23 「私なんか、いなければよかったの」
「――警察はひかりさんの母親の柳清子容疑者を、殺人及び死体遺棄の疑いで逮捕し、詳しい事情を窺っているとのことです」
沈黙が訪れた部屋の中で、しかしテレビだけは淡々と事件を報道し続けている。
「……ひかり」
拓斗は恐る恐る、今までひかりの声がしていた辺りを窺った。画面に映っている柳ひかりという少女は、このひかりなのか。
しかし彼女の声は聞こえない。違うとも、思い出せないから分からないとも何も言わない。
「あの、さ」
「これ――私」
不意に、酷く震えた声が拓斗の耳に入って来る。
「私……そう、柳、ひかり。私の名前だった……」
「ひかり」
「私、そっか、お母さんに――」
くぐもった小さな声と共に、拓斗はまるで空気が振動したような感覚を覚えた。気のせいではない、部屋中の物ががたがたと小刻みに揺れていたのだ。
それは拓斗にひかりの動揺の大きさを理解させるには十分だった。
「それでは天気予報です。本日は全国的に――」
あっさりとそのニュースは終わり、明るいBGMと共に天気予報が始まる。場違いな空気を醸し出すテレビを拓斗が消そうとした所で、部屋の中からも場違いな程明るい声が聞こえて来た。
「拓ちゃん、早く準備しないと学校に遅れちゃうよ」
「……な、何言ってんだよこんな時に!」
「だってせっかく宿題終わらせたのに提出出来なきゃ意味がないでしょ?」
明らかにわざと作った明るい声。依然として部屋の中はがたがた揺れているというのに、それでもひかりはいつも通りだと言わんばかりに拓斗に話し掛ける。
こんな状況で呑気に学校に行こうなどと思わない。拓斗はそう言おうと口を開いたが、それよりも早く「いいから行って!」と悲鳴のような声で叫ばれた。
「ひかり……」
「ごめん、今頭混乱してて……お願い、一人にして……」
拒絶するように言われた言葉に、拓斗はそれ以上何も言うことは出来なかった。
「……」
ふらふらと覚束ない足取りで中学校の正門に足を踏み入れる。ひかりのことが頭から離れないまま登校とした拓斗は今日に限って何もトラブルにも巻き込まれず、その所為で余計に彼女のことばかりがぐるぐると頭を回っていた。
「あ、拓斗!」
「……西野」
夏休み明けでだらだら愚痴を溢している生徒達の間を歩いていると、拓斗の背中を見つけたらしい充が急ぎ足で近付いて来た。その表情はいつものように楽しげなものではなく、酷く困惑しているように見える。
拓斗はその顔を見て、充も同じようにニュースを見たのだと容易に想像できた。
「な、なあさっきニュースで」
「やっぱり、西野も見たのか」
「親がテレビ見てて、あの山遠足のじゃないかーって呼ばれて……拓斗、あの子ってさ」
「……自分だと言ってた」
「ってことは、記憶戻ったのか……」
確かにそうだ。自分だと分かったということは、つまり生前の記憶を思い出したということ。……死んだ時の記憶を、思い出したということだ。
「西野、ニュース見てたんなら事件のこと聞いてもいいか」
「お前も見てたんじゃないのか」
「ひかりが心配でしっかり聞いてられなかった」
「確か……母親に殴られて殺されたって言ってた。それからあの山の登山道から外れた所に埋められてたって」
「……俺がひかりに会ったのは四月だ。その時からずっと……?」
「ああ、半年近く気付かれなかったって。……学校もただの登校拒否だろうって調査もしなかったらしくて批判されてた」
「……」
拓斗は唇を噛みしめて黙り込んだ。どうして半年もの間誰もひかりのことを探さなかった。教師もクラスメイトも、何故警察に連絡しなかった。
ひかりはそんなにも長い間、一人冷たい土に埋もれていたというのに。
「……そういえば、あいつ言ってたんだ」
「何を?」
「遠足の時、あの山に来てから変な感じがするって、そう言ってた」
その時は来たことがあってそれを思い出しているのではないかと考えていたが、それは違っていた。彼女はずっとあの場所に居て、それなのに拓斗は気付くことが出来なかった。悔しくて、堪らなかった。
ひかりが幽霊だという時点で彼女がどこかで死んでいることなど分かっていたはずだ。だというのに実際に遺体が見つかると、拓斗はやるせない気持ちでいっぱいになった。
