33 「ひとつ提案がある」
ゆっくりと、ひかりは薄暗い和室で目を覚ました。
日々ちょくちょく実体化している所為か夜には眠くなり普通の人間と同じように睡眠を取っている彼女は、いつも目覚ましなどなくても同じ時間に目を覚ます。
大きく伸びをして自室から廊下に出ると、ひかりがまず向かうのは拓斗の部屋だ。音もなく階段を上がり、そして部屋に入ると気持ちよさそうに寝息を立てる拓斗の姿が見える。
ひかりはちらりと目覚まし時計を確認した。セットされた目覚ましが鳴るまであと少しだ。
ジリリリリ、ジリリリリ。
「拓ちゃん朝だよ、起きて」
そして目覚ましが鳴ると同時にひかりは手を実体化させて声を掛けながら拓斗の体を揺さぶる。するとすぐに重たい瞼を押し上げた拓斗が目を擦りながら体を起こして騒がしい目覚ましを止めるのだ。
「おはよう、ひかり」
眠たげな気の抜けた顔で笑う拓斗を見て、そこでようやくひかりの一日は始まるのである。
実のところ、別にひかりが起こしに来なくても拓斗は一人で起きる。彼女が来る前までは一人で生活していたのだから当然だ。
だがそれでもひかりは毎朝同じことを繰り返している。拓斗に起こして欲しいと言われた訳でもなく、ただただ彼女が望んでやっていることだ。
拓斗に声を掛けたひかりが次に向かうのは台所だ。朝ごはんの準備の為、手を洗って冷蔵庫を開ける。卵とチーズ、レタス、トマトを取り出して鼻歌を歌いながらゆで卵を作り始めた。
そうしていると着替え終えた拓斗が階段から降りて来て洗濯を始め、ひかりはその音を聞きながら食パン二枚をトースターにセットし朝食の準備を進めていく。ゆで卵を細かく刻んでマヨネーズと和えると、いい焼き色の付いたパンの上に全ての具を乗せて閉じる。包丁で対角線に三角に切ればホットサンドの完成だ。
「ご飯できたよー」
「ありがとな」
洗濯を終えて朝のニュースを見ていた拓斗の元へ朝食を運ぶと、彼はホットサンドを見て「お」と短いが嬉しそうな声を上げた。
「うまそう、いただきます」
「はいどうぞ」
表情を緩ませてパンに被り付く拓斗を隣で見ながらひかりも嬉しくなって微笑んだ。
幸せだ、と彼女はこのところ毎日そう感じている。こうして穏やかな日々を拓斗と一緒に過ごして、自分が作った料理を美味しそうに食べてもらえて……そしてなにより拓斗が、幽霊である自分を好きだと言ってくれている。こんなに幸せでいいのだろうかと思ってしまうのだ。
少し前にひかりは拓斗に好きだと言われた。拓斗に好意を抱いていた彼女は勿論それが嬉しくて堪らなかったが、それでも心の中にあったのは単純な喜びだけではなかった。
漠然とした不安、いつか終わりが来るという恐怖。ひかりが幽霊である限りそれらの恐れはずっと纏わりついて来る。しかし彼女はそれらを見ないように蓋をして、目の前の幸せを享受することにした。その時が来るまで悔いが残らないように幸せに“生きる”のだと、以前先生に言われたのだから。
「そういや、ひかりって誕生日いつだ?」
「え?」
ホットサンドを食べながらテレビを見ていた拓斗が不意にそんなことを言う。ちらりとテレビに視線を向ければ、アナウンサーの一人が今日誕生日らしくスタジオで他の出演者に祝われている所だった。
「十二月十日、だけど」
「あと二か月か。過ぎてなくてよかった」
当日は何かお祝いしような、と口にした拓斗にひかりはしばらく言葉を失っていた。生前、誕生日を祝ってもらった記憶などほぼ存在しない。精々幼い時に同居していた男がまだひかりを邪険に扱っていなかった時期に、ケーキを買って来てもらったのを薄っすらと覚えているくらいだ。
「……」
「ひかり? どうした」
「ううん、なんでもない!」
何も言わなくなったひかりに拓斗が不思議そうに声を掛ける。死んでから生まれて来たことを祝われるなんて変な感じで、だけど何の思惑もなく当然のようにそう言った彼に、ひかりは胸の奥がじわじわと温かくなっていくのを感じた。
「拓ちゃん、ありがとね」
拓斗には色々なものを貰い過ぎている。だからひかりも、彼にもっと何かできることはないだろうかと思考を巡らせた。
“という訳で、西野君どう思う?”
