31 「――たすけて、ください」
「いやっ!」
青白い手を跳ね除けるようにして、ひかりは全速力で逃げ出した。
「まって」
走るひかりの背後から小さな声が追いかけて来る。しかしひかりは振り返ることも出来ず、ただただ取り込まれぬように彼女から離れるしかなかった。
怨念に呑まれた彼女は以前ひかりを取り込もうとして、プールで拓斗達を引きずり込もうとした怨霊だ。そして何より、校長が助けられなかったと嘆いたその人だった。
「ま、って」
突然ひかりの耳元で、ぞくりとするような少女の声が囁いた。
「っひ」
つい反射的に振り返ったひかりは、すぐ目の前に迫る怨霊の少女の顔を見て悲鳴を上げそうになった。ぎょろりとした目が、ひかりを捉えていたのだ。
「わたしと、いっしょに」
「やっ!」
掴まれそうになった肩を必死に振りほどくと、怨霊の少女は軽く吹き飛ばされて廊下に転がった。ひかりは少々罪悪感を抱いたものの、僅かな逡巡の後再び逃げ出した。校長のいるはずの、あの裏庭まで。
「はあっはあ……」
息切れなどするはずもないのに、背後に迫る少女が恐ろしくて気力が削られていく。何とか裏庭が見えて来たその時、ひかりはがくんと態勢を崩して思い切り転んだ。――片足にひやりとした感覚がした。
「いっしょにいれば、こわくないよ」
「っ」
ずるずると、彼女の足を引き摺る少女が優しい声でそう言った。その言葉にひかりは一瞬抵抗を忘れそうになる。
確かにひかりは怖かった。このまま幽霊でいることが、いつかまた一人になってしまうことが。彼女に取り込まれてしまえばきっとこんな風に思い悩むことなどないのかもしれないと、ほんの少しでも心が揺れた。
だが、それも一瞬だった。
「千恵、さん。私は一緒に行けない!」
校長がひかりに伝えた彼女の名前。それを呼ぶと、怨霊の少女の手から力が抜けた。そしてその隙に、ひかりは立ち上がって距離を取る。
「私はまだ、拓ちゃんと一緒にいたい!」
「ひかり!」
「え、」
ひかりが叫んだ瞬間、校舎側から拓斗が走って来るではないか。ひかりが驚きに固まっているうちに、拓斗に「手を!」と焦ったように声を掛けられて慌てて実体化させる。
その手を掴んだ拓斗は、怨霊の少女から離れるように走り、そして彼女を庇うように引っ張り、自分の背中に隠すようにした。
「拓ちゃんなんで……」
「ひかりを探して裏庭に来たら声が聞こえて、それであの黒い塊がお前に近付いてて……」
「え、見えて」
普通の人間である拓斗ですら、あの黒い靄が見えている。それほど強い怨念だということだ。
「拓ちゃん、先生の所に!」
「ああ、分かっ――うわあっ!」
「拓ちゃん!」
共に裏庭へと踵を返した直後、拓斗の腕に黒い靄と共に青白い手が絡みついた。
「放せ!」
「あなたもいっしょに……そうしたら、ずっといっしょ」
「あ――」
拓斗の腕を掴む千恵に、ひかりは彼女の意図を理解してしまった。拓斗と一緒に居たいと願ったひかりの為に、彼まで一緒に連れて行こうとしているのだと。
「だ、駄目!」
「ひかり来るな!」
片腕が黒い靄に包まれる。ひかりが拓斗を助けようと彼の腕にしがみついて引き剥がそうとするが、彼女も一緒にどんどんと引っ張られていく。
「誰か――校長先生っ!」
肩まで引きずり込まれた拓斗に思わずひかりが悲鳴を上げるように叫ぶ。
直後、僅かに黒い靄が薄くなったような気がした。
「こうちょう、せんせい」
ひかりの言葉を反芻するように少女がぽつりと呟く。そしてぎょろりとひかり達を見ていたその目が彼らから離れたかと思うと、その目はひかり達の背後へと向けられた。
ぐい、と拓斗が強い力で後ろに引かれ少女と引き離されたのはその時だった。
「八坂君、もう止めるんだ!」
彼女――千恵の目の前に立ちはだかったのは、半透明の老人――校長だった。
生前校長と呼ばれていたその老人にとって、八坂千恵は自分の罪の象徴だった。
「……せん、せい」
黒く靄が掛かった教え子。自分が救えなかった少女。その彼女の哀れな末路を目の前に、校長はどうしようもない後悔を重ねていた。手遅れだったとして、それでももっと早く彼女に手を差し伸べるべきだったと。
八坂千恵は大人しい少女だった。整った美しい容貌をしていたが、人と話すよりも本を読んでいる方が好きな娘で、勉強熱心な生徒だった。教師の間でも成績優秀で真面目だと好かれていた。
彼が千恵に目を留めたのは、彼女が図書室に入り浸っていたからだった。同じくよく図書室を訪れていた校長は読書という共通の話題でしばしば会話を重ね、他の生徒よりも彼女のことは多く知っていた。
だが彼は図書室にいる千恵のことしか知らなかった。この部屋の外で彼女がどんな風に生きていたかなど、全く知る由もなかったのだ。
千恵はいじめを受けていた。クラスメイトとの関係が上手く行かず、更にその容姿から異性には人気があったのが余計に同性との関係を悪化させてしまっていた。
彼がそのことを知ったのは――千恵が同級生に呼び出され、そして突き飛ばされた衝撃で階段から落ちて亡くなってからだった。
