探していた声
番外編です。主に本編後の話になります。
神田ひかりは、ごく普通の一般家庭に生まれた普通の女の子だった。年は十三、家族は五人。両親と五つ離れた兄の聡一、そして三つ離れた妹の小雪と彼女自身だ。
「お姉! お兄がまた私のおやつ食べた!」
「お兄ちゃんまた……後で私が叱っておいてあげるから、お兄ちゃんの分のおやつ代わりに食べちゃえばいいよ」
ひかりがリビングで編み物をしていると、何やらキッチンで騒いでいた小雪が彼女の元へとやって来て怒りながら訴えて来る。彼女は妹を宥めながら大人気ない兄に頭を痛めつつ、仕返しの提案をしてみせた。
家族仲はよく、聡一と小雪が時折喧嘩をするくらいだ。ひかりは再びキッチンに舞い戻る妹の後ろ姿を眺めながら、今日もまた平和で幸せだなあ、と漠然とそう感じていた。
少し大人しそうな顔立ちをしているが性格は意外にも活発で明るいひかりは、友人も少なくなく人当たりも良い。勉強も出来てしっかり者なので周囲にはよく信頼されているが、しかし彼女自身は、昔から自分は何かが欠けているような気がしてならなかった。
具体的に何が、ということは分からない。別に常識がずれている訳でも倫理観が破綻している訳でもない。だが心のどこか一部分が欠落しているような、大事な螺子が足りていないようなもやもやとした感覚をいつも感じていた。
しかしそれを誰かに言ったことはない。言ってもどうしようもない――欠けているものが満たされることはないと、無意識に理解していたのだから。
「ただいまー」
ぼんやりしながら編み物進めていたひかりが玄関から聞こえて来た声に顔を上げる。遊びに行っていた聡一が帰って来たのだ。大学に合格して受験勉強から解放された兄はその反動で遊びまくっており、今日も友人とボーリングに行くと言っていた。
「お、ひかりまた編み物やってんのか。よく続くなー」
「お兄ちゃんお帰り……また小雪のお菓子食べたでしょ」
「ああ悪い悪い、美味そうだったからつい」
「代わりにお兄ちゃんのおやつ勝手に食べちゃいなって許可出しちゃったから」
「え、マジで」
ひかりの言葉にへらへら笑っていた聡一の表情が固まり、慌ててキッチンへと駆け込んでいく。すぐにまだキッチンに居たらしい小雪との口論が聞こえて来て、ひかりは飽きないなと思いながら編み物をしていた手を止めた。ちなみにひかりのおやつが取られないのは二人と好みが違うからである。兄と妹は極度の甘党だ。
ひかりがキッチンへと顔を出すとまだ二人は言い争いを続けている。八つも離れているというのに同レベルだ。主に聡一の精神年齢が低い。
「二人とも、喧嘩してないで早く荷造り進めた方がいいよ。もう一週間もないんだから」
「はーい」
「あー、もうこの家で暮らすの数日なんだなー」
ひかりが声を掛けると口論していた二人も止まった。この三人のヒエラルキーの最上位はひかりだ。兄に長男としての威厳がないともいうが、ひかりは昔から妙に精神年齢が高かった。
ひかりの言うことに従ってキッチンから出て行く兄妹に、彼女はリビングに戻って編み物の続きをすることにした。何しろ彼女の荷造りはもう殆ど終わっているのだ。夏休みの宿題などもそうだが、ひかりは計画的に物事を進めるのが得意な方だった。
神田家はもうすぐ生まれ故郷であるこの土地から引っ越すことになっている。両親の仕事の関係で行ったこともない遠い地方で暮らすことになったのだ。ここよりも少々田舎らしいが、良い場所だと父が言っていた。
しかし不思議なのが、特に有名でもないその田舎の地名をひかりは何故か聞いたことがあった。どこで耳にしたのか、そして記憶したのかは不明だ。だが、その名前はひかりの心の中に強く刻み込まれていた。
こうして覚えのないことを記憶していることは実は以前から何度かあった。時折感じる既視感に、何かが欠けている感覚も含めて自分はどこか変なのではないかと昔から彼女は密かに悩みを持っている。
