恋人らしいとは
「……ただいま」
「おー、戻って来た戻って来た」
高校の昼休み、教室で弁当片手に話をしていた夏美は、少し疲れた様子で戻って来た友人――ひかりを見て片手を上げた。続いて一緒に食べていた二人の友人も彼女に気付くと、途端に目の色を変えてひかりを出迎える。
「で、どうだったの?」
「どうもこうも……断ったけど」
ひかりは自分の席に着きながら友人の問いに答え、ようやく食べられるとばかりにいそいそと弁当箱を取り出した。昼休みが始まった途端に隣のクラスの男子から呼び出されたひかりに一気に色めき立った友人達は、その結果を聞くのをずっと待ち遠しく思っていたのだ。
ちなみに夏美はそうではない。ひかりの答えなど分かり切っていたからだ。しかし残りの二人は彼女の言葉に「えー」と不満げに口を尖らせた。
「安達君、結構かっこいいと思うけどなー」
「それに優しいよね。私選択授業で隣なんだけど、この前教科書忘れて見せてもらったし。何で断ったの?」
「何でって言われても」
「もしかして好きな人いるの? ひょっとして彼氏いる?」
「えっ」
さらりと尋ねられた問いにひかりは見るからに狼狽えた。この友人はあまりポーカーフェイスが得意ではない。中学からひかりを知っている夏美はそんな彼女の様子に小さく溜息を吐いた。
「え、マジでいるの? 何で今まで黙ってたのさー」
「好きな人? 彼氏?」
「その……」
「ほらほら、さっさと吐いて楽になりなさい」
友人に詰め寄られているひかりは酷く困った顔をしている。……まあ、それも無理のないことだ。夏美は冷静な目でそんなひかりを観察していた。
夏美の友人――神田ひかりは中学の時から地味にモテていた。大人しめな顔立ちと清楚な雰囲気の、華やかな派手さはないが可愛らしい容姿。性格は明るくしっかり者で、クラスメイトとも程よくいい関係を築いている。
そんなひかりに想いを寄せる男子は以前からひっそりと居たのだが、彼女自身はそれをすっぱり断ったり、そもそも気付きもしなかったりしていた。それはひかりが恋に興味がないとか鈍感だからという話ではない。彼女が見つめる先がただ一人に絞られているというだけのことだった。
直接教えられた訳ではないし、鎌を掛けたり確認したりした訳でもない。だが元々鋭く、人間観察が趣味の夏美にはひかりが思いを寄せる人物が誰かは推測出来ていた。そしてそれが、周囲に言えるような立場の人間ではないことも。
真城拓斗。ひかりや夏美が通っていた中学に在籍する美術教師で、神懸った不幸体質。そして……ひかりの思い人である。
周囲の誰もが気付くほどあからさまという訳ではなかった。が、拓斗と話している時のほんの一瞬ふっと浮かべる他の人間に向けるのとはまるで違う愛情に満ちた微笑みを見た夏美は「ああそうか」と今まで彼女が全く周囲の男に目を向けなかった理由に納得がいったのだ。確かに同年代よりも少し大人びた所のあるひかりには年上が似合うだろうとも思った。
が、夏美としては教師なんて不毛な恋よりは普通に学校の先輩と付き合った方がいいのではないかと思っている。どう考えても余計なお世話なので口に出したことはないが。
「何て言ったらいいか……」
返答に困っているひかりは、それでも一度動き始めた箸を止めない。疲れていたということもあるだろうが、この友人は存外食い意地が張っている。
「一応、付き合ってるよ」
「ごふっ」
ひかりの言葉に、油断していた夏美は思い切り咽た。
「え、なにひかり、あんた、え? 付き合ってるって、嘘!?」
「な、夏美まで急にどうしたの!?」
今まで我関せずの状態だった夏美がいきなり詰め寄って来たことにひかりは驚いたように目を白黒させた。同じように今まで追求していた友人二人も、いつもは冷静沈着な夏美の変貌にきょとんとして動きを止めている。
しかし驚いたのは夏美の方も一緒だ。何しろ彼女はひかりの想い人を知っているのだから、その相手と付き合っていると知れば動揺するしかない。
真城先生と本当に付き合ってるの? それとも諦めて他の男を選んだの?
