3 「よかったな、ひかり」
「つまらなかったー」とひかりの声が拓斗の頭の上辺りから聞こえて来る。授業中ずっと拓斗の後ろにいるだけで退屈で仕方が無かったようだ。彼に気を遣ってかずっと黙っていたひかりは放課後になってようやく解放されたとばかりに一気にしゃべりはじめた。
「授業も知ってることばっかりだったし」
「ということはやっぱり年上なのかもな。というか別にどこか別の所見に行っててもいいんだぞ?」
「明日からそうする。もう帰るの?」
「いや、部活だ」
「何部?」
「美術部」
「……美術部!?」
「うおっ!」
突然耳元で大きな声を出されて拓斗は声を上げてしまった。すれ違いざまに他の生徒から可笑しな目で見られるのを感じ、彼はそれを振り切るように早足になる。
「何でそんなに驚くんだよ」
「だって美術部って、拓ちゃん絵描くの上手いの?」
「……まあド下手ではないと思う」
絵を描くのは好きだが、部員の中には到底拓斗では太刀打ちできないほど上手い人もいるのだ。だが彼も自分の描くものが全く駄目だとも思っていない。
「それに俺、運動部はちょっと駄目だし」
駄目、というのはいくつかの理由がある。一つは単純に拓斗の運動神経があまり良くないこと、そして二つ目は家事をしなくてはいけないので毎日遅くまで練習がある部活は難しいこと。
そして三つ目……これが一番問題なのだが、拓斗が運動部に所属するのは危険極まりないからである。怪我の頻度が著しく上昇するであろうし、ましてやそれにチームメイトを巻き込んだら目も当てられない。必然的に文化部かつ活動が週三回と少ない美術部を選んだのだ。
美術室に辿り着き扉を開けると、そこには数人の部員が各々好きに絵を描いている。コンクールや行事関連の制作などが無ければ基本的に自由に描いていいのがこの部活の楽な所だ。
「真城」
隣の準備室に置いてある画材などが入った鞄を手に取って拓斗が美術室を出て行こうとすると、その直前この美術の部長で、同じ二年の園田絵里香がつかつかと彼の元へとやって来た。
「部長」
「外に行くの?」
「そうだけど」
「最近風が強いから荷物を飛ばされないようにね。それから中庭の池には絶対に近付かないこと、あんたは危ないんだから。あと最近素行の悪い生徒がいるらしくて煙草の吸殻が見つかったりしてるらしいからやばそうな生徒には関わったら駄目。それからあんまり長居して風邪なんて引いたら――」
くどくどとしゃべり続ける彼女にひかりが「ええ……?」と困惑した声を上げる。拓斗は慣れているのでいつものことだが、初めて絵里香と対面した彼女はその勢いに大層驚いた。
園田絵里香は少しきつめの顔に眼鏡を掛けた美人だ。ストレートの黒髪を背中に流し、凛とした雰囲気の彼女は一見とっつきにくいが、その実世話焼きな性格だ。特に一年間拓斗の不運を見て来た所為で、彼に対しては余計に過保護になっている。
「真城、聞いてる?」
「はい、おか……部長」
拓斗の母親と真逆な性格、それも同い年だというのに思わずお母さんと言ってしまいそうになる。というよりもこの部長の影のあだ名が「お母さん」なのである。
絵里香の話が終わってようやく美術室から廊下に出ると「ふあー」とひかりが疲れたような声を出した。
「あの部長さんすごいね」
「色んな意味でな。絵もうちの部の中じゃダントツに上手いし、そのおかげで二年なのに部長だしな」
「へー見てみたいなあ。ところで拓ちゃん、どこ行くの?」
「行ってみれば分かる」
