4 「よろしくお願いします、先生!」
「……うーん、なんで使えないんだろ」
真城家のリビングにて、ひかりは一人困ったように唸っていた。この前不良を追い払った力――ポルターガイストが全く起こせなくなったのだ。
元々ひかりは自分がそんなことを出来るとは知らなかったものの、拓斗が殴られ、更に彼の絵を台無しにされたことでカッとなって何も考えられなくなった。そして気が付いたら自然と物を宙に浮かせていたのだ。
「別に使えなくてもよくないか?」
彼女が目の前のクッションに手を向けて「動け―!」と声を上げていると、その近くでテレビを見ていた拓斗がふとそんな言葉を投げた。が、ひかりは見えないと分かっていてもぶんぶんと大きく首を横に振る。
「駄目だよ、また拓ちゃんが危ない目に遭った時に助けられないもん」
「でもひかり、あのあとすげー疲れてただろ」
「それはそうだけど……」
あのポルターガイストの後、ひかりは何とか家まで着いて来たものの「ちょっと寝る……」と疲れた声で言ってすぐに何も言わなくなった。幽霊が寝るのかどうか拓斗は分からないものの、きっとその時ひかりは眠っていたのだろう。あれだけ派手にやらかしたのだから何かしらの疲労があっても可笑しくはない。
「俺のことはいいよ、トラブルには慣れてるし。だけどそれでひかりが疲れたり倒れたりしたらそっちの方がずっと困る」
「……拓ちゃんって、男前だよね」
「そんなこと初めて言われた」
昔から他人を自分の不幸に巻き込んで来た拓斗にとっては、自分の所為で誰かが傷付くのは嫌で嫌で堪らないことだった。だからこその発言だったのだが、半透明な頬が僅かに色付いたことに拓斗は勿論のこと本人すら気が付いていなかった。
「……でも」
ひかりは再びクッションに手を翳す。そして拓斗に聞こえないように無言で動けと念じ始めた。
拓斗がそう言おうがひかりは彼の役に立ちたい。そうでなければきっと――。
「拓ちゃん、私ちょっと探検してくるね」
「分かった」
翌日、中学校へ向かうとひかりはそう言って拓斗から離れた。授業中はずっと暇であるし、彼の邪魔をする訳にはいかないので話しかけることも出来ない。彼女が出来ることは時々寝かけている拓斗を起こすぐらいだ。
ふわふわと漂いながら授業前に廊下で楽しそうに話している生徒達を見ると、ひかりは何だか懐かしい気分になった。きっと彼女も生きていた頃には同じように過ごしていたのだろう。
「……」
だが今の彼女の声はここにいる誰にも届かない。そして、声が聴ける拓斗にさえひかりの姿は見ることができない。自分の体を通り抜けて歩いていく女子生徒を眺めたひかりは、静かにその場から立ち去った。
しばらく校内を彷徨っていると、授業が始まったのかざわめきは無くなりしん、とした静寂が辺りを包み始める。
「裏庭でも行こうかな……」
この前の桜がまだ咲いているかは分からないが、このまま一人でぼうっとしているよりはいいだろう。それにあの場所ならばもしかしてまたあの力が使えるのではないかと思ったひかりは、拓斗に着いて行った道を思い出しながら昇降口から外に出た。
勿論幽霊なのだから壁も抜けられるのだが、ひかりはできる限り普通の道を通るようにしていた。死んだ記憶のない彼女にとって、幽霊だと自覚はしても割り切れないものがあるのだ。
「……え?」
運動場を過ぎて急激に人気が無くなる。そんな中裏庭に向けてゆったりと進んでいたひかりは、突然ひやりとした悪寒を感じて背後を振り返った。
「っひ」
彼女の背後にいたのは嫌な感じを漂わせる黒い靄。そしてその中から僅かに這い出る女の子の手と顔が半分。髪の毛に覆われたその片目がぎょろりとひかりを見た瞬間、彼女は金縛りにあったように体が動かなくなった。
「や、やだ……」
ひたひたと、足がある訳でもないのにその靄はそんな音を立てながらじわじわとひかりに近付いて来る。
あれは駄目だ、触れたら取り込まれる。
