30 「……怖いよ」
美術部は基本的に個人個人での作業が大半だ。しかし今は差し迫る中学校の文化祭の為の準備で複数の部員で看板などの製作に勤しんでいた。
しかしながら文化祭と言っても高校のようにクラス単位で出し物をする訳ではなく、吹奏楽部の演奏であったり、体育の創作ダンスの代表チームが演技したりするのを体育館で見るだけだ。時間にして半日ほどでしかない。
だからこそ美術部もさして準備は多くなく、部員の気質もあって皆話しながらのんびりと作業を行っている。そして文化祭についての話題が途切れると、一人の女子部員が思い出したかのようにその話題を出した。
「ねえ、そういえば職場体験って皆どこ行くか決まった?」
「うん、うちは朝教えてもらったよ」
「私も! 第一希望じゃなかったけど……」
そんな風にわいわいと話が盛り上がる中、拓斗は筆で色を塗りながら話を聞き小さく溜息を吐いた。
「真城君、どうしたの?」
「いや、ちょっと」
少し落ち込んだ様子の拓斗に声を掛けたのは隣で作業していた和香子だ。彼女は拓斗を窺うように見た後、「第一希望が通らなかったとか?」と首を傾げた。
「そんなところだ。瀬田は職場体験どこに行くんだ?」
「私は保育園だよ」
「保育士になりたいのか?」
「はっきり決めてる訳じゃないけど、子供可愛くて好きだからね」
「ああ、そうだよな。俺もこの前従兄弟が生まれて見に行ったんだけどやっぱり可愛かった」
拓斗は従兄弟の大地を思い出して少し表情を明るくする。あの日は色々あったのであんまり構うことは出来なかったのがやや残念ではあるが、大地は非常に可愛かった。
拓斗が微笑んでいると、和香子はついそれに見とれて色を塗る線をはみ出してしまった。
「あ、どうしよう」
「乾いてから直すか」
「手間増やしてごめん。……ところで結局、真城君は職場体験どこに行くことになったの?」
「……どこにも行かない」
「え?」
「此処。先生の職場体験だってさ」
「教師になりたかったの? あ、でも第一希望通ってなかったって」
「第一どころか第三すら通ってない」
「そんなに人気の所ばっかり申し込んでたの?」
首を傾げる和香子に拓斗は苦笑しながら否定した。そうして頭に過ぎるのは先ほど部活に行く直前に担任に呼び止められた時のことだ。
「真城、職場体験のことだが」
「はい」
「他の先生達とも話し合ったんだが……お前は学校に残って教師の職場体験をしてもらうことになった」
「……え?」
「真城がよそ様の所へ実習に行くとなると……その、何が起こるか分からないだろ?」
困惑する拓斗に告げた担任の言い分はこうだ。彼の不幸体質によって、実習中に万一のことが起きたら大問題になる。例えば怪我をしたり、そしてその事故に実習先の人間を巻き込んだり。ただでさえ実習先を確保するのに苦労している中で先方に迷惑を掛ければ来年から断られるかもしれないと、そういうことだ。
「職員会議でほぼ満場一致で決まった。……樋口先生だけは最後まで反対していたが」
「え、樋口先生?」
「真城だけ特別扱いする訳にはいかないと、他の生徒と同じようにきちんと実習をさせるべきだと言っていたが……流石に、何か起こってからではまずいからな」
普段からよく樋口にいびられている拓斗はあまり彼のことが好きではない。が、少しだけ印象が変わった。もっとも、樋口が単純に拓斗の不幸体質を信じていないというだけではあると思うが。
「そういう訳だから真城、お前は樋口先生に着いて職場体験をしてもらうことになった」
だからと言って苦手なのは変わりないので他の先生にして欲しかったとは流石に言えなかった。
「そうなんだ……残念だったね」
「まあ確かに、先生が言いたいことも分かるけどな」
自分の体質は拓斗が一番よく分かっている。だからこそ仕方ないと割り切るしかないのである。
「ちなみに第一希望は何だったの?」
「病院だ」
「え、病院って、医者?」
相当予想外だったのかぽかんと目を瞬かせた和香子は、「真城君が、医者……」としばらく驚いたように呟いていた。拓斗はどちらかというまでもなく治療される側であるので余計に違和感があった。
「いや、別にまだ将来なりたいとまでは思ってないからな?」
「じゃあどうして?」
「うちの両親が二人とも医者で、ずっと海外で働いてるから気になってさ」
「二人とも海外で、ってことは真城君お父さん達と暮らしてないの? もしかして家でいつも一人なの?」
「ああ、いや……去年一年はそうだったけど、今年からはひかりがずっと一緒だったから」
「……そっ、か」
ずっと一人だった去年と比べて今の生活に拓斗が喜びを抱いていると、和香子は何か言いたげに口を開き、「……そういえば絵里香は市役所に行くんだって」と話題を変えて話し始めた。
その表情が密かに陰っていたのを、拓斗は見逃していた。
粗方作業も終わり、ばらばらと部員が帰って行く中、拓斗と和香子は先ほどはみ出てしまった色を上から塗り直して修正していた。乾くのを待っていた為、拓斗達が片付けを終えると美術室に残っているのは二人だけになっていた。
「ごめんね真城君、付き合わせて」
