37 「ただいま!」
「……」
午後の授業時間中、拓斗はまた職員室で地道な作業を続けていた。今やっているのはノート提出のチェックである。出されたノートの名前と名簿を照らし合わせてチェックし、そしてきちんと課題がやれているかを確認する。
拓斗の傍の机では樋口が何やらパソコンで課題用の数学の問題を作成しているようだった。課題に使う問題をピックアップしているらしく、机の周りには付箋が大量に張られた教科書や問題集が山積みになっていた。忙しそうだ。
「何か用か」
「あ、いえ。先生の仕事って大変そうだなって」
「どんな仕事だって大変だ。まあ今日は二年が居なくて授業が少ないからいつもよりは暇だが」
無駄口を叩く暇があれば終わらせろ、と眉間に皺を寄せた樋口が再びパソコンに向き直ると、拓斗は止めていた手を再び動かしながら先ほど山田が言っていた言葉を思い出し、何とも言えない気持ちで気付かれない程度に樋口を窺った。何だか今日はこの教師に対して微妙な気持ちを抱いてばかりだ。
以前ひかりが樋口に怒った時にポルターガイストを起こそうとしていたが、もし実際にやっていたらどうなっていただろうか。心霊写真で――しかも校長のものなら恐らくピースサインの――それだけ驚くのならば下手したら気絶するかもしれない。
ちょっとくらい樋口を驚かせてやりたいと言っていたひかりには止めておくように伝えた方がいいだろうかと考えながら最後のノートのチェックを終えると、拓斗は名簿を持って樋口の机に回り込んだ。
「先生、終わりました。一人提出してませんでしたけど」
「なんだと、誰だ」
「えっと」
拓斗が名簿を辿ってその男子生徒の名前を挙げると、樋口の顔が一気に険しくなった。そのまま立ち上がった樋口は拓斗に何も言うことなく職員室の奥へ向かい、そこへ座る先生に強い口調で話し掛ける。
「早川はまだ欠席しているのか」
「ええまあ……」
「もう二週間だぞ、理由は」
「あまりクラスメイトと折り合いが良くないみたいで……まあ人付き合いが苦手な生徒みたいですのでそういうこともあるかと……」
「そういうこととは何だ、……それで、家庭訪問は?」
「流石に二週間程度休んだくらいで家庭訪問なんかしたら保護者からクレームが来ますって」
「だが――」
距離があるので聞き取りにくいが、どうやらノートの未提出者は登校拒否の生徒だったらしい。その後もひたすら樋口が責めるように話しているが、しばらくすると苛立ち気に肩を怒らせて席に戻って来た。
「全く、教師ともあろうものが……真城、次の時間は授業だ。そろそろ行くぞ」
「え? あ、分かりました」
大いに機嫌の悪い樋口を出来るだけ刺激しないように返事をした拓斗は、さっさと授業の準備をし終えて歩き出す樋口に続いて職員室の外に出た。
「……」
職員室の周辺は保健室や進路資料室など比較的静かな場所が多く、生徒もあまり近寄らない。嫌な沈黙が続く中樋口の後ろを歩いていた拓斗は、僅かに浮いた床板につま先を引っ掛けて思い切り前方に転んだ。
「ったあ……」
「また不注意かお前は」
ぎりぎり樋口にぶつかるのを避けた拓斗が床に打ち付けた膝を擦っていると、呆れたような顔をした樋口が彼を振り返った。拓斗がよろよろと立ち上がるのを足を止めて待っていた樋口は、不意に思い立ったように「真城」と口を開いた。
「仮にお前が教師になったとして、登校拒否の生徒にはどう対処する?」
「え……と、何で学校に行きたくないか本人に聞く、とか」
いきなり切り出された問いかけに、拓斗は混乱しながらも何とか回答を絞り出した。先ほどの樋口と他の先生との会話を聞いていたからかもしれないが、咄嗟に出て来た答えはそれだった。