「八坂君が……」
それ以上言葉にならなかった。あれだけ話をしていたというのに、彼女は決して校長にいじめの話をしなかった。彼女が苦しんでいたことに気付いてやれなかったことが悔しくて、そして相談してもらえなかった、それだけ心を許されていなかったという事実に打ちのめされた。
当時は今ほどいじめに対して世間の関心も薄く、彼女の死も事故で処理された為校長や他の教師に責任が問われることはなかった。が、それでも校長の心の中には死ぬその瞬間までずっと彼女に対しての後悔が残り続けていた。
その後悔が死後、更に強くなることになるとは思いもしなかった。
生徒を死なせてしまった後悔を残して死んだ彼は、死後幽霊となった。そして己の働いていた学校に居ついた彼は、すぐに“それ”を見つけることになったのだ。
黒く靄がかかるほどの深い怨念に取り憑かれた彼女を。
彼女が死んでから校長が死ぬまでの間、ずっと幽霊として一人彷徨っていた彼女の心は壊れてしまっていた。寂しいと、そう言って他の幽霊を取り込み、そして一緒になった彼らの悲しみや苦しみが合わさって怨霊と化した。
彼が見つけた時には、もう千恵は手に負えない状態だったのだ。
「私は、二度も君を救えなかった」
「……」
後悔の念を吐き出しても、彼女は静かに校長を見据えていた。既に自我など無くなってしまったかのように。
もう千恵を助けられない。そう思ってしまった彼はせめてこれ以上怨霊として大きくならぬようにと彼女から他の幽霊を守るようになった。それ以上のことなど自分には出来ないと、ずっと諦めていた。
だが今しがた校長を見て「先生」と呼んだ彼女には、まだ微かに心が残されていた。ひかりや拓斗を取り込もうとしたのだって、寂しいのなら一緒に居ればいいと、そう彼女なりに彼らを救おうとした結果だった。
「だからせめて――最後くらい、一緒に行こう。それが私が君に出来る全てだ」
「先生……」
ひかりの困惑した声が聞こえる。しかし彼は振り返らずに千恵に向かって手を伸ばした。ずっと差し伸べることが出来なかった手を、今にも黒い靄で覆いつくされようとしている彼女に。
「八坂君」
「せん、せ……わたし」
黒い靄の中から、ゆっくりと青白い手が伸ばされた。
「ずっと、さびしかった……ひとりで、こわかった。――たすけて、ください」
「ああ、遅くなって済まなかった。もう一人になんてしない。ずっと一緒だ」
「いっしょ……」
互いに伸ばされた手と手が触れ合う。その瞬間、まるで雲間から光が差し込むように黒い靄が薄れていき、そして彼女――千恵の姿が鮮明になっていく。
「あ……」
禍々しい黒い靄がなくなるのは、拓斗の目にも映っていた。そして更に、彼の視界に徐々に老人の背中がぼんやりと現れたのだ。
残っていた僅かな命の火を燃え上がらせるように、校長は全身を実体化させた。
「真城君」
低く落ち着いた老人の声。初めて聞いたというのに、拓斗はそれが校長の声だとすぐに分かった。
「私は彼女と共にいく。だから後を――ひかりさんを頼む」
「先生……」
「私の最後の教え子だ。どうか、ひかりさんが一人にならないように……寂しさで壊れてしまわないように、君に頼む」
彼が最後に実体化したのは、直接拓斗に伝えたかったからだ。幽霊となって最初で最後の生徒が、この先一人で不安にならぬようにと。
拓斗は彼の言葉に握っていたひかりの手に力を込め、そして大きく頷いた。
「はい! 約束します」
「ありがとう、安心したよ。――さよなら、だ」
「先生!」
「ひかりさん、真城君と仲良くするんだよ。……待たせた。さあ、いこうか」
「……せん、せ」
靄が晴れ、覆っていた髪の合間から千恵の表情が見える。触れた手が握りしめられ、そして彼女は目を細めて安らいだ笑みを浮かべていた。
「――ありが、とう」
夕焼けの赤に溶けるように、その二人の姿はこの世から消え去った。
「……なあ、ひかり」
とぼとぼと、一歩一歩踏みしめるようにして歩く帰り道。夜も近い逢魔が時に、拓斗はそう声を掛けて繋がれた手の先を――そこにいるひかりを振り返った。
「あの人も、校長も……救われたんだよな」
「……うん、そうだと思う。そうだといいな」
ひかりから千恵の話を聞いた拓斗は、少し俯いて彼らが消える瞬間を思い出した。霊感のない拓斗ですら視認出来るほどの怨念が晴れて、そして拓斗にひかりを託して居なくなった。
「前も言ったけど」
「?」
「俺はずっとひかりと一緒にいるから。この先何があっても一人にはしない」
「拓ちゃん……」
「だから、ひかりが俺に愛想尽かすまでは一緒にいてくれ」
「っそんなことある訳ないでしょ!」
「そうか? 俺が勉強もせずにだらけてたりとか、夜更かしして寝坊ばっかりしても?」
「私が勉強させるし朝だって起こすから問題ないよ!」
「ひかりは頼りになるなあ。じゃあずっと一緒にいられるな」
少しおどけたように笑った拓斗に、大声を出していたひかりは虚を突かれたように目を瞠る。そして、ややあってくしゃりと笑った。
「うん……ずっと、一緒に」