彼女が死んだ原因だってそうだ。母親に殺されていたなど考えもしなかった。
「なあそういえばさー朝テレビで、遠足で行った山で死体が見つかったとか言ってたんだけど」
「え、マジで?」
「しかもずっと埋められてたんだって」
「じゃあ俺達が行った時もあったのかよ、こえー! 知らないうちに踏んでたりしたらどうする? 呪われるかもな!」
「腐った手とかで地面に引きずり込まれるかもなー」
「っこの!」
「拓斗!」
通りがかりの男子生徒達の会話に思わず拳を振り上げかけた拓斗だったが、しかしその前に充が彼の腕を掴んだ。全力でその腕を振り払おうとするが、生憎充の押さえる力の方が強い。
「西野! 何で止めるんだよ!」
「あいつら殴ったってどうにもならねえよ! 事情の知らないやつが見たらただお前が悪いって言われるだけだ!」
「知るか!」
「話はすぐに広まるだろうし、あんなこと言い出すやつらなんていくらでもいる。相手にするだけ無駄だ。ひかりちゃんのことは俺達しか知らないんだから」
「……」
「ひかりちゃんだって、自分の所為でお前が停学とかになったら嫌に決まってる」
諭すように言われても、拓斗の怒りは収まらない。
「……何でだよ、どうしてひかりがこんな目に遭わなくちゃいけないんだよ……!」
母親に殺されて、長い間埋められて、学校も探してくれなくて、知らないやつらから好き勝手言われて、きっと今も一人ぼっちで苦しんで――。
「……西野」
振り上げようとしていた拓斗の手から突然力が抜ける。充も彼から手を離すと、拓斗は「やっぱり帰る」と言いながらおもむろに鞄の中を漁り始めた。
「帰るって」
「一人にしてって言われたけど、やっぱり一人に出来ねえよ。今更遅いかもしれないけど、ひかりの所に戻る。……だからこれ、頼む」
「え?」
どさ、と充の腕に拓斗の夏休みの課題が次々と乗せられていく。プリント、問題集、読書感想文などみるみるうちに腕が重くなっていくのを見て充は「おい!」と声を上げた。
「どういうことだよ!?」
「宿題提出しといてくれ。それじゃ」
「拓斗!? こんな時に宿題とか……」
充の声も聞かずに拓斗は踵を返して来た道を逆走し始めた。通学する生徒がすれ違いざまに一様に振り向くが、彼らの視線などまるで気にも留めない。
ただただ、ひかりの元へ急ぐことしか考えていなかった。
「ひかり!」
震える手で鍵を開けて家の中に飛び込んだ拓斗は、リビングから聞こえて来るテレビの音に気付いてすぐにそこに向かった。
「……え?」
リビングに入ると小さな驚きの声と共につけっぱなしのテレビが目に入る。そこに映っていたのは朝見たのと同じあのニュースで、見たことのない少女の写真が映されたを見て拓斗は顔を歪めた。
ひかりがどんな顔をしているのかずっと知りたかった。だというのにそれを見た今、こんな形で知りたくはなかったと強く思った。
「ひかり……」
「ど、どうしたの、忘れ物?」
「帰って来た」
「……駄目、でしょ。朝言ったじゃん、せっかく全部宿題終わらせたのに」
「そう言うと思って西野に提出頼んで来た。……これで、文句はないよな」
拓斗がそう言うとひかりはそのまま黙り込んだ。充に宿題を頼んだのはこうしてひかりの言葉を封じる為でもあり、そして夏休み中ひかりと一緒に頑張ったものを無為にしたくなかったということでもあった。
「――柳さんですか? 何か静かで、大人しい子でした」
「――教室でいつも一人でいました。無口な人で」
テレビでは同級生らしい少女がインタビューを受けていた。目の前のひかりの印象とは似ても似つかない話に、拓斗はひかりを窺うようにテレビの前に視線を移す。
自嘲するような小さな笑い声が微かに聞こえた。
「……私、こういう子だったんだよ」
「ひかり」
「友達もいなくて、お母さんにも嫌われて……死んだって、半年経っても誰も気にしない。そんな人間だった。だからきっと、殺されて当然だったんだよ」
「っ何言ってるんだよ! 殺されて当然なんてそんなこと――」
「私の所為でお母さんは苦しむことになったから」
淡々と、悲しみも怒りも通り越したような揺らぎのない声。いつものひかりでは考えられないほど感情のない声に拓斗は思わず息を呑んだ。
「私なんか、いなければよかったの」