「拓斗のやつ羨まし過ぎるから別に何もしなくていいと思う」
“えー”
カッカッ、とチョークの音が小さく響く空き教室。そこでひかりと充は話をしていた。休み時間に一人になった所を狙って充の肩を叩いたひかりはこの教室へと誘導し、彼に相談事を持ちかけていたのだ。
とはいえ無論ひかりの声は聞こえないので、彼女の言葉は黒板にチョークで書かれている。
「お前ら新婚かよって言いたくなるんだけど……っていうかひかりちゃん朝起こしたりごはんとか作ってるんだろ? 十分あいつに色々してやってるって」
“でもそれはいつもだし、何かもっと特別なことしてあげたいなーって。ほら、私の誕生日終わったらクリスマスもあるし”
「ひかりちゃん気が早くないか」
“今から考えておかないとすぐに準備できる訳じゃないし……”
普通の人間のように当日慌ててプレゼントを購入するなど幽霊の彼女には不可能だ。ひかりがそう言うと充は「何かプレゼントしたいのか?」と首を傾げた。
“うーん、でも私自分のお金持ってないから難しいよね”
「というか前提として、ひかりちゃんってどんなこと出来るんだ?」
“手とか体の一部なら実体化できるからそれを使ったことなら”
記憶が戻った今なら全身が実体化できるかと思ったひかりだったが、実際に試してみると全く無理だったのだ。幽霊歴の長い校長ですら数秒しか持たないと言っていた上、ひかりの場合どうにも記憶を失っていた期間がある為自分の顔をはっきりとイメージするのが難しかった。
「んー、じゃあ何か手作りで小物とか作るとか」
“あ、それいいかも”
充の提案に見えないながらもひかりは大きく頷いた。あまり長時間実体化し続けることは難しいので時間を掛けて少しずつやれば可能だろう。何より料理などの食べると無くなってしまうものとは違い、形の残るものを渡したいという気持ちもある。
「クリスマスっつったらやっぱり手編みのセーターとかマフラーとか! 主に俺が欲しい!」
“私、編み物とかやったことないんだけど大丈夫かなー。それに拓ちゃんがいる物ならいいんだけど……”
「まだ二か月以上あるし大丈夫大丈夫。それにさひかりちゃん、考えてもみろよ。あの拓斗だぞ? セーターやらマフラーやら、いくつあっても足りないくらいに決まってる」
“それは、そうだよね”
ひかりは普段の拓斗の様子を思い描いて思わず遠い目をした。確かにあれだけ頻繁にボロボロになっていれば予備も必要だろう。ものすごい説得力があった。
“うん、決めた。編み物にするよ。練習して、拓ちゃんを驚かせてやるんだから!”
ひかりは意気込むように力強くチョークで黒板にそう書き出した。
“西野君、相談に乗ってくれてありがとう”
「いいって。女の子の為ならこれくらいはな」
いつもと同じようにそう言って充はからっと笑う。そんな彼にひかりは、本当にぶれない人だなと思わず感心してしまう。
“あ、勿論拓ちゃんには内緒にしてね”
「分かってるって」
そう充と約束を交わして意気揚々と別れたひかりは、家に帰ったら早速計画を立てなくては、とわくわくしながら放課後を待った。
……そして拓斗と共に家に帰った彼女は、そこではた、と重大なことに気が付いたのであった。
「あああ、どうしよう……」
リビングの片隅でひかりはこっそりと頭を抱えていた。いざ計画を練ろうとした彼女は、ひとまず作るものをマフラーに定めてどんな色にしようかと考えようとした。が、そこですぐに行き詰ったのだ。
編み物をする為には勿論毛糸と編み針が必要になって来る。そして当たり前だが、この家にそれらはどこにもなかったのである。
購入しようにも拓斗にそれを伝えなければならない。充に頼むという方法もなくはないが、拓斗の財布から勝手にお金を持って行くのは抵抗がある。
そもそもマフラーを編むのにはそこそこお金が掛かるのだ。首に巻くものなのであまり質の悪い毛糸を使う訳にはいかず、必然的に毛糸の値段が上がってしまう。せっかくプレゼントを考えているのに渡す本人――その家のお金を使うというのはどうなんだと考えてしまった。
しかし、まさかひかりがバイトをする訳にもいかない。どこかにいらなくなった毛糸と編み針を譲ってくれる人はいないだろうかと半ば現実逃避していると、ソファで電話をしていた拓斗が何度も聞こえて来る溜息を聞いて訝しげにひかりの方を見た。