そう本能で理解していても体は動かない。ひかりは必死に逃げようともがき、しかしどうにもならずに目の前に迫るその目に、彼女はがたがたと震えることしか出来なかった。
「見てはならん! 目を閉じろ!」
酷く焦ったようなその声が飛び込んで来たのは、伸ばされた青白い手がひかりに触れる直前だった。
「っ」
反射的にひかりが目を閉じると、その瞬間間近に迫った嫌な気配がどんどん遠のいていくのを感じた。それでも恐ろしく目を瞑り続けていると、しばらく経った後「もう大丈夫だ」と落ち着いた低い声がすぐ近くから聞こえて来る。
「あの……」
「見ない顔だ、久しぶりの新入りかな。まだこんなに若いのに可哀想に……」
どこか安心するようなその声にひかりが恐る恐る目を開けると、そこには優しそうな顔立ちをした白髪の老人が少々悲しげに眉を顰めて彼女を見ていた。
場所はいつの間にか裏庭の桜の木の傍だ。もう殆ど花は散ってしまっていて葉桜になっている。
「彼女は怨霊だ。近づくと飲み込まれてしまうから、今度から嫌な感じがしたらすぐに逃げるといい」
「おじいさんが、助けてくれたんですか?」
「君を引っ張って逃げただけだがね」
ひかりは目の前の老人をしげしげと見つめる。彼女が何より驚いたのはこの老人の姿が――彼女と同じく半透明だったことだ。
「おじいさんも」
「霊だな。君よりもずっと前からこの学校におる」
柔らかく笑い掛けられてひかりは戸惑った。何せこうして普通に会話ができる幽霊と会ったのはこの老人が初めてだったからだ。そして何より、この老人はひかりの目をしっかりと見つめている。彼女の姿が、見えているのだ。
「助けてくださってありがとうございました! 私、ひかりと言います」
「ああ、構わんよ。……それにしても、君はこの学校の生徒だったのか? 校内で見た記憶はないが」
「違いますよ。拓ちゃ……えっと、一緒に居てくれる人に着いて来ただけです」
「一緒に?」
「私、生きてた時の記憶が無くて。それでふらふら彷徨ってた時に声を聞いてくれた人が居たんです。その人……真城拓斗君って言うんですけど、彼が記憶を思い出すのに協力してくれるって言ってくれて」
「そうか……ひかりさんはいい人に出会ったんだね」
「はい!」
拓斗のことを褒められて、ひかりは嬉しくなって大きく頷いた。いきなり現れた上声しか聞こえないひかりを受け入れてくれた拓斗は、まだ会って間もないが彼女にとって大切な人だ。
「しかし、真城君か」
「知ってるんですか?」
「この学校で彼はある意味有名だよ」
「……あの体質ですか」
まさか拓斗も見知らぬ幽霊にまで自分の不幸体質を知られているとは思ってもみないだろう。
「この前もここで不良に絡まれて……あ、そういえば私、どうやってここまで来たんですか? 引っ張ったっていいましたけど……」
先ほど黒い靄の怨霊に襲われた場所からここの裏庭は少し離れている。幽霊同士だから触れられるのかとも思ったが先ほどそんな感覚はしなかった上、今ひかりがおじいさんに手を伸ばしても体をすり抜けるだけだった。
首を傾げるひかりに、おじいさんはおや、と眉を上げる。
「君は幽霊になって間もないのかな」
「はい、多分覚えてる限りは」
「まだ力の使い方を知らないようだ。私達は本来人や物に干渉できない訳だが、上手くやれば少しの間実体を持つことも可能だし、君を引っ張ったようなことも可能だ」
「あ、私この前物を浮かせられたんです! でもそれ以来全くできなくて……おじいさん、よければやり方教えてもらえませんか!」
「ああ、勿論。私は暇だからいつでも手を貸そう」
「やった! ありがとうございます!」
ポルターガイストのように物を動かすことができればまた拓斗を助けられるかもしれないし、何より実体を持つ……それができれば自分の姿も見えるようになるかもしれないのだ。
「これからよろしくお願いします、先生!」
「ああ。……そう呼ばれるのは久しぶりだな」
ひかりが意気込んで頭を下げると、老人の幽霊は目を細めて優しい顔で彼女に微笑んだ。