引っ越して、そしてその場所へ行けば既視感の正体を知ることは出来るだろうか。生まれてからずっと感じているこの虚無感を埋めることは出来るのか。今までにないほどはっきりと「知っている」と感じたその土地にはきっと何かあると、彼女は期待していた。
そして引っ越し当日。沢山の荷物と共に到着した新しい我が家は、地価が安いこともあって以前の家よりも広々としていた。
「私の部屋ここにする!」
「ずりいぞ、角部屋はお兄ちゃんに譲りなさい!」
「どうせお兄はそのうち一人暮らしでもする癖に! お姉はどの部屋にする?」
「え?」
「部屋だって! 私この部屋がいいんだけど」
あらかじめそれぞれの部屋のスペースは確保していたものの、実際に誰がどこを使うかはまだ決めていなかった。ひかりは角部屋を取り合う二人を見ながら、当然のように「ここがいいな」と六畳の和室を示した。
「え、お姉和室でいいの?」
「何か落ち着くでしょ」
「ひかりは昔から年寄り臭いよな」
「……角部屋、小雪のに決定」
「わーい!」
「おいずるいって!」
この兄はいつもデリカシーがない。まだ中学生の妹に年寄り臭いとは何なんだと思いながら、ひかりは新しい自分の部屋の畳を撫でて小さく笑った。和室は好きだ。以前の自室は洋室だったので、ひかりはこれからこの部屋で過ごすのが本当に楽しみだった。
「それじゃあ行ってきます!」
「ひかりごめんね、気を付けるのよー」
数日後。新しい中学の始業式当日、ひかりは慌ただしい母親に見送られながら一人で家を出た。転入初日ということで当初は母も一緒に中学校へ着いて来てくれる予定だったのだが、急に仕事が入って一人で行くことになった。ちなみに父も仕事で、兄は妹の小学校の方へ付き添いに行く。
ひかりはまだ慣れない道をきょろきょろと辺りを見回しながら歩く。引っ越しがぎりぎりだった為まだ周辺も碌に探索しておらず、中学校までの道のりも完全には記憶出来ていないのだ。
「……あれ、ここ」
家と学校の中間くらいの距離まで来た所で、ふとひかりは立ち止まった。道に迷ったのではない、どこかでこの景色を見たことがあるような気がしたのだ。
何の変哲もない駅前の、今まで歩いて来た道よりも人が多く店も多く立ち並ぶ大通り。よく似た場所ならばきっといくらでもありそうなそんな景色。
それなのにひかりは異様な既視感を覚えた。この土地の名前を知っていた時と同じ、記憶の琴線に触れる何かを感じたのだ。
ふらふらと吸い寄せられるようにして大通りに足を踏み入れる。しかし不思議なことに既視感は相変わらず感じるものの、同じように違和感も覚えた。
ひかりは百円ショップの前で立ち止まり、そして思った。ここは百円ショップではなく靴屋ではなかったかと。
「不思議だ……」
不思議と言えば既視感を覚える時点で不思議なのだが、いくつかの店がひかりの記憶と違うのだ。彼女は唸るように店の前で看板を見上げ、そしてやはり違うと思った。
「……あの、どうかしたの?」
「え?」
店の前で唸っていたひかりが余程変に見えたのだろう、ベビーカーを押していた通りすがりの女性が訝しげな顔をして彼女を見ていた。
「あ、いえ……ちょっとお聞きしたいんですけど、この店ってずっと前からありましたか?」
「え? そうね……確か、結構前からあったけど」
「靴屋、ではなく?」
「靴屋? ……ああ、思い出した! 十年ぐらい前は靴屋があったわよ」
「そう、ですか。ありがとうございました」
女性の言葉にひかりはやっぱり、と自らの記憶が正しかったのだと知って安堵した。……が、どうして彼女が十年程前の景色を知っているのか。物心も着かない頃にここへ来たことがあったのか。全ては謎でしかなかった。
この土地に来て更に分からないことが増えたひかりは、首を傾げながら歩みを再開した。そしてそんな彼女の様子を不思議そうに眺めていた女性は、ちらりと彼女の背中を見送った後に再びベビーカーを押し、そして携帯が鳴っているのに気付いてすぐにそれを耳に当てた。
「もしもし、あなた?」
『ああ、もう駅に着いたから』
「私達ももうすぐ着くよ」