樋口は拓斗の答えに「そうだな」とだけ返し、そして大きく溜息を吐いた。険しい顔は未だに緩まない。
「それも答えの一つだ。……だが、最近の教師は何もしようとしない。来ないなら来ない理由があるのだからと上っ面だけ生徒を理解したように言って放置する。親の顔色を窺ってばかりで生徒本人を見ようとはしない」
「……」
「真城、お前は夏休み明けにあった事件を覚えているか」
「……それって」
「県内の女子高生が一人、山中で遺棄され半年も経ってから見つかった事件だ」
ひかりの、あの事件だ。知っているなんてものじゃない。拓斗は震える手を握りしめながら小さく頷いた。
「あの事件の被害者は……もしかしたら、守れたかもしれない命だ」
「……っ」
「親の虐待を学校側の誰かが気付いていれば、それを母親に問い詰めたり警察に通報していたりすれば、助かったかもしれない。だが今の教師は出来るだけ面倒事に関わらないように、自分に責任がいかないようにすることばかり考えている。だからあのような事件が起こって――」
「だったら」
苛立ちながら話す樋口の言葉を遮って、拓斗が地を這うような低い声を出した。手だけではなく声も震える。抑えきれない感情が爆発してしまいそうだった。
「もし樋口先生だったら気付いたんですか。……あいつがどれだけ苦しんで、誰にも助けを求められなかったのを、先生なら気付けたっていうんですか!」
「真城、お前……」
「ひかりが死ぬ前に、あいつを助けられたって言うんですか……っ!」
痛々しい程の拓斗の叫びに、樋口の目が大きく見開かれた。
今の教師の在り方を否定する為に持ち出された内容は、何よりも拓斗の地雷を思い切り踏み抜いた。あの時ああしていればと、そう言って都合の良い例題のようにひかりのことを挙げて。今頃そんなこと、遅すぎるのだ。何もかも手遅れだというのに。
「……被害者と、知り合いだったのか」
「……」
拓斗は何も答えなかった。しかしそれを肯定と取った樋口は先ほどまでの険しい表情を一変させて拓斗を見た。
「悪かった。知らなかったこととはいえ、配慮に欠けていた」
「……いえ。俺の方こそ、すみませんでした」
我を忘れて叫んでまった後、徐々に頭が冷えて来た。拓斗は樋口に謝りながらも、この場にひかりがいなかったことに心底安堵した。彼女にこんな話絶対に聞かせたくはない。
樋口を責めても仕方がないのだ、彼は生前のひかりと一切関わっていないのだから。拓斗だって、仮にもっと早くひかりと出会えていたとして彼女を助けることが出来ただろうか。
拓斗はまだ子供だ。何の力も持たないただの中学二年生で、社会的な力もなく自立も出来ていない。今のひかりだけでも守りたいとあの時言ったが、もっと拓斗がひかりに出来ることはないだろうか。
「……ひかり」
拓斗が出来ることなどたかが知れている。だけど拓斗は今、無性に彼女に会いたくて仕方が無かった。
「……ん……?」
その日の夜中、普段一度寝たら起きない拓斗がふっと意識を浮上させた。勝手に目が覚めたのではないと気付いたのは、枕元で鳴り続ける携帯の音を認識してからだった。
「あー……もしもし……」
寝ぼけた頭のまま緩慢に携帯を手に取った拓斗は画面も碌に見ずに電話に出る。半分夢の中でむにゃむにゃと言葉にならない声を出していると、耳元から少し申し訳なさそうな声が聞こえて来た。
「た、拓ちゃん寝てたよね……ごめん」
「……」
「拓ちゃん?」
「ひかりっ!」
がばっと、勢いよく拓斗が布団を跳ね上げて上半身を起こした。一気に覚醒して慌てて携帯の画面を見ると、そこには“叔母さん”と表示がされていた。どうやら叔母の家の固定電話から掛けているらしい。
「どうしたんだ! 何かあったのか!?」