夏美はそう尋ねたくて仕方が無かったが、周囲の手前結局何も言わぬまま席に戻った。
「……夏美が食いついて来るなんて珍しいけど、それはともかく! ひかりの彼氏って誰!? この学校の人?」
「違うけど……」
「じゃあ他校とか……っていうか彼氏の写真ないの? すっごい見たい」
「うんうん、ひかりからそういう話聞くの初めてだし!」
見せろ見せろと友人達が写真を催促すると、ひかりはさっと顔色を変えて申し訳なさそうに首を振った。
「ごめん、見せられない……付き合うの、秘密にしてるから」
ひかりのその一言で、夏美の中で彼女の相手が確定した。
やっぱりひかりは拓斗と付き合っているのだ。あのちょっと気弱そうな幸の薄い美術教師が生徒と付き合う……正直あまり想像が出来なかった。
「えー、なんで?」
「それ酷くない? 何か絶対後ろめたいことでもあるんじゃないの?」
「ちょっとやむを得ないことだから……」
確かに生徒と付き合っているのがばれるのはお互いに困ることだろう。しかし十三歳も年下の女の子を好きになるなんて……夏美はあの教師の性癖を疑いたくなった。
「やむを得ないことって……もしかして芸能人とか?」
ひかりと夏美が同時に噴き出した。拓斗が芸能人……想像しただけでつい笑ってしまう。
「違うよ! ……なんというか、ちょっと年の離れた人で」
「あー、社会人?」
やや躊躇うようにしてからひかりが頷く。そしてひかりは一度ちらりと夏美を窺うように見た。
「成程ね、でも納得かも。ひかりは精神年齢高いから年上の方が合ってる気がするし」
「そうそう、いつもしっかりしてるから彼氏の前ではすっごく甘やかしてもらってそう。逆に年下はイメージないよねー」
「……」
「ひかり?」
「な、何でもないよ」
ひかりが首を振る。しかしその直前に見せた表情は複雑というか、どこか不満げにも見えた。その表情を理由は、夏美には分からない。
「……ねえ、普段その彼氏とどうしてるの?」
「え?」
「お、やっぱり夏美も気になるんだ」
恐らく二人っきりで外に出掛けるなど周りの目もあって難しいことだろうし、中学を卒業した今中々会えていないのではないか。
そう思って夏美が尋ねてみると、ひかりは少し考えるようにして指折り数え始めた。
「大体向こうの家で過ごすけど」
「へー、いいじゃんいいじゃん。隠れた恋って感じで」
「ご飯作ってあげたり、掃除したり、リビングでまったり喋ったり編み物したり……うーん、後は」
「……ちょっと待って、ひかり、待て」
「?」
「あんた、彼氏の家ですることがそれって、え?」
「ただの家政婦じゃん!」
騒ぎ立てる友人達と困惑するひかりを交互に見た夏美は頭痛を押さえるように額に手をやった。
拓斗とひかりが付き合っている姿が想像できないとは思ったが、それでも実際がそんな状態だったとは……。夏美は思わず箸を置くと、ひかりに向かってはっきりと思っていることを言ってしまっていた。
「ひかり、それ本当に付き合ってるって言えるの?」
夏美の言葉に、ひかりはぴたりと動きを止めた。
「ねえ拓ちゃん。私達って、付き合ってるんだよね?」
「え、急にどうした!?」
次の休日、真城家を訪れていたひかりはソファで新聞を捲る拓斗の背中にそう問いかけた。夏美に言われた言葉が心に刺さりっぱなしだった彼女の発言に、拓斗は思わず新聞を取り落として血相を変えた様子で背後を振り返る。
焦る拓斗の姿に、ひかりは首を傾げながら学校で話していたことを拓斗に伝える。すると彼は徐々に険しかった表情を緩め、最後にほっとしたように息を吐いた。
「わざわざ確かめるから、他に付き合いたい人でも出来たのかと思った……」
「そんな訳ないでしょ! 私は拓ちゃん一筋だよ!」
「ありがとう。俺はちゃんとひかりと付き合ってると思ってたんだが」
「……よかったー」
安堵して微笑んだひかりを見て、拓斗は落とした新聞を拾おうと前を向く。
が、その瞬間背後から首に腕を回されて抱き着かれた。
「ひかり!?」
「ちょっと恋人らしいことしたいなーって」
ぎゅうぎゅうと背後から抱き着かれた拓斗は目に見えて動揺している。
ひかりは拓斗の家で料理をするのも掃除をするのも好きだ。勿論進んで行っているし、リビングで二人のんびり過ごす時間は昔を思い出してとても嬉しくなる。
