25 「俺じゃあ、駄目なのか」
テレビの音だけが響き続ける重苦しい沈黙。静かに淡々と自分の過去を告げたひかりが口を閉じると、今まで言葉を失っていた拓斗が途端に我に返ったように体を震わせた。怒りも悲しみも混ぜこぜになった強い感情に、拓斗は「何でだよ……」と堪えきれなくなったように声を上げる。
「どうしてひかりが殺されなきゃならなかったんだよ……!」
「拓ちゃん……」
「ひかりがいなければよかったなんて可笑しいだろそんなの! ひかりは何も悪くないのに!」
「……ううん、違うよ。私が生まれなければ、お母さんは誰かと結婚して幸せになれたかもしれない。……少なくとも、娘を殺して殺人者として捕まることはなかった」
「っふざけるなよ! 恨まないのか!? どうしてひかりは――」
何故怒らないのか、何故そんなに落ち着いているのか。拓斗の問いにひかりはしばらく黙っていた。
そして――拓斗には見えない、小さく薄い微笑みを浮かべた。
「悲しいけど、恨もうとは思わないよ。もう取り返しがつかないし……それにどんなことをされても、それでもあの人は私のお母さんだったから」
「だけど!」
「でもね、私――本当は、誰かに助けて欲しかった」
ぽつり、と転がり落ちるようにその言葉は吐露された。
「誰かに気付いて欲しかった。……そんな人、いなかったのにね」
「ひかり……」
テレビでは未だに同じ話題が続いている。遺体の状態から日常的に虐待があったという警察の発表に、スタジオのコメンテーターが「何故被害者は警察に言わなかったのか」と息巻いていた。高校生ならそれくらい出来たと、被害者が黙るからこういうケースが後を絶たなくなると批判する声が耳に入った拓斗は乱暴にテレビの電源を切った。
勝手なことを、ひかりの気持ちなど何も知らない癖にと酷く憤りながら。
「俺じゃあ、駄目なのか」
「拓ちゃん……?」
「もう遅いかもしれないけど、こうして一緒にいることしか出来ないけど! だけど俺は!」
柳ひかりはもう半年も前に死んだ。今更拓斗が出来ることなどひとつもないかもしれない。それでも目の前に確かに存在している“ひかり”に手を差し伸べたかった。
「ひかりを助けたい……守りたいんだ」
何も映さなくなったテレビの前。ずっと声が聞こえていたその場所を、拓斗は空間を掴むように腕を回した。見えないひかりを、抱きしめるように。
「た、くちゃん」
「せめてここにいるお前だけでも、助けたいんだ」
感覚もなく抱きしめられたひかりは、戸惑いながら目の前の拓斗を見る。真剣な表情に嘘はなく、本気でひかりを救いたいとその目が言っていた。
「――もう遅いよ」
「ひかり……」
「だって私は……ずっと前から、とっくに拓ちゃんに救われてたんだよ」
拓斗がはっと顔を上げると、それと同時に彼の背中にひかりの手が回った。
誰にも見ることが出来ない彼女の表情は穏やかなものだ。記憶を取り戻し、そして凄惨な過去を思い出したというのにひかりの心は凪いでいた。
「私、後悔してないよ」
「え?」
「確かに私は死んじゃったけど、誰にも気づかれずに終わってしまったけど、だけどまだ続いてるから。死んだ先で……拓ちゃんが私を見つけてくれたから」
確かにひかりの生前に救いなどどこにも無かった。彼女の心は諦めと絶望で満たされていて、生きていく中に光などまるで見えなかった。けれど。
ひかりがゆっくりと自我を取り戻した時、気が付けば知らない場所を彷徨っている所だった。どこから流れて来たのかも分からない。いや、知らない場所どころか、知っている場所すら一つも頭の中に浮かばない。
「私……何?」
そして自分自身のことすら名前以外思い出せないことを悟った彼女は、自分が記憶を失っていることを理解した。しかしそれよりも重大だったことがある。ふわふわと浮かび、として人や物をすり抜けていく半透明の体を見下ろした瞬間、ひかりは発狂しそうになった。