「う、ううん、ごめん。何もないけど……拓ちゃんの声が聞きたくなって」
「そっか、よかった……俺も、ひかりと話したかった」
電話をする、という手段を拓斗は全く考えもしていなかった。いつも一緒にいるということもあるが、ひかりと話すのに電話を使う、ということが全く頭にイメージ出来ていなかった。こうして電話でひかりと話していると彼女が実は見えない存在であることを忘れてしまいそうになる。
「叔母さん家、どうだ? 叔母さんと上手くやれてるか?」
「楽しいよ、叔母さんとも結構仲良くなったし。妹みたいって言われちゃった」
「それならよかった」
「大地君も可愛くてね、この前会ったばかりなのに大きくなったように見えたの」
嬉しそうなひかりの声に拓斗の表情も緩む。大地がいかに可愛かったかを熱弁されたり叔父からスケッチブックを貰ったことなどを聞きながら拓斗は、結局ひかりは何をしに出掛けて行ったのかとますます疑問が沸いていた。
「……叔母さん家に行った理由、まだ教えてくれないのか?」
「え、それは……ごめん。もうしばらくしたらちゃんと言うから、それまで待ってて欲しいなー、と」
「まあ、それならいいけど」
「あ、勿論悪いことなんてしてないよ!」
「それは流石に分かってるよ。ひかりはいい子だもんなー」
「もう、また子供扱いしてる! 私拓ちゃんより三つも年上だってば!」
軽口を叩きながら、今度は拓斗が今日の出来事について話し始める。無論ひかりに聞かせたくないことは省き、職場体験について掻い摘んであれが大変だった、こんな話を聞いてしまったと思いつくままに口にした。
「おまけに明日はちゃんと解説できるようにって宿題出されたし……」
「ふふ、お疲れ様。でも拓ちゃんが先生っていうのも面白そうだよね」
「そうか?」
「うん、授業受けてみたいな。拓ちゃんだったら教科は美術とかかな」
「まあそれだったら数学よりは……いや、やっぱり大変そうだ」
「でもまさかあの先生がオカルト駄目だったなんて……。今度ちょっと誰もいない場所で背後から肩叩いてみようかな」
「腰抜かしそうだから止めとけ」
「はいはい」
くすくすとひかりが笑う。その声を聞いていると、不意にお互い言葉が途切れて黙り込んだ。
何も聞こえなくなった電話の向こうを思いながら拓斗は一度息を呑む。そして、言った。
「……なあ、ひかり」
「何?」
「あのさ、俺ひかりが好きだから」
「は、はいっ!?」
がたがた、と耳元で何かが崩れるような音がした。またポルターガイスト起こしているのだろうか。
「た、拓ちゃん急に何を」
「いや、ちゃんと直接言ってなかったなと思って」
充と話していたのを聞いていたので間接的には告げたが、彼女自身にはっきりと伝えてはいなかった。
伝えなければと思ったのだ。恥ずかしい気持ちもあるが、気持ちを惜しむことなく伝えることが、今の拓斗がひかりに出来ることだったから。
電話の向こうの騒音が徐々に静まり出すと、少々動揺の残った声が拓斗の名前を呼んだ。
「私も、拓ちゃんのこと大好きだよ。でもね、あの……」
「何だ?」
「好きな人が出来たら、その時はちゃんと言ってね」
「ああ、ひかりが好きだ」
「っそういうことじゃなくて!」
拓斗に他に好きな人が出来たらちゃんと覚悟を決めようと、そう思った彼女の発言だったというのに、拓斗は平然と予想外の切り返しをして来た。
「……拓ちゃんまだ寝ぼけてる?」
「いや、どっちかっていうと逆に元気」
所謂深夜テンションでハイになっていた。もれなく明日の朝冷静になって悶えること必至だ。
「こんな時間に起こしてごめんね。明日も学校だしそろそろ切るよ」
「分かった」
「明後日には帰るから。色々気を付けて、怪我しないようにしてね」