拓斗はひかりを連れて廊下を歩き、そして靴を履き替えて外に出る。時折話しかけて来る声にひかりがいるのを確認しながら足を進めると、拓斗達は校舎をぐるりと回り込んで裏庭まで来ていた。
「うわあ……!」
裏庭に入るや否やひかりが感嘆の声を上げる。拓斗達の目の前には、今朝見たものとは違う、まだ咲き誇っている桜の木があったのだ。
「すごい、こっちはまだ咲いてるんだ」
「ちょっと散りかけてるけど、まだまだ見頃だろ?」
「うん! 拓ちゃんありがとう!」
今朝充が来る直前に言いかけたのはこのことだったのかと、ひかりは人知れず満面の笑みで桜に近付いた。幽霊だから少々体を浮かせることぐらいは出来る。彼女はふわりと上昇して間近で桜の花を眺めた。
「さて、描くか」
ひかりが桜に夢中になっている間に、拓斗は校舎の壁に寄りかかるようにして座るとスケッチブックを取り出して桜の木を見上げる。そして鉛筆を選ぶと真剣な表情で手元を動かし始めた。
「桜描くの?」
「ああ。今描かないともう散るし」
拓斗が描くものは風景画が大部分を占める。人物画も時々描くが、こうした自然や空を無心で描いていく瞬間が気に入っていた。
しばらくの間、ひかりも拓斗も無言で桜に集中していた。遠くから微かに聞こえて来る運動部の喧噪と鉛筆の音だけが静寂の中で微かなBGMになっていて心地が良い。
「描けた」
「え、もう?」
ひかりが枝に腰掛けるようにして桜を愛でていると、不意に鉛筆の音が止まった。彼女は体を浮かせて拓斗の元へと向かい、そして彼の手元のスケッチブックを上から覗き込んだ。
「うわー、拓ちゃんってすごく絵上手なんだね」
「っわ! いつの間に……びっくりした」
「うーん、やっぱり姿見えないのって不便だよね。拓ちゃんに描いてもらえないし」
そっと桜の絵を半透明の指でなぞる。ひかりが居た場所は、当然のことながら桜の花しか描かれていない。
「ひかり、そろそろ部室に戻るけどまだここに居るか?」
「ううん、もう十分楽しんだから! 連れて来てくれてありがとね、私桜大好きだったから嬉しかった」
「……大好きだったって、好きな物思い出したのか」
「あ」
「よかったな、ひかり」
何気なく口にした言葉は、拓斗に指摘されるまで気が付かなかった。そうだと、確かに桜が好きだったと自然に思い出したのだ。
よかったな、と柔らかく笑う拓斗に、ひかりはじわじわと心が温かくなるのを感じた。
「うん……ありがとう」
「うわ、せっかく花見しよーと思ったのに誰かいるじゃねーか」
ざ、と草を踏みしめる音と共に、不愉快全開な声が聞こえて来たのは次の瞬間だった。
「え?」
「あ、こいつ二年の真城ってやつじゃね?」
拓斗とひかりが振り返ると、そこには恐らく三年生であろう四人の男子生徒……見るからに関わりたくない雰囲気の男達が拓斗を見下ろしていた。しかもそのうちの一人は口に煙草をくわえている。拓斗はすぐに、部長が言っていた生徒が彼らだと理解した。
「真城? 誰だよそれ」
「不幸の申し子って噂の、とにかく悪いことばっかり起こるやつだってさ」
「うわ、カワイソー。近づくと不幸が移るかもな」
「な、なによこいつら!」
「……」
ゲラゲラと嫌な笑みを浮かべる四人に拓斗は無言で立ち上がった。こういった揶揄いには慣れている。拓斗が不幸体質なことは事実であるし、何を言っても無駄だととっくの昔に悟っているのだ。
しかし、男達から背を向けた所で拓斗の肩に大きな手が掛かり、力が籠められた。
「まあ待てって、先輩無視するとか礼儀がなってねえなあ」
「……何ですか」
「ちょっと金貸してくれねえ?」
「お、それいいな。俺も俺も」
「安心しろよ、気が向いたら返すぜ」
