27 「あの子を、救いたいんだ」
拓斗達から離れたひかりは彼に言った通り裏庭――いつも初代校長がいるその場所へ向かった。夏休み前以来に向かった裏庭では、桜の木の傍でふわりと体を漂わせている校長がどこか遠い目をしていた。
「先生!」
「ひかりさん、久しぶりだね」
校長はひかりに気付くとはっとしたように彼女の方を向き、そして優しげに目を細めた。
「先生……私、思い出したんです。自分が生きてる時のことや、私がどこの誰で、どうやって死んだのか、全部」
「……ああ。他の生徒が話しているのを聞いたし、職員室のテレビで報道されているのも見たよ。やはりあれは、君だったんだね」
「はい……」
「同じ教師として君に謝罪する。学校側がもっと早くひかりさんの状況に気付いていれば……いや、対処していれば君は今、ここに居なかったかもしれない。謝っても到底許されることじゃないのは分かっているが、それでも……すまない」
顔を歪めた校長がひかりに向かって大きく頭を下げると、それを見た彼女は慌てて首を振って顔を上げるように言った。
「止めてください先生! 先生が謝ることじゃないですし……それに、もういいんです。だって、私が幽霊になったからこそ会えた人達がいるんですから」
ひかりは以前、校長に記憶が戻ったらどうするのかと尋ねられたことがあった。その時は家族に会いに行くと言ったが、実際に記憶が戻り彼女の唯一の家族に殺されていた事実が分かった今、ひかりは母親を恨んではいなかったが拓斗の傍を離れて会いに行こうという気もなかった。
「先生、私幸せです」
「ひかりさん……?」
「拓ちゃんと一緒に暮らして、たくさん話したり料理を作ったり、つまらないことで笑ったりして……生きている間よりも今の方がずっと幸せなんです。でも」
ひかりは言葉を切って俯く。小さく微笑んでいた表情を消し、そして顔を見られないように俯いた。
「こんなに幸せなはずなのに、これ以上なんて言っちゃいけないのに……苦しいんです。拓ちゃんが他の女の子と一緒にいるのを見たくないし、私のことは見えないのに他の子を見てる拓ちゃんに嫌な気持ちになる」
「ひかりさん、それは」
「私、拓ちゃんに恋しちゃったんです。……幽霊なのに」
結ばれる余地もない、死者だというのに。
校長はひかりを気遣うような表情を浮かべながらも何も言わない。言う言葉もないのかもしれない。
和香子と話している拓斗をあれ以上見たくなかった。せっかく拓斗がひかりのことを思って紹介してくれたのに、彼女と親しくなれる自信がひかりにはない。それは勿論、彼女が拓斗のことを好きだからだ。
和香子自身について嫌いな所がある訳ではない。例えば彼女が拓斗に対して恋愛感情を抱いていなかったら、ひかりはあの場で筆談でも拓斗を介した通訳でも、和香子と話を続けていただろう。そして仮に絵里香が拓斗を好きだった場合、同じく今回のようなドロドロとした黒い感情を彼女に向けていたはずだ。
彼女が悪い訳ではない、そんなことは頭では理解している。拓斗と後から出会ったのはひかりの方で、好きになったのだって恐らくひかりの方が遅かった。
それでもひかりは和香子を妬んでしまう。自分とは違い、拓斗と結ばれる可能性を持つ“生きている”彼女を。
「お盆に他の幽霊の人に言われたんです。私達はどうやっても生きている人達と同じになれない。傍にいると辛くなるだけだって」
あの時は反発した言葉が、今になってひかりに向かって牙を剥く。嫉妬で黒い感情が沸き上がって、そしてそんな自分が嫌になり悪循環が生まれてしまう。
「このままいくと私、怨霊になっちゃうかもしれませんね……」
「そんなことはさせない!」
「え、先生……?」
「私の生徒である君を、怨霊になどさせない。もう二度と、そんなことさせてたまるか」
突然声をはり上げた校長に、ひかりは戸惑いながらその言葉を噛みしめた。
もう二度と、と彼は言った。それはつまり――。
「ひかりさん、確かに私達は今生きている人間とは相いれないかもしれない」
「……はい」
「だけど君は、真城君と一緒にいて辛くなるだけだったかな。あれだけ嬉しそうに傍にいて、本当にそれだけだったかい」
「……」
ひかりは無言で首を振った。辛かっただけな訳がない。拓斗と一緒に居られたから、ひかりは生前よりも幸せだった。
そんなひかりに、校長は優しく微笑んだ。
「人を好きになることは、決して悪いことじゃないよ。恋をすることも嫉妬することも、それは“人間”として当たり前の感情だ。だから恥じたり落ち込んだりする必要なんてない」
「幽霊でも、ですか」
「勿論だ。私達だって同じ人間だったんだから」
校長は微笑んだまま視線を学校へと向けた。長年……生前から死んだあとまでずっと見守って来た校舎を見て、そしてもう一度ひかりに視線を戻した。
「私は、幽霊とは未練……生前の心残りを清算する為に与えられた時間だと思っている」
「生前の、清算……」
「死ぬ前に出来なかったこと、後悔していたことをもう一度だけやり直せるチャンスだと、そう考えている。だからひかりさん、君はもう少し自分の望むようにもう一度”生きて”みるといい。その時が来るまで、悔いが残らないように目いっぱい幸せに過ごすべきだ。……私もいい加減、これ以上後悔しないように覚悟を決めないといけない」
「……先生の未練は、一体何ですか」
初代校長が死後ずっと幽霊として留まり続けているのは、一体どんな理由があるのか。ひかりが躊躇いがちに問うと、彼は苦く笑うようにして俯き、そして長年の願いを初めて他人に打ち明けた。
「私の所為で今も彷徨うあの子を、救いたいんだ」
「あの子……?」
「君が春先に襲われた怨霊、あの子は私の教え子だった。……私が見殺しにしてしまったんだ」
校長の言葉で、ひかりの頭の中に黒い靄が掛かった少女が過ぎった。先ほどの彼の言葉でもしやとは思ったが、やはりあの子が校長の教え子だったのだ。
「八坂千恵、あの子の名前だ。他の生徒よりもよく知っていたはずなのに、私は彼女がいじめられていたことに気付かずに……そして知らない間に死なせてしまった」
「先生……」
「そして後悔を残したまま私も死んでしまうと、彼女はその時には怨霊となってしまっていた。私は二度も、彼女を救えなかったんだ」
彼女は時折彼の前に姿を現した。そして現れては、まるで彼を恨んでいるとばかりに校長の目の前で何人もの元生徒だった彷徨う幽霊を取り込み、そしてその黒い感情を増大させていった。
「助けられないと諦めていた。……だけどようやく覚悟が決まったよ」
最後の教え子の記憶も戻り、彼女には自分がいなくなっても大丈夫だと思える人間が傍にいる。だからもう、他に心残りはない。
千恵を探し出す。もうあの子の怨念が増大する前に、これ以上苦しむ前に。
「私は、今度こそあの子を救う」