小姑による面接試験(後編)
「あ、先生起きました?」
「……え?」
ゆっくりと、自然に目を覚ました拓斗はいきなり掛けられた聞き慣れない声に一瞬唖然として辺りを見回した。
見慣れた自室に見慣れない人間。寝起きではっきりしていなかった目の焦点が合うと、拓斗はその人物をしっかりと目に留めて、それから勢いよく起き上がった。
「な、なんで……っげほ」
「あんなにやばそうだったんですから、いきなり起きたら駄目ですよ」
拓斗の質問には答えずにその人物――聡一は少し面白そうな顔をして寝るように促した。混乱する拓斗は目を白黒させながら恋人の兄を凝視し「どうして聡一君がうちに……」再び疑問を口にした。
「あれ、生徒でもないのに俺の名前知ってたんですね」とにやにや笑う聡一に拓斗は一瞬言葉に詰まる。勿論ひかりから聞いていたから知っていたのだ。
「まあそれはいいとして……先生どこまで覚えてるんですか」
「どこまでって」
尋ねられた拓斗が記憶を辿る。酷い風邪を引いて病院に行ったことは覚えている。だが帰りのバスに乗った辺りからの記憶は曖昧で、どうやって家に帰ったのかちっとも思い出せなかった。
「え、車に乗ったのも覚えてないんですか!?」
「車……?」
「先生が帰る途中で倒れそうになってたのをひかりが見つけたんですよ。それでうちの車で拾ったんですけどすぐに気絶して。ひかりが家を教えてくれたんでここまで運んだんです」
「それは……助かった、本当にありがとう」
ちっとも覚えていないのが情けないが、本当に助かった。拓斗がふらふら歩いていればいつ事故にあってもちっとも不思議ではないのだ。命拾いしたと言ってよかった。
「下で妹達が何か作ってるみたいなんで、そのうち来ると思います」
「何から何まで……教師として情けないな」
「いえいえ、ひかりに関しては好きでやってると思いますし」
「……」
「ところで先生。覚えてないでしょうけどさっき中々すごいこと言ってましたよ」
「え」
すごいことって何だ、と拓斗の表情がみるみるうちに固まっていく。何かまずいことでも口走ったのか。例えば以前のひかりの話だとか。
分かりやすくやばい、という表情を浮かべた拓斗に聡一が笑いを堪え切れずに口元を押さえた。
「……一体、俺は何を言って」
「先生!」
大きな音を立てて部屋の扉が開け放たれたのはそんな時だった。
「え?」
「真城先生、大事な話があります」
そう言ってつかつかと部屋に入って来たのはひかり……かと思いきや小雪だった。ひかりはというと、そんな妹の姿を後ろから見ながら土鍋を持って後から入って来る。
小雪はベッドの傍に来ると睨みを利かせるように拓斗を見て「これから私の質問に正直に答えて下さい」と強い口調で言った。
「か、神田?」
「うどんは質問に答えないとあげませんから」
「小雪……伸びちゃうよ」
「さっさと答えればすぐに食べられますよ、お姉特製の月見うどん」
「……質問って?」
「先生はお姉のこと好きですか。勿論恋愛的な意味で」
「え!?」
「驚いてないでさっさと答えて下さい」
酷く真剣な表情で小雪にじっと見つめられ、拓斗は返答に窮した。思わずちらりとひかりを窺うと「ごめんね拓ちゃん」と申し訳なさそうに眉を下げている。
その言葉と呼び方で拓斗はすぐに理解した。この妹に自分達のことを打ち明けたのだと。
「……ああ」
「ああじゃなくてはっきり言って下さい。お姉のこと、好き?」
「好きです」
尋問のように畳みかけられて思わず敬語になる。小雪の向こうでひかりが頬を赤く染めているのも、聡一が面白そうな顔をしているのも視界に入り、拓斗は熱が余計に上がって行くような気がした。
「どのくらい好きですか?」
「……言葉で言い表せたら苦労しないくらいには」
「た、拓ちゃん……」
「ふうん……何か説明するのを逃げた感じに聞こえますけど」
嬉しそうにするひかりとは裏腹に小雪の表情は冷めている。が、拓斗だって本当に簡単に言えるような軽い感情ではないのでそう言うしかなかった。
