36 「じゃあ解説してみろ」
「やっと着いた……」
ひかりが出掛けて行ったその日、拓斗は学校へ着くと思わずそう言って安堵の溜息を吐いていた。
帰って来たひかりに心配を掛けさせないように細心の注意を払って歩いた通学路。おかげで今日は彼女が居なくても何事もなく学校へたどり着いたのだ。その分通学時間が異様に長く感じた。
「ひかりが居ないと変な感じだなあ……」
いつも隣で聞こえる彼女の楽しげな声が耳に入って来ない。
普段傍にいるのかいないのか分からない時や、以前なんかは校長の所へ行っていた時も多かった。しかしそれでも帰りはいつも一緒で、一人で学校へ行くのもあの事件が報道された始業式の日以来だった。
しかしひかりは一体叔母の家に何の用だったのだろうか。しかも二日間泊まるのだからただ遊びに行くという訳でもないだろう。今朝のひかりの様子からして悪いことではなさそうだが、隠し事をされているのが少しだけもやもやとする。
靴を履き替えた拓斗はいつもよりも軽い鞄を背負い直して廊下を歩く。そして向かった先はいつもの教室ではなく、一階にある職員室だった。
「失礼します」
「真城? 今日から二年生は職場体験で……ああ、お前はそうだったな」
入口近くにいた担任は拓斗の姿を目に留めると首を傾げ、そして思い出したように頷いた。
今日と明日二日間は職場体験学習の日である。充はパン工場、絵里香は市役所、和香子は保育園、そして拓斗は中学校で一人居残り先生の仕事を見る。
授業が始まる五分前まで用意された椅子に座って職員室の隅で大人しくしていると、ふっ、と拓斗に黒い影が掛かった。
「真城」
「……おはようございます」
何の因果か、今日から拓斗が着いて回ることになったのは樋口である。相変わらずの厳しい顔で拓斗を見下ろした彼は、「早速始める、着いてこい」と拓斗の背を向けて職員室から出て行った。慌てて拓斗はその後ろを追いかける。
「不本意だが、今日明日でみっちり教師の仕事を見せてやる」
「はあ……」
不本意なんて言うのなら他の先生が見ればいいものを。拓斗がそんなことを考えていると不意に樋口が拓斗を振り返り、思わずぎくりと肩を揺らした。
「悪かった」
「え?」
「お前も他の生徒と同じように職場体験をさせるべきだというのに、他の先生を納得させられなかった」
「い、いえ。別に」
「全くどうかしてる。不幸体質なんていい大人が信じて生徒を特別扱いするなど……」
「……」
拓斗は何とも言えずに黙り込んで再び前を向いて歩き出した樋口の背中を見上げた。他の先生に抗議してくれたことに感謝していいのか、自分の体質についてまるで信じようとしない男に反論すればいいのか、非情に複雑な心境である。
とぼとぼと樋口の後を着いて行き、そして彼が足を止めたのは一年の教室だ。さっさと扉を開けて中へ入っていく樋口に続いて拓斗が教室に入ると、途端にクラス中の視線が自分に向くのを感じた。
「今日から二年生は職場体験だ。この生徒も教師の職場体験をすることになったので授業を見学する。……真城、後ろに立って聞いていろ」
「……はい」
樋口に言われるがまま教室の奥へと向かう拓斗に一年のこそこそと話す声が耳に入って来る。
「真城先輩ってあの」「なんか不幸って噂の」「なんだっけ、貧乏神?」と囁くように話される声に拓斗は顔をひきつらせた。まさか一年にまで自分の体質を知られているとは思っていなかった。そして貧乏神ではないと否定させてもらいたい。
「無駄口を叩くな、授業を始める」
樋口が低い声を出すと、話し声はぴたりと止まった。そして授業開始のチャイムと共に教科書が捲られ、拓斗も去年聞いた数学の授業が始まる。
「……はあ」
授業開始から数十分も経ったが、正直言って拓斗は非常に退屈していた。何せやっていることは他の生徒と同じ、授業を聞いているだけなのである。それも既に習った範囲を。ずっと立っているので余計に疲れて来て、拓斗は肩を落としながら他の人間に聞こえないくらいの小さな溜息を吐いた。
「真城」
「は、はいっ!」
「お前はこの問題、解けるだろ」
気を抜いている時に唐突に名前を呼ばれて飛び上がりそうになった。我に返って黒板を見れば、生徒に出されたらしい問題と微妙に間違った数式、そしてその傍に恥ずかしそうに俯いた男子生徒がいる。どうやら生徒が問題を当てられたが間違えたらしい。
「解いてみろ」
「はい」
樋口に言われて教室の前まで来た拓斗は、間違った数式の隣に正しい計算式を書き始める。応用問題ではあるが一年の問題、そして日頃ひかりにしっかりと教わっている拓斗には然程難しいものではなくあっさりと答えを導き出した。
樋口はそれを見て淡々と「正解だ」と口にし、そして更に続けた。
「じゃあ解説してみろ」
「え」
「間違えたのは何が悪かったのか、どう考えれば正しい式に出来るのか、今から解説するんだ」
若干得意げだった拓斗が途端に困ったように視線を彷徨わせた。
「え、っと……この問題は」
「ちゃんと全員に聞こえるように話せ」