自分が幽霊だと……失った記憶の中で死んでしまっているのだと気付いてしまったのだ。
「なんで……」
自分が何者なのか、どうして死んでしまっているのか、……これからどうすればいいのか。ひかりには何一つ分からなかった。
漂っていた体を自分の意志で動かし始めたひかりは、通りかかる人に必死になって声を上げた。
「あの!」
しかし当然ながら幽霊の彼女の声を聞く人はいない。それでも諦めきれずに、ひかりは何度も何度も色んな人間に話しかけ続けた。誰か一人でもひかりの声が聞こえる人間がいないかと、僅かな希望を抱きながら。
けれど、繰り返し繰り返し話し掛けたひかりが得たものは結局徒労感と失望、そして嘆きだけだった。
「誰か……気付いて!」
いくら声を張り上げてもひかりの方を振り向く人間はいない。多くの人間がいる場所でも、彼女に気付いてくれる人はいなかった。
一体いつまで続くのだろう。誰にも気付かれることなく、自分を知ることもなく、このまま永遠に一人だとしたら。
「……いや」
そんな想像が怖くて堪らなかった。ひかりはここにいるのに、それなのにいくら叫んでも届かない。怖くて寂しくて可笑しくなってしまいそうで――いっそ死ねたらとすら思うのに、もう死ぬことさえできない。
――そんな時だったのだ。ひかりの目の前にいた少年が、勢いよく走って来る車に轢かれそうになっていたのは。
「あの時初めて拓ちゃんが私に気付いてくれた。声を聞いてくれた」
嬉しくて嬉しくて、内心では壊れてしまいそうだった。拓斗には平然としているように見えたかもしれないあの時、顔を見られていたらひかりがどれだけ不安から救い上げられたか分かっただろう。
拓斗に捨てられたくなくて明るく友好的に振る舞い、彼の役に立てることに酷く安堵した。生前から誰にも顧みられなかったひかりが、ようやくその存在を認めてもらえた。
「私は拓ちゃんに会った時からずっと救われてた。……だからね、もうそれで十分だよ」
拓斗が傍にいたから、記憶を取り戻してもひかりは心を保っていられた。生きている時とは違い、自分がもう彼によって救われていると自覚出来たから、大丈夫だと思えた。
拓斗の背中のシャツを強く握りしめたひかりは、触れられない彼の胸に頭を預けた。
「……これで十分なんかじゃない」
「え?」
「俺はこれからだって何度でもお前の声を聞くから、話し掛けるから、ずっと一緒に居るから。だからこれで十分なんて言うなよ……ひかりは、もっともっと幸せになるべきなんだよ」
拓斗の言葉にひかりは唇を噛みしめた。泣きそうで、だけどそれを必死で堪えた彼女は震える声を押さえながら彼の名前を呼んだ。
「拓ちゃん……ありがとう」
自分に気付いてくれたのが拓斗で、本当によかった。
その日の深夜。九月に入っても依然として熱帯夜が続いているその夜、ひかりはそっと自室である和室を抜け出して二階へ上がった。
ふわりと足元を浮かせながら階段を上り、そしてひかりが動きを止めたのは拓斗の部屋の前だった。
「……」
一瞬躊躇いながら、しかしそのまま――扉を開けずに通り抜けた彼女は、暗い部屋の中で静かに寝息を立てる拓斗にそっと近付いた。
「拓ちゃん」
彼を起こさないように小さな声で呟いたひかりは、気持ちよさそうに眠る拓斗を見下ろすと、少しだけ苦しげにその表情を歪ませた。
後悔していないと拓斗に言った。しかしその言葉は少しだけ嘘だった。
「……好き」
決して聞かれないように、本当に小さな声でひかりはそう言った。
拓斗が好きだ。ひかりを家族だと、守りたいと言ってくれた彼のことが好きで好きでどうしようもない。
「好き、だから……」
だからこそ、もっと。
「もっと早く、出会いたかった……!」
拓斗の前では堪えた涙が耐え切れずに溢れ出した。
生きている間に、彼に出会いたかった。