『――拓斗君、どうかした?』
「ああいや、ひかりがちょっと」
『そ、そうなの……』
電話の相手は叔母だ、大地が生まれてからこちらへ来るのが難しくなった為、最近は電話を掛けて来ることが増えた。
そして以前彼らの前で憑依してしまったことで、ひかりのことは叔母夫婦に知られてしまっている。が、叔母は心霊現象が少々苦手らしく、拓斗が彼女の話をすると若干戸惑うような様子を見せていた。
「そういえば叔父さんは元気ですか?」
『さっきちょうど帰って来たわよ。あ、こっち来たから代わるわね』
「はい」
「……あ」
そのまま叔父と話し始めたらしい拓斗を見てひかりは、彼に聞こえないくらいの声で小さく呟いた。
拓斗の叔父に相談してみようかとひかりは思った。彼は霊感があり叔母のようにひかりを怖がることもない。ほぼ初対面だが尋ねてみても損はないだろう。
「あの、拓ちゃん」
叔父と話している拓斗の言葉が途切れた隙を狙ってひかりは控えめに彼の服を引っ張った。彼女に気付いた拓斗は電話の向こうに「ちょっとすみません」と一言声を掛けてからひかりのいる辺りに視線を向ける。
「どうした?」
「ちょっと、拓ちゃんの叔父さんに話したいことがあるんだけど……」
「何か聞きたいことでもあるのか? 叔父さんになら霊感のこととか?」
「うーん……まあ、ちょっと」
「いいけど……それ、俺が通訳して大丈夫か?」
「あ」
少々言いにくそうに言葉を濁すひかりに拓斗は自分が聞いていい話なのかと疑問を抱いて尋ねる。そしてそれを聞いたひかりは今更叔父と直接話せないという事実を思い出したのだ。何せ彼は霊感があり、なおかつ憑依している時に話しているのでうっかり思い違いをしてしまっていた。
「直接話したいならメールにするか? 携帯なら貸すし」
「いいの?」
「叔父さんに聞いてみる」
そう言って再び電話に戻った拓斗の前でひかりが大人しく座って待っていると、少しして「じゃあお願いします」と最後に言って電話は切られた。
「いいってさ。ほら、叔父さんのアドレスこれだから。使い方は分かるか?」
「うん、多分。拓ちゃんありがとう」
「俺部屋行ってるから、終わったら持って来てくれ」
ひかりの邪魔にならないようにと思ったのか、そう言って立ち上がった拓斗は宙に浮いた手に携帯を渡すとそのままリビングを出て行った。
その背中を見送ると、ひかりは早速携帯に向き合って何と送ろうかと考え始めた。
「突然すみません。柳ひかりと申します……と」
実のところひかりは生前携帯を持っていなかったので実際に操作するのはこれが初めてだ。だが拓斗や、学校で他の生徒が触っているのをよく見ていたのでメールを作成するくらいは何とかなりそうだった。
慣れない手つきで画面に触れながら事情を説明して送信する。叔母さんが編み物でもやっていたら毛糸の余りとかあったりしないだろうかと淡い期待を寄せながら待っていると、三分ほど経ってから携帯がメール受信の短い音を鳴らした。
『事情は分かった。美代に毛糸を持ってないか聞いたがマフラーを編める程はないらしい。針も自分が使う分しか持ってないと言っていた』
「……駄目かあ」
受信したメールを見てひかりは少々落胆した。叔母が編み物をやっているらしいのは分かったが、譲ってもらえるなどそんな都合の良いことはなかった。
プレゼントを変更するべきだろうとひかりが考えていると、しかしすぐにまた携帯が同じ音を鳴らす。どうやらまた叔父からのようだ。
『君には拓斗君が世話になっているから、別に毛糸くらい買っても構わない』
「いや、でもそれは流石に……」
ひかりの我が儘の為に他人にお金を掛けさせる――おまけにそんなに安くない――のはちょっと躊躇いがある。そう思いながら呟いたひかりだったが、まだその先に文章が続いているのに気付いて画面に触れた。
『だが、先ほどのメールで書いてあった通り君が金銭面を気にするのであれば、ひとつ提案がある』
「……え?」
スクロールさせた画面の一番下。そこに表示された文字列を見たひかりは、予想外の内容に目を瞬かせて驚いた。
『少しだけの間、俺に雇われてみないか?』