「いや、どのみちひかりが帰って来るまでここにいるつもりだったからさ」
「……ひかりちゃんって、今いないの?」
「多分」
確実に言えないのはひかりが黙って傍にいても分からないからだ。叔父のように拓斗にも幽霊の気配が感じられればよかったのだが、他の人間が声も聞けない現状それを望むのは贅沢なことだろう。
「じゃあ、私帰るから」
「ああ、またな」
「……」
鞄を持って立ち上がった和香子にひらひらと手を振ると、彼女は軽くそれに手を振り返し廊下へ歩き出す。――が、教室を出る直前で不意にその足は止まった。
「真城君」
「何だ?」
「……好き」
え、と聞き返そうとした拓斗は和香子を見て、彼女があまりにも真剣な表情を浮かべていることに気付いて声が出なくなった。
「真城君が、好きなの……!」
改めて、はっきりと告げられる。聞き間違いなんかではないし、勿論友達としてということでもないことは拓斗でも流石に分かった。
だがあまりにも唐突な告白に拓斗は完全に思考を奪われていた。
「一年の時から、ずっと好きだった。ほっとけなくて、ずっと真城君のことばかり気になってた」
「瀬田……」
俯いた彼女の髪が顔に掛かり、その表情は窺えない。和香子も拓斗も黙り込んでしまうと、遠い運動場からの喧噪が聞こえるほど美術室は静まり返った。
「……」
拓斗はゆっくりと思考を動かし始める。そして目の前の彼女に好きだと言われたことを改めて理解した。
正直な所、信じられなかった。拓斗は今まで誰かに告白されたことなどなければ、そもそも自分のことを好かれる人間だとも欠片も思っていなかったからだ。こんな不幸ばかり呼び寄せる拓斗を好きになる人などいるはずもないと、もっと言えば今親しくしてくれている人間もそのうち離れていくだろうと諦観を抱いていた。そんな夢も、何度も見ている。
「瀬田、あのさ……」
だから彼女が言った言葉は拓斗にとって想像もできなかったことで、和香子に好かれていたという事実は素直に嬉しかった。
「ごめん」
「……」
だが拓斗は和香子にそう告げていた。はっと顔を上げて言葉を失った彼女に拓斗は大きく頭を下げる。
「俺なんかのこと好きなんて言ってくれて、本当に嬉しい。だけど、ごめん」
和香子のことは勿論嫌いではない。人当たりもよく、拓斗の不幸体質も気遣ってくれる優しくて可愛い女の子。拓斗だって和香子が好きだ。――だけどそれは、彼女が抱く感情とは違う。
彼女が拓斗に向ける感情を拓斗が向ける先は、別の存在なのだ。
「俺、ひかりが好きなんだ。……一人の、女の子として」
「……うん。そう言うと思ってた」
「え?」
「だって真城君、最近ひかりちゃんのことばかり話すから」
「……そう、だったか?」
「うん」
和香子が小さく笑った。眉を下げて少し無理をしたように微笑んだ彼女は拓斗に見えないように手を後ろに回し、震える手を強く握りしめた。
「……分かってたけど、どうしても伝えたかった。ごめんね真城君、急にこんなこと言って」
「いや、俺の方こそ、本当にごめん」
「謝ることじゃないよ。……できれば、これからも今まで通り仲良くしてくれると嬉しいな」
「そんなの当たり前だ!」
「……うん、ありがとう」
それじゃあ、またね。とやや感情を押し込めたような声で言った和香子は、そのまま拓斗に表情を見せないように背中を向けて今度こそ美術室を出て行った。早足で去って行く彼女の目に涙が浮かんでいたことは、拓斗は知らなかったし和香子も知られたくなかった。
「……」
ひかりはふわふわと力なく漂いながら、今しがた聞いた言葉を頭の中で何度も何度も反芻させていた。
和香子が、拓斗に告白していた。
そろそろ部活も終わるだろうと美術室に向かったひかりは、そこで和香子と二人きりで対面する拓斗を見つけてすぐにその場から飛び出した。好きだと、和香子のその言葉だけを耳にして。
それ以上その場に留まらなかったのは、拓斗の返答を聞くのが怖かったからだ。頷くのか、断るのか。どちらだってありえるとひかりは思っている。
「拓ちゃんに恋人が出来たら……」
ひかりは一人、校舎の隅で唇を噛みしめた。そんなの嫌だ、と心が痛いほど言っている。
拓斗が和香子と付き合うことになったら、彼はひかりのことを二の次にするだろうか。……いいや、拓斗ならそんなことはしないだろうとはひかりだって思う。
だが、その先はどうだろうか。拓斗がこの先誰かと付き合い、結婚して、そして子供が出来て家族が作られたら。そこにひかりの居場所などあるというのか。
「……怖いよ」
拓斗がこの先成長して大人になろうが、幽霊のひかりはずっとこのままだ。校長のように未練を消化できずにずっと何十年も幽霊のままだったとしたら、ひかりは狂わずにいられるだろうか。
いつか終わりが来る日が怖い。だが同じように終わりが来ないのも、恐ろしくて堪らない。
「こわいの?」
心の隙間に忍び寄るように、優しく静かに問いかける声が聞こえたのはそんな時だった。
「――え?」
「こわいなら、いっしょになろう?」
咄嗟に振り返ったひかりが目にしたのは、禍々しい黒い靄と、彼女に伸ばされた白い手だった。