「ひかりも。待ってるから」
「うん、それじゃあ」
ぷつ、と小さく音を立てて通話が切れた。拓斗は通話終了の画面を無言でしばらくの間見つめていたが、急にがばっと布団を被ると頭まで覆って丸くなった。
「うわあああ……」
朝と言わず、今から悶えてしまいそうだ。
「……拓ちゃん」
受話器を置いたひかりは、他に誰もいない真っ暗な部屋の中で小さく呟いた。そして両手で、体温のない頬を覆ってその場に蹲る。
「大好きだよ」
嬉しい。嬉しくて堪らない。電話をする前まで感じていた寂しさがあっという間にどこかへ行ってしまって、心が喜びと充足感でいっぱいになった。
「よし、明日も頑張らなきゃ!」
ひとまず今しがた動揺して落とした本を元に戻そうと立ち上がったひかりは、しかしその瞬間ふらりと体をよろめかせ、何やら言い知れぬ違和感を覚えた。
「え? ……あ、ああ……」
気のせいだとは全く思えないそれにひかりが原因を探ろうとして、そしてすぐに彼女はその“何か”に気付いた。
直後――彼女は全てを悟った。
「そ、っか……。そう、だったんだ」
震える声で呟かれたのと同時に存在しない涙が床に零れ落ちたことを、勿論彼女以外の誰も知らない。
「拓ちゃん……ごめんなさい」
「……」
もうすぐ着く、と叔父からメールが入ってからというもの、拓斗は玄関近くを行ったり来たり繰り返していた。今日は学校が休みなのでいつひかりが帰って来ても迎える準備はできているが、その所為で余計に時間が経つのが遅く感じていた。
「……あ」
家の前に叔父の車が見えると、拓斗はすぐに靴を履いて外に出た。
「叔父さん」
「拓斗君、ひかりさんを借りて悪かったな」
「拓ちゃん!」
「うわっ!」
運転席から降りて来た叔父に声を掛けた拓斗は、次の瞬間首に回った腕に驚きながら体をよろめかせた。
抱き着くように回された腕は当然途中で途切れている。拓斗は少々気恥しくなりながらもその手に触れた。
「ただいま!」
「お帰り、ひかり」
心底嬉しそうなひかりの声に拓斗も同じように返すと、叔父が車の後ろのドアを開けて何やら紙袋を取り出しているのが見えた。
「ひかりさんの荷物はどこに置けばいいんだ?」
「荷物?」
「あ、えっと、ちょっとね、お土産貰った感じで」
「そうなのか? 叔父さん、ありがとうございます。こっちに……」
「あああ待って拓ちゃん! 私が受け取るから!」
ひかりの荷物だという紙袋を受け取ろうと拓斗が手を伸ばすと、それよりも早く拓斗から離れたひかりの手が紙袋をしっかりと掴み取っていた。その必死な声に自分が見るのは良くないのだろうと判断した彼は叔父に「そのままひかりに持たせてやってください」と伝える。
「送ってくださってありがとうございました!」
「叔父さん、ひかりが送ってくれてありがとうって」
「いや、世話になったのはこちらの方だからな」
「世話って、ひかりホントに何してたんだよ」
「色々と……」
「それじゃあ二人とも、また何かあったらすぐに言ってくれ」
「はい、ありがとうございます」
「お世話になりました!」
拓斗達が頭を下げると、叔父は再び車に乗って帰って行った。それを見送ってから家の中に入ろうとすると、その前にひかりの手が拓斗の腕にしがみつくように絡んだ。
「ど、どうしたんだ今日は?」
「ちょっと寂しかったから。あのね、叔母さんから料理教えてもらったの! 今日の夕飯に作ってあげるね」
「それは楽しみだな。じゃあ買い物行くか」
「うん!」
見えなくても満面の笑みを浮かべているのだろうなと分かるひかりに、拓斗は心臓を高鳴らせながらもつい笑みを溢した。
その笑みを見たひかりは、彼の腕を掴む手の力を強める。
「拓ちゃん、大好きだからね」