「じゃあお姉の好きな所言って下さい。あ、全部とか駄目です。具体的に!」
「具体的……」
先回りして言葉を封じられた拓斗は少しの間口を閉ざした後、半ば自棄になるように話し始めた。そもそも風邪であまり頭が回っていないのだ。取り繕う余裕もない。
「料理や編み物とか練習して頑張ってる所、辛い時に傍に居てくれる健気で優しい所、感情が分かりやすくて無邪気な所」
「ひかりが無邪気……?」
聡一が思わず呟く。普段妹には窘められること多い彼は、拓斗の言うひかりの無邪気な所などほぼ見たことがない。拓斗にはそういう一面も見せるのかと思わずひかりを振り返ってしまった。
「人を守ろうとする強い所、あとたまに言う冗談、それから――」
「拓ちゃんもういいから!」
「それから、声が」
あまりの恥ずかしさに耐え切れなくなったひかりが止めに入るが、若干暴走状態に入っている拓斗はそのまま続けた。
「俺を呼ぶ声が、本当に好きだ」
思えば拓斗とひかりはずっと声で繋がっていた。『危ない』と最初に声を掛けられた所から二人は出会い、『拓ちゃん』と最初に呼ばれた時は驚いた。
ひかりの声がしないと落ち着かない気持ちになり、話し掛けられると安堵した。彼女の声は、あの頃の拓斗にとって一種の精神安定剤のようなものだったのだ。
そして今も同じようなものだ。ひかりが高校に上がり会う機会が減ったからこそ、尚更それを強く感じる。
「……そうですか」
しばらく黙り込んでいた小雪がようやくそれだけ言った。これで終わりかと拓斗が思っていると「じゃあ最後に」と気を取り直したらしい小雪が口を開く。
「お姉を、幸せに出来ますか」
「出来ると言いたい……が、保証は出来ない。ただ二人で幸せになる為の努力を惜しむつもりはない」
「……」
「一緒に生きたいと言ってくれたひかりの言葉を裏切るようなことは絶対にしない」
小雪の肩が震えている。俯いた彼女の表情は拓斗には窺えずそのまま待っていると、不意に顔を上げた彼女はきっ、と強い視線で拓斗を睨み付け、ひかりの持っていた土鍋を奪うようにして拓斗に押し付けた。
「お兄!帰るよ!」
「へいへい。ひかり、後で迎えに来るから連絡しろよ」
「え……わ、分かった」
妹の一言で彼女の心情を大体把握した聡一は異を唱えることなく従うと「先生、お大事に」と拓斗に一言掛けて小雪に引きずられて部屋を出て行った。
後に残るのは当然困惑したままの拓斗とひかりだけだ。
「……」
「……その、あれは認めてくれたってことでいいのか?」
「多分……拓ちゃん、小雪がごめんね」
「いや、いずれ話さなきゃいけないことだったからな」
ひかりの家族である以上、小雪はいつか乗り越えなければならない壁だった。
「ひかりが高校卒業したら挨拶にいくつもりだったけど……」
「お父さん達は小雪よりもずっと楽そうだと思うよ、割と放任主義だから。……拓ちゃん、食欲ある?」
「ひかりが作ってくれたものなら」
その一言に、ひかりは心底嬉しくなる。土鍋の蓋を開けた拓斗はまだ湯気の立つうどんを見て早速両手を合わせた。
「それにしても、せっかく新しいの編んだのに風邪引いちゃって……やっぱり幽霊の時の方がこう、念が強かったのかな」
ひかりは傍にあったマフラーを握りしめると「拓ちゃんを守ってー」と強く念じ始める。
次の瞬間、壁に寄りかかるようにしてうどんを啜っていた拓斗の頭に、壁時計が降って来た。
「痛っ、熱っ!」
「拓ちゃん!?」
時計が当たった衝撃でそのまま顔を土鍋に突っ込んだ拓斗の悲鳴が上がる。「え、今の私がやったの!? ポルターガイスト!?」と焦るひかりは慌ててタオルを持って拓斗の顔を拭きにかかった。
ちょうどその時、玄関で言葉にならない感情を持て余していた小雪が勢いよく扉を閉め、その衝撃で壁時計の裏の緩くなっていたフックが更に緩み、時計の重みに耐えきれなくなって外れたことは誰も知る由もなかった。




