遭遇
二本立て、小話です。
◆
「あ、先生!」
自宅が勤務する中学校の徒歩圏内にある拓斗は、街中でそう声を掛けられることも然程珍しいことではない。コンビニで買い物中に呼び止められた彼は、誰の声だ、と考えながら顔を上げ、そしてすぐそこに居た人物を目に留めて少し驚いた。
軽く片手を上げた青年は、拓斗の教え子ではなかった。
「……君は確か、神田の」
「兄です。どうも、奇遇ですね」
神田聡一、ひかりの兄だ。「ちょっとしか会ってないのによく覚えていますねー」と何かを含むように言った彼に、拓斗は内心ひやりとした。勿論、ひかりの兄だからこそ記憶に残っていたのだ。
「そういう君も、よく俺のこと分かったな」
「そこはまあ、ひかりがどうにも先生に懐いているようでしたから」
「……」
へらへらと笑う聡一は何を考えているのか分かりにくい。そのままの意味なのか、それとも……拓斗とひかりの関係を疑っているのか。
拓斗が誤魔化すように曖昧に笑うと、聡一は「いつも妹がお世話になっています」と軽く会釈しながらコンビニスイーツを大量に籠に入れ始める。容赦のなく陳列棚の空間を広げている聡一に拓斗は若干引きながら「じゃあ、俺はこれで」とその場を立ち去ろうとした。
「あ、先生ちょっと待って下さい」
「……何だ?」
「聞きたいことがあるんですけど」
しかしその前に聡一が拓斗を引き留める。続いて甘ったるそうな飲み物を籠に入れ始めた聡一は自然な声色で拓斗に向かって問いかけて来た。
「先生っていくつですか?」
「俺? 二十七だけど」
「じゃあ好みのタイプは年下と年上、どっちですか?」
「え? ……年下、か? いや、でもな……」
唐突な質問に、拓斗の頭の中に即座にひかりの顔が過ぎった。確かにひかりは年下なのだが、初めて好きになった時は三つ年上だった。彼女以外に拓斗の基準はないので年下か年上かと言えばどちらとも言えるのである。
「先生?」
「あ、いや、年とかはあんまり気にしないかな」
拓斗の返答に、聡一は心の中で「お」と少しだけ嬉しそうな声を上げた。妹の恋路を面白がって――もとい、応援してやろうと思って尋ねた彼だったが、これは中々悪くないのではないか。普通に年下好みと答えられるよりも脈があるような気がした。
「じゃあ十歳以上年下でも?」
「は?」
相変わらず何でもないかのように平然と尋ねられた質問に、拓斗は言葉に詰まった。
やっぱりこれは探られているのか。もし許容出来ると答えたら妹に――生徒に手を出す危険人物と認識されるのではないか。
ひかりが大人になるまでは勿論節度のある付き合いをするつもりではあるが、そもそも一般的には成人の男が女子中学生と付き合う時点でアウトだろう。
「ど、どうかな……?」
「ふうん、すぐに否定しないってことは無理って訳でもないんですね」
「……」
拓斗が密かに冷や汗を流す。意味深に笑う聡一が内心「意外と望みありそうだぞ、よかったなひかり」と呑気に考えていることなど勿論知らずに。
「ところで先生、うちのひかりはどうですか?」
このタイミングでそれを聞くか!? と拓斗は正直叫びたかった。
「く、クラスメイトとも仲良くやってるし、授業も真面目に受けている」
「あいつ結構真面目ですからねー。まあ聞いたのはそういう意味じゃなかったんですけども」
「……」
「うちの妹、家庭的なんですよ。料理だって得意だし編み物も上手いし、嫁の貰い手に困らなさそうなくらいには出来たやつなんです」
「そ、そうなのか」
「はい!」
うちの妹すごいから、だから是非貰ってやって下さい!
相手なんていくらでもいるから俺なんかに渡さないって牽制されているのか!?