「なんで、そんなこと俺が」
「たまたま今金が無くて、そんでお前が運悪く目の前に居ただけだが?」
「まあ不幸少年だから仕方ねえよなあ。どーせひとつぐらい不幸が増えた所で変わんねえだろ」
「何よあんた達! 拓ちゃん早く逃げようよ!」
あまりにも好き勝手言う男達に拓斗も内心苛立つ。が、ひかりの声で若干冷静さを取り戻した彼は、逃げる隙を伺うように運動場への道をちらりと一瞥した。
「それで、返事は」
「嫌です」
そう言い切った瞬間拓斗は目の前の男を振り切って逃げ出す。
「おっと、逃がすか」
しかし元より足は速くなく、更に悪いことに傍にあった木の根につま先を引っ掛けてしまった拓斗はすぐに追いつかれてしまった。
腕を掴まれて振り返った瞬間、拓斗の頬を硬い拳が襲う。
「拓ちゃん!」
「あーあー可哀想に。逃げなきゃこんな目に遭わなかったのになあ」
殴られた衝撃で拓斗が倒れ込み、彼の鞄が転がる。急いで逃げようとした所為で口が開いたままだった鞄から荷物が飛び出し、しまったばかりのスケッチブックが煙草の男の足元に落ちる。
「あ? ……へえ、上手いもんだ。灰皿にちょうどいい」
スケッチブックを拾い上げた男は、開かれていたページを眺めてにやにやと笑ったかと思うと、口にあった煙草を手に取ってそれを桜描かれた絵に押し付けた。
「な、」
燃えはしなかったものの焦げ跡と灰だらけになった絵を見せられて拓斗は絶句する。
「これ以上断るっつーなら、お前が煙草吸ってるって噂、学校に流してやろうか。これを証拠にして」
「うわ、お前すげえ悪い顔!」
「うけるー! ま、これもお前の不幸が呼び寄せたってことで、諦め――」
下品な笑みを浮かべていた男の額に、硬い金属のペンケースが直撃したのはその時だった。
「痛って! ……は?」
「なんだ、これ!?」
強かに額を打った男が痛みに顔を歪めていると、不意に何故か目の前に鉛筆が浮いていた。いや鉛筆だけではない。教科書、ノート、ペン、筆、絵の具、その他拓斗の鞄に入っていたものや鞄その物が空中に散乱しているのだ。まるで、男達を取り囲むかのように。
「……拓ちゃんに」
「ひかり?」
「拓ちゃんに、その絵に触るなぁっ!」
拓斗の耳に入って来たのは、鬼気迫るほどの怒気を纏ったひかりの大声だった。
その声を合図として、いきなり何かが弾けるような音が響いたかと思うと、宙に浮いていたもの達が一斉に四人に襲い掛かった。
「うわっ!」
「可笑しいだろ!? 何なんだ一体!」
次々と自分達を襲う飛来物に男達は大いに混乱する。避けようとしてもすぐに別の角度から他のものが襲い掛かって来るのだ。悪ぶっているがまだ中学生だ、重力を無視した異常現象に四人は恐れおののき、尻餅を付いて「ひい」と弱弱しい声を上げた。
一方、目の前で暴れる自分の荷物を見て、拓斗は唖然として小さく呟いていた。
「ポルタ―、ガイスト……」
「おい、これやばいって!」
「逃げろ! 疫病神と関わるとやべえ!」
口々に焦りながらそう言った男達が脱兎のごとく走り出す。よろよろになりながらも必死の形相で裏庭から彼らが居なくなると、今までさんざん暴れまわっていたもの達が途端にぴたりと宙に停止した。
「ひかり……」
また、助けられた。
「っ拓ちゃん大丈夫!?」
「ああ、平気だ。ひかりのおかげで」
「……よかったあ」
心底安堵したような声が聞こえて来る。それと同時に浮いていた荷物が力を失ったように重力に従い地面に落ち――。
「あだっ!」
「拓ちゃん!?」
分厚い資料集の角が拓斗の脳天を直撃したのだった。