そんないきなり無茶ぶりを、と先ほどまでの暇だった時間が少々恋しくなって来る。答えは分かっているし途中式だって書ける。が、いざどうやって解けばいいのかと口頭で――しかも何十人も注目する前で説明しようとすると、一気に頭が真っ白になった。
ひかりはどうやって自分に教えてくれたのだったか。明確に思い出せない上助けを求められる彼女は今ここにいない。拓斗が口を閉ざしていると、静かに拓斗を観察していた樋口が「もういい」と言って再び教室の後ろへ戻るようにと指示した。
くすくすと小さな笑い声が教室のあちこちから聞こえて来る。それを出来るだけ耳に入れないようにしながら戻っていると、「それじゃあ」と樋口が口を開いた。
「今笑ってるやつは勿論解説できるんだな。誰を当てるとしようか」
その言葉に一瞬にして教室が静まり返るのだから、拓斗は再び複雑な気持ちで解説を始める樋口を見ていた。
苦手であまり好きではない先生だが、何というかそれだけではないような気がして来た。
その後、授業が終わると今度は職員室に戻り提出物のチェックや小テストの丸付け、配布するプリント作りなどの細々とした事務仕事が待っていた。普段長居することのない職員室で作業するのはどうにも落ち着かず、慣れない作業は中々捗らない。
コピー機が誤作動を起こして止まらなくなった時は大変だった。樋口には叱られ、それを見ていた他の先生には「やっぱり外に行かせなくてよかった」とほっと息を吐かれてしまった。
「疲れた……」
普段と全く違うことをすると必要以上に疲れる。給食の時間になり、不在の先生の席を借りて給食を食べていた拓斗は、肩を落として溜息を吐いた。
「あいつ、今頃何してるんだろ……」
給食――食べ物からひかりを連想した拓斗は肘を着きながらぼうっとひかりのことを考える。叔母さん達と上手くやっているだろうか。拓斗とは違って声が聞こえない彼らとの意思疎通は難しいだろうし、そもそも叔母は心霊現象が苦手なはずである。驚かれて落ち込んだりしていたらどうしよう。
「真城、行儀悪いわよ」
「わっ! ……山田先生」
肘を着いてぼけっと食べていた拓斗に突然声が掛かる。驚いた彼がばっと顔を上げると、隣の席の椅子の背凭れに思い切り体重を掛けて踏ん反り返った拓斗以上に行儀の悪い先生が楽しげに彼の方を見ていた。
四十代――実際に聞いたことはないが多分そうだ――の女性、山田は美術教師で、同じく美術部の顧問だった。明るく大雑把な性格で大体いつも大口を開けて笑っている印象が強い。
「職場体験はどう?」
「はあ……大変です」
「まあそうよね。それに教えてもらってるのって樋口先生でしょ? あの人厳しいし口煩いし大変ねえ」
へらへら笑いながら特に小声にする訳でもなくはっきりそう言った山田に、拓斗は咄嗟に周囲を見回して樋口の姿を探した。既に給食を終えていた樋口は職員室を出て行ってからまだ戻っては来ておらず、拓斗は小さく安堵する。聞かれていたら何と言われたか分かったものではない。
「あっはは、先生に聞かれたらまずいって思った?」
「まあ……」
「じゃあもっとまずい話しちゃおうか。樋口先生、生徒にめっちゃ怖がられるけどね、実はあの人奥さんにちっとも頭が上がらないのよ」
「え」
「それにね……実は先生、怪談とかオカルト話大の苦手なのよー、あの顔で!」
あっはっはっ、と自分で言った言葉に自分で笑う山田に拓斗は顔をひきつらせた。他の先生も密かに聞き耳を立てているのが分かる。
というか何でこの先生はそんなに樋口のことに詳しいんだと考えていると、それを悟ったのか単なる偶然か「私樋口先生と同級生でねー」と止まらない口がまた話し始めた。
「二人ともここが母校。それでいつだったっけ……そうそう、中一の頃だけどクラスの集合写真撮った時にね、あの人のすぐ隣に……映ってたのよ」
「映ってたって」
「真城はうちの学校の七不思議って知ってる?」
「七不思議……あー」
拓斗の脳内に以前充から聞いた話が蘇り、そしてそれと同時に幽霊の少女と共に成仏していったあの老人の姿が過ぎった。
「もうあの時樋口先生めっちゃくちゃびびってて! しばらくの間ずっと挙動不審で面白かったのよ」
「面白いって……」
「ただでさえ昔から理系だったのにそれ以来非科学的なことが怖くなったみたいでねー、真城の体質を信じないのもそういう理由だろうね」
まさかずっと拓斗の不幸体質をあり得ないものと断じてネチネチいびられたのはそれが原因だったとは。天に上った校長に少しだけ恨み言を言いたくなってしまった。
昔の樋口を思い出しているのか話が終わってもまだ山田が笑い続けていると、ちょうどその時樋口が職員室に戻って来た。
「真城、まだ食べ終わってな……何ですか」
拓斗に文句を付けようとした所で、樋口は何故か自分に他の教師の視線が集中しているのに気が付いた。それも普段向けられることのない、何とも生暖かいようなその視線を。
微妙な空気が職員室を支配する中、それをぶち壊すように山田はまだ笑っていた。