『じゃあどっかで軽く食べて行こうか。そうそう、和香子にお土産があるんだ。お前の好きな――』
「着いたけど……ちょっと早すぎた」
それから無事に目的地である中学校へたどり着いたひかりであったが、余裕を持って家を出た為随分早く着いてしまった。初日なので道中で迷ったり、他に何かトラブルがあっては困ると思っていたのだが、何事もなくあっさりと到着した。
何故か軽く拍子抜けしてしまったひかりは、まだ殆ど生徒も歩いていない校内をゆっくりと歩き始めた。校舎に沿うように植えられた桜の木はちょうど今満開で、花びらに暖かい日差しが透けて余計に鮮やかに見える。
最初に職員室に来るように言われているがまだ時間が早い。ひかりは少し校内を見て回ろうと足の向くままにふらふらと歩き、そしてしばらくして行き止まりになった為足を止めた。
校舎の裏側に面するそこには桜は一本だけ植えられていた。しかし今まで見た桜と違うのは、まだ満開ではないということだ。校舎の影で日差しが少々遮られている所為か、とにかくまだピークには少し早いその桜を見上げたひかりは、無意識のうちに微笑んでいた。
「綺麗……」
桜もだが、裏庭の雰囲気も含めて綺麗だった。堂々と裏庭のど真ん中に立つ桜の木は立派なもので、ひかりはもっと近くで見たいと木の幹に近寄り、そして手頃な位置の枝がしっかりとした太い物だと見るとついよじ登って枝に腰掛けてしまった。しっかり者だと言われているがひかりは割と感情を押さえられない方でもあり、つい勢いで行動してしまう。珍しく本気で怒った日など全く手が付けられないと兄に言われたこともあった。
「何か……落ち着く」
桜の花に包まれているような感覚が心地良い。花を透かして見える裏庭は別の花々の姿も見えて、まるで楽園にいるようだ。
……しかし、冷静に考えてみると転校早々勝手に木登りなど中学二年生にもなって何をしているのだろうかと、今更になってひかりは我に返った。この土地に来てからどうにも自分がいつにも増して変だ。
そろそろ降りようとひかりが体を動かそうとする。その直前、不意に彼女の足元――桜の木の下に、突然一人の男が現れた。
その男の顔が目に入った瞬間、どくん、と大きく心臓が鳴る。
「あ――」
この人、は。
体の力が抜ける。何も考えられなくなって、そしてひかりはずるりと枝から滑り落ちた。
「危ないっ!」
反射的に男に向かって声を上げるが間に合わない。ひかりはそのまま男の背中の上に落ち、そして倒れながらも振り返った男と顔を合わせた。
男は二十代後半くらいの、恐らく教師だった。少々気弱そうな印象の顔を間近で見たひかりはその瞬間、混乱しながらも何の根拠もなく確信する。
自分は、彼を知っている。既視感なんてものじゃない。絶対に、知っているはずなのだ。
男は突然降って来たひかりに驚いているようで、目を白黒させながら彼女を凝視している。
お互い時間が止まったように静かに見つめ合った。それは一瞬だったのかそれとももっとずっと長い間だったのか、ひかりには分からない。
その沈黙が終わったのは、目を見開いたまま唖然としていた男が僅かに口を開いたその時だった。
「ひかり」
名前を、呼ばれた。
「――あ」
その声を聞いた瞬間、ひかりは全てが分かった。そして同時に言葉にならないくらいの歓喜が襲い掛かった。
ひかり。そう彼に呼ばれた瞬間が次々と彼女の頭の中を過ぎっていく。
『おはよう、ひかり』
『ひかりー、帰るぞ』
『やったな! すごいぞひかり!』
『ひかり、行ってらっしゃい』
『ひかりが好きだ』
幽霊になり彼と過ごした日々。優しくて幸せな、愛おしい時間。「ひかり」と、いつでも呼んでくれた彼の声。全てが彼女の中に蘇って来た。
急激に流れ込んで来た膨大な記憶は、しかし乾いた地面に水が染み込むように自然とひかりの中に浸透し、すぐに馴染む。動揺や戸惑いは消え去り、残ったのは泣きたいほどの幸福感と満ち足りた気分だけだった。
ずっと抱いていた虚無感が、一瞬にして消え去った。
――ようやく、聞こえた。
ひかりはずっと、この声を探していたのだ。