が、傍から見ると全く恋人と呼べるような過ごし方ではなかったらしく、それを知ったひかりはちょっと悲しくなってしまった。今のまだ高校生であるひかりでは拓斗が恋人らしいことをしたいと思ってくれないのかと。
「こう、色気が足りないのかな……」
「何言ってるんだお前は……」
ぽつりと零れた一言に拓斗が頭を抱える。そして大きく溜息を吐いた彼は顔を上げると「ひかり、ちょっとここに座りなさい」と拓斗が座るソファの隣を示した。
特に反論しなかったひかりは大人しく従い、ソファを回り込むと拓斗の隣に正座した。
「なんで正座?」
「叱られるのかと思って」
「別に叱る訳じゃないけど……まあいいや」
拓斗に向き合うようにして座るひかりを拓斗は見上げ――正座している所為で目線が彼女の方が上だ――少し申し訳なさそうな顔になって片手で頭を掻いた。
「俺はひかりと付き合ってる。つまり、ひかりが好きだ」
「……うん」
「だからな、その……そういう恋人らしいことだってしたいと思うことだって勿論ある」
付き合ってからしたことと言えば手を繋いだり抱きしめたりしただけだ。しかも大体はひかりが抱き着いて来るのを受け止めているだけ。無理やりセーブしているのは拓斗の事情だが、ひかりが不満を持つのは仕方がないと思っている。
「けどな、俺は教師で、お前はまだ高校生だ。親御さんに顔向けできないような節度のないことはしない。色々我慢させてるとは思うが、ひかりが卒業したらちゃんと挨拶に行くつもりだ。……だから、どうかそれまで待っていてくれないか?」
拓斗がひかりの手を握る。ひかりは反射的にその手を握り返しながら、「悪い」と頭を下げる拓斗の頭を見下ろした。
正直言ってしまえば、確かにひかりは我慢していることだってある。もっと一緒に出掛けたいだとか、人前でも「拓ちゃん」と呼びたいだとか、自分の恋人はすごく素敵な人なんだと言ってしまいたいとか。だがそれは、最初の時点で承知の上だったはずだ。
だからひかりは拓斗に何も言わない。待っているのはお互い様なのだから、それで拓斗を責めるつもりもない。
ただ――
「拓ちゃん、顔上げて?」
頭の上から優しい声が聞こえ、拓斗は言われるがまま俯いていた顔を上げる。
頬に柔らかくて暖かい感触がしたのは、その直後のことだった。
「な!?」
「これくらい、許してね」
拓ちゃん大好き、とそのまま抱き着いて来るひかりに、拓斗は何とも言えない溜息を吐きながら彼女の背に手を回した。
それから一か月後のこと、ひかりは高校近くの駅前広場で夏美を待っていた。今日は二人で遊ぶ約束をしていたのだ。
「ごめんごめん、お待たせ」
「そんなに待ってないしいいよ」
待ち合わせ時間から十分過ぎた所で慌てた様子の夏美が急ぎ足でひかりの元へとやって来た。「ごめん電車一本逃した」と謝る夏美にひかりは軽く片手を振って大丈夫と示す。
「それじゃ、行こうか」
「うん。……あれ、ひかりそれ」
ひかりが歩き出そうとしたところで、夏美が「あっ」と声を上げて彼女の片手を指さす。何に驚いたのか分かったひかりは思わず照れたように微笑みながら左手の薬指に嵌る指輪に触れた。
「も、もしかして彼氏から?」
「うん!」
驚愕する夏美を見ながら、ひかりは指輪を渡された時のことを思い出した。
「ひかり、これ」
「え? ……ど、どうしたの拓ちゃん!?」
「ちょっとは彼氏らしいことできたらと思って。そんなに高いもんじゃないけど」
渡された指輪と拓斗を交互に見てぽかんと口を開けていたひかりは、少々照れたようにそっぽを向く拓斗にそのまま勢いよく飛びついた。
「ありがとう拓ちゃん! 本当に嬉しい!」
「ああ。 ……流石に学校には着けていけないから牽制はできないし、また告白されるだろうけど」
「え……なんで拓ちゃんがそのこと知ってるの!?」
「密告があった。『お姉はモテるんだからね、ちゃんと捕まえてないと許さないから』って」
「小雪……!」
ひかりが俯くと、拓斗は小さく笑いながらひかりの手にあった指輪を取り、それを彼女の指に嵌めた。
ひかりが拓斗のことを多少ぼやかしながら話し終えると、夏美はようやく表情を戻して意外そうな顔でつい小さく呟いてしまった。
「真城先生も案外嫉妬とかするんだ……」
「え」
「……あ」




