し訳ありません。中学で美術教師をしております、真城拓斗と申します」
「……」
頭を下げる拓斗に、ひかりの父親は終始笑顔のままだ。中学教師だと言って、明らかに歳も離れていると分かっているだろうに何も突っ込んでこない。それが逆に怖い。
「あ、あの……本当に真城先生がひかりの彼氏なの? 本当に?」
「お母さんさっきからそう言ってるじゃん。結構前からお姉達付き合ってるし」
「結構前から!?」
「そもそもひかりって中学の時から先生のこと好きだったしな」
「中学!?」
「あ、いや……それはそうなんですが、勿論至って健全な付き合いですから!」
中学生に手を出した犯罪者だとは流石に思われたくなくて、拓斗は慌てて弁解するように声を上げてしまった。
「でも、大分年離れてるし……あの、先生はうちの娘でいいんですか?」
「勿論です。真剣にお付き合いさせて頂いていますし……将来のことも、考えています」
「あ、あのねお父さんお母さん! 私、拓ちゃん……拓斗さんと、結婚したいの」
「ひかり……」
娘の目は真剣で、本気で一回りも年上の男と結婚すると言っていた。母親はその目の力強さに驚くと同時に、今更娘の成長を改めて感じてしまい、小さく息を吐いてちらりと隣の夫に視線を向けた。先ほどからずっとにこにこと笑顔のまま黙っている。
「お父さんはどう思う?」
「ん? どうって?」
「ひかりと真城先生のことに決まってるでしょうが!」
「二人は好き合ってるんだろう? ならいいじゃないか」
「え」
さらっと、何事もないかのように頷いた父親に一番驚いたのは拓斗だった。
「あの……いいんですか。そんな簡単に」
「年とか教え子だったとか、そんなものわざわざ口を出さなくても本人たちが一番よく分かっているだろうし、それで納得しているのならちっとも問題ないと思うが」
ずっと黙って含むように笑みを浮かべていた父親が発した言葉に、拓斗は力が抜けたように肩を落とした。
「先生、父さんいっつも何か腹に一物ありそうな顔で笑ってますけど、大体何も考えてないんで大丈夫ですよ」
「それ早く聞きたかったなあ……」
こっそり耳打ちしてくる聡一に拓斗は疲れたように呟いた。
「……真城先生、ちなみにそちらのご両親は何と言っているんですか? こんな若い娘で反対されません?」
「うちの両親ずっと海外暮らしでして、まだひかりとは会わせていないのですが……まあ、どう考えても大歓迎間違いなしです」
何せ生まれる前から気に入られていたのだから、とは口には出さないが。
「先生、お姑さんがお姉いじめたら絶対に許さないからね」
「それは絶対にないから安心してくれ」
「万が一そうなったら何が何でも連れ戻すから。定期的にチェックしに行こうかな……」
「先生、小姑の方がよっぽど大変ですよ」
聡一の発言に拓斗は内心で同意した。
「真城さん」
「は、はい!」
子供達が拓斗と話しているのをにこにこと眺めていた父親が、不意に居住まいを正して拓斗と向き合うと、彼に向かって大きく頭を下げた。
「ひかりはうちの自慢の娘です。どうか大切にしてやってください」
「お父さん……」
「……はい。絶対に、お約束します」
拓斗も同じく頭を下げる。絶対にひかりを幸せにしたいと、そう思いながら拓斗が顔を上げる。
すると母親とひかり、そして小雪までもが泣きそうな顔になっていた。聡一は泣きそうにはなっていないものの、優しい目でひかりを見つめている。
本当に温かい家族だと、彼らに恵まれたひかりを見て拓斗も泣きそうになった。
「拓ちゃんただいまー!」
「ただいま拓斗。それで、お嫁さんはどこにいるんだ?」
それから一か月後、相変わらず元気に帰って来た両親を迎えた拓斗は、父の言葉を聞いて「まだ結婚してないからな!?」と突っ込みを入れながらリビングで待機していたひかりを呼んだ。
「こんにちは、あの――」
「きゃー若い子!」
恐る恐る二人の前に出たひかりが口を開いた所でいきなり母親がひかりに抱き着く。父も抱き着きはしなかったものの「おお、この子が嫁さん!」とひかりの周りをぐるぐる回っている。
突然のことにひかりが言葉を失っているのを見た拓斗は、疲れたように息を吐きながらひとまず母親を彼女から引き剥がすことになった。
「母さん、落ち着いてくれ」
「もー嫁と姑のふれあいを邪魔しないでよー。それで、あなた何て言うの? 年は? あ、お義母さんって呼んでね!」
「ちょっと」
「私はお義父さんで。拓斗とはどこで知り合ったんだ? あ、もしかして生徒さんだったとか」
「二人とも話を……」
「十八年前、に」
話が止まらない両親に拓斗が頭を痛めていたその時、ひかりが声を張り上げるようにそう言った。
「十八年前、幽霊の時に出会いました。神田ひかりと申します」
ひかりが微笑む。その瞬間、まるで家の中の時が止まったかのように思われた。
両親が揃って目を丸くしながら彼女を凝視する。そして数秒後、母親の震えた両手がひかりの肩を強く掴んだ。
「ひ、ひかりちゃん……?」
「はい」
「本当に、あの時のひかりちゃんが……」
「幽霊で、成仏して、生まれ変わっちゃったみた――」
「ひかりちゃん!」
少しおどけるように話していたひかりの言葉を遮って、拓斗の母はひかりを抱きしめた。先ほど以上に強くひかりを抱き込んだ彼女は、そのままひかりの名前を呼びながらぐすぐすと泣き始めてしまう。
「……拓斗、あのひかりさんが」
「ひかりが中学生の時に俺の生徒になって再会したんだ」
「何でもっと早く教えてくれなかったのよ拓ちゃんの馬鹿っ!」
「そんなこと言ったって、二人ともここ数年ほぼ帰って来てないだろ。それに、ひかりのことはちゃんと会ってから話したかったから。……父さん、母さん。俺、ひかりが大学を卒業したら結婚したいと思っているんだ」
「勿論いいに決まっているだろう。なあ母さん」
「ひかりちゃん!」
「は、はい」
「拓ちゃんのこと、どうかよろしくお願いします。それから……おかえりなさい!」
ひかりをきつく抱きしめたまま、母はそう言って彼女に笑顔を向けた。
「またひかりちゃんと会えて、本当に嬉しい」
「……っ私も、嬉しい、です」
釣られるように泣き始めたひかりが抱き返す。そんな彼女の背中を優しく叩いた母親は、まるで本当の娘を見るかのように優しく目を細めてひかりを見ていた。
「さて、聞きたい話が山ほどある。ちょうどお昼だし皆で外に食べに行こうか」
ひかりが落ち着くのを待ってから父がそう言った。せっかくだし飛び切り贅沢をしようと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「やっとひかりさんと一緒に食事ができるんだからね」
十八年前叶わなかったことが、今はできるのだから。