お互いの思考が見事にすれ違う。しかし不幸にもどちらもそれに気付くことはなかった。
「という訳で先生。ひかりのこと、これからもくれぐれもよろしくお願いします」
「あ、ああ」
軽く頭を下げた聡一がいっぱいになった籠をレジへと持って行く。そんな彼の後ろ姿を見送りながら、拓斗はバクバクと煩かった心臓を押さえて大きく溜息を吐いた。
「あ、先生!」
「っ!?」
しかし気が緩んだところでレジ前にいる聡一に大きな声で呼び止められ、再び心臓が嫌な音を立てた。
「な、なんだ?」
「……ちょっと、お金貸してもらえませんか」
あはは、とわざとらしく笑みを形作った聡一がぱん、と目の前で手を合わせるのを見た拓斗は酷く疲れたように脱力した。
◆
最近美味しいと噂になっているパン屋を訪れていたひかりは、焼き立てのパンのいい匂いに包まれながらトング片手に何を買おうかと悩んでいた。
この地域には初めて出店したというこの店は普通のパン屋よりも広く種類も豊富だ。
「どれも美味しそう……」
「あれ、君は……」
「え?」
きょろきょろと目移りしながらパンを選んでいた彼女に、すれ違った男が首を傾げて顔を覗き込んで来たのはそんな時だった。
男は二十代後半か三十代前半くらい、ラフな格好をしたごく普通の人だ。
「あの、何か……」
「もしかして、ひかりちゃん……だったりしないか?」
「え……そう、ですけど」
どうして自分の名前を知っているのだろうかと、ひかりは再度男の顔を見る。しかし彼に見覚えはなく、いきなり馴れ馴れしく呼ばれたことに警戒したひかりは思わず距離を取るように数歩後ろに下がった。
あからさまに警戒されていると分かった男は「怪しいものじゃないから!」と焦るように首を振る。
「覚えてるか分かんないけど、西野充だ。その……昔会っただろう」
「昔って……に、西野君!?」
「ああ、久しぶり。ひかりちゃん」
酷く懐かしい名前にひかりはぎょっとして男――充をまじまじと見つめた。中学生だった頃の充の顔を思い出しながら目の前の彼と重ね、成程確かに成長したらこんな風になるのかとひかりは頷いた。
そして今更、十三年も経った上記憶も殆どなかったというのに拓斗を一発で見抜いた自分がちょっとすごい……というか少々恐ろしい気にもなった。大地に執念深いと言われても仕方がない。
「拓斗からひかりちゃんのこと聞いてて、写真も見せてもらってたからもしかしてと思ったんだ」
「西野君久しぶり! 元気だった? 今は何してるの?」
「ああ、今は普通にサラリーマンだ」
「大人になったねえ……」
中学生だった充が今や立派に働いているのだと思うと感慨深い。ひかりは思わずしみじみと呟いてしまった。
「あ、そうだ! 西野君、拓ちゃんにちゃんと伝言してくれたんだよね。本当にありがとう!」
「……ああ、あれか。クリスマスプレゼントだったんだってな。拓斗のやつ、あれから春先まで暖かくなってもずっとマフラー付けてたぞ」
「ホント? 嬉しいなあ」
にこにこと微笑みながら話すひかりを見ながら、充は「やっぱり本当にひかりちゃんなんだな」と改めて実感した。生まれ変わったと聞いた時はまさかと疑っていたが、こうして話してみれば懐かしい記憶が一気に蘇って来る。
それと同時に、この子はまだ拓斗のことが本当に好きなのだな、と少し会話しただけでも伝わって来た。管を巻いて彼女のことを相談して来た拓斗だったが、どうやら上手く行っているらしい。
「……ひかりちゃん」
「何?」
「あいつさ、ひかりちゃんが成仏した後……特にクリスマス前はさ、ホントに見てられない状態だったんだ」
「……」
「あ、悪い。別に責めてる訳じゃないんだ。ただ、今でもひかりちゃんが拓斗のこと好きなら、またあいつのこと見ていてやって欲しいと、そう言いたかっただけだ」
「……うん、約束するよ」
少し真面目な顔になった充に、ひかりも真剣な表情で頷いた。もうあの時のように拓斗の前から消えるなど絶対にしたくはない。もう二度と、一人にはさせない。
改めて心の中でそう決意したひかりは、真面目な表情を少し緩めて充を見上げた。
「西野君、拓ちゃんのこと気に掛けてくれてありがとう」
「まあ一応、腐れ縁みたいなもんだしな」
「友達想いだね。女の子には元々手当たり次第優しかったけど」
「あ……まあ、ちょっとその辺は少し懲りた所もある」
「? 懲りたって」
「……充君、今度は中学生?」
ひかりが首を傾げて聞き返すと、充がそれに答えるより早く彼の背後から僅かに拗ねるような女性の声が聞こえた。充が振り返るのに釣られてひかりもその視線の先を辿ると、そこに居たのは眼鏡をかけた綺麗な女性だった。
「あ」
ひかりは思わず口を開けたままその女性を凝視してしまう。何しろ彼女は以前、拓斗と二人で会っていた女性なのだから。
「ち、違う! この子は違うからな!」
「どうだか……まあ、冗談だけど」
充が焦るように必死に弁解すると、その女性はくすりと笑って綺麗な笑みを形作った。
笑うと余計に綺麗に見えてひかりは思わず息を呑んだが、それでも負けない気持ちで彼女を見据えた。
結局拓斗とこの女性がどういう関係かは分からないが、もし彼女が拓斗を好きになったらひかりの劣勢は確実だ。勿論そうなっても諦める気はさらさらないが、とにかく彼女がどういう知り合いなのかは確かめておきたかった。
「あのな、この子は……」
「あ、あの! 聞きたいことがあるんですけど!」
「え?」
「た……真城先生とはどういうご関係ですか!」
初対面で不躾だとは思ったがひかりは咄嗟にそう聞いてしまっていた。そんなひかりをきょとんとした顔で見ていた女性は、脈絡のない妙に意気込んだ質問に訝しげな顔になる。
「真城?」
「あ、その、前に一緒にいる所を見たことがあって……」
「……ぶっ、ふはっ」
ひかりの発言にきょとんとしていたのは充も一緒だった。しかし彼は次第にその表情を変えると、堪えきれなくなったかのように急に笑い出したのだ。
「……充君、何笑ってるの?」
「あーやばい、面白い。ひかりちゃん、こいつに嫉妬したんだろ?」
「嫉妬?」
「ちょっと西野君!」
「安心していいよ、この子は園田絵里香。俺の彼女、じゃなくて婚約者だ」
「……え?」
ひかりが呆けたようにぽかんとした顔で沈黙した。園田絵里香、その名前も聞いたことがある。そして、何よりも……。
「え、えええ!? 婚約!? 西野君と部長さんが結婚!?」
「いや、まだだけどな」
「部長って……真城の知り合いみたいだし、あいつから聞いたの?」
「……そうです」
酷く動揺しながら女性――絵里香を見上げる。中学生の頃から美人な子だとは思っていたが、それにしたって本当に綺麗になった。昔彼女を見た時間の違いもあるが、充よりもずっと分かりにくかった。
「お、おめでとうございます」
「ありがとう。えっと、真城との関係? は、友人だから」
「は、はい。分かってます……」
何だかものすごくいたたまれない。
意気込んで質問したのが余計に恥ずかしくなって、ひかりは熱くなっていく顔を見られないように俯いた。
「……西野君も元気そうでよかったし、じゃあ私はこれで。お、お邪魔しました……!」
「おー、拓斗によろしくな」
俯いた勢いで頭を下げ、ひかりは早口でそう言うとそそくさと二人に背を向けてその場から逃げた。
……が、まだパンの会計が済んでいなかった為、広いとはいえ同じ店内に居続けなければならない羽目になった。ひかりは極力彼らから隠れるようにしてレジの列へと逃げ込んだ。
「……あの子、結局?」
「拓斗の教え子」
「ああ成程。でも真城って随分生徒に慕われてるのね。いい先生になったんだ」
「……まあ、うん、そうだな」




