19 「……幽霊も、いっぱい」
「ねえ、今度近くで夏祭りがあるってホント?」
拓斗の風邪もすっかり治り、八月に入ったある日の夕方。拓斗とひかりがスーパーへ買い物に行った帰りに不意に思い出したように彼女が尋ねた。
「あれ、俺ひかりに言ったっけ?」
「さっきスーパーでおばさん達が喋ってたから」
ああ……、と拓斗は彼女の言った言葉が思い当たる。と、同時に先ほどまでの疲れを思い出して手にしている買い物袋が重みを増したような気がした。
タイムセールを狙って訪れたスーパーは、言うまでもなく同じ目的で来た多くの客でごった返していた。特売品を狙っては主婦のパワーに押されて追いやられたり、少しの差で奪われたりとまさしく戦場だった。
拓斗の戦利品はというと、その多くが手を実体化させたひかりが主婦の合間を縫って彼の元へ運んでくれたものである。少し前の看病といい、拓斗は本当にひかりに頭が上がらない。
「祭りなら毎年お盆の頃にあるぞ。屋台も出るし花火も上がる」
「いいなあ、拓ちゃんは行くの?」
「……俺はいつも行ってないけど」
「えー!」
祭りのような人混みは拓斗にとって鬼門だ。更に言えば一緒に行く相手もいなかった上に花火だけなら自宅からでも見えるので今まで特に行きたいとは思っていなかった。そして今年も例によって行くという選択肢はなかった。
が、落胆したような彼女の声に拓斗は少し考える。いつも世話を掛けているひかりが行きたいというのなら出来るだけそれを叶えてやりたい。それに拓斗だって一人でないのなら――傍から見れば一人だということは考えずに――そこまで強く拒絶しようとは思わなかった。
「一緒に祭り、行くか?」
「え……一緒に行ってくれるの?」
「行きたいんだろ?」
「うん!」
ひかりが大きく頷いて返事をする。食べられないにせよ祭りを見て回るのは楽しそうだし花火も見たい。しかし何より元々行く気が無かった拓斗が一緒に行ってくれると言ってくれたことが嬉しかった彼女は、祭りの日まで何度も何度もカレンダーを確認しながら上機嫌に過ごした。
そして彼女が待ちに待った祭りの当日、夕方になると拓斗とひかりは家を出て神社の傍にある祭り会場へと向かった。途中の道から既に人が多く、浴衣を着ている人や聞こえて来る太鼓の音が一層祭りの雰囲気を色濃くしている。
「うわあ、すごい!」
会場に辿り着くと、真っ先に拓斗の耳にひかりの嬉しそうな声が聞こえて来た。声が右から左からと忙しなく聞こえ、その姿が見えなくてもあちこちへふらふら移動しているのが分かる。
「人いっぱいだし屋台もすごく多いね!」
「ひかり、はぐれるなよ」
「分かってるよ……って、あれ?」
「どうした?」
途端に騒いでいたひかりが大人しくなる。何があったのだろうかと拓斗が首を傾げていると、「拓ちゃん……」と少し困惑したような声でひかりが名前を呼んだ。
「あのね、人いっぱいいるでしょ?」
「ああ」
「……幽霊も、いっぱい」
「え」
道行く人々を眺めていたひかりだったが、よくよく見ればその中に実体を持たない透けた体の持ち主が何人も紛れ込んでいるのを見つけてしまった。
勿論ひかりもその中の一人ではあるのだが、こんなにも多くの霊が集まっているのを見たのは彼女も初めてだ。
「あー、お盆だからなあ。俺には見えないけど」
「幽霊もいるから余計に人が多く感じる……」
ある老人の幽霊は孫らしき子供達の後ろを微笑んで着いて行き、そしてまたある女の幽霊は親しげに並んでいる男女の背中を恨みがましい目で見ている。目まぐるしい程人と幽霊が行き交っている光景をまじまじと見ていたひかりは、楽しそうな親子の幽霊を見つけて物悲しい気持ちになった。
「ひかり、黙ってどうしたんだ?」
「……ううん、なんでもない」
ひかりは人混みから視線を外して拓斗の傍に行く。そして気を取り直して改めて屋台で売られているものの数々へと目を向けた。
焼きそば、たこ焼き、お好み焼きなどの食事系、かき氷、クレープ、りんご飴などの甘い物、フライドポテトや唐揚げなどのスナック。見渡す限りに並ぶ屋台にひかりは鬱々としていた気持ちを一気に浮上させた。……勿論、彼女自身が食べられる訳ではないが。
「拓ちゃん何か食べるの?」
「そうだなあ、せっかくだから何か買うか」
そう言って拓斗が足を延ばした先はたこ焼き屋だった。湯気を上げながら目の前で焼かれていくたこ焼きにひかりが目を輝かせていると、その間にたこ焼きを買った拓斗が「行くぞ」と声を掛けて来た。
「花火って何時から?」
「七時半だったと思う」
「じゃああと一時間くらいかー」
ひかりがまだ比較的明るい空を眺める。もう少しすればもっと暗くなるだろうかと考えながら拓斗に視線を戻すと、彼は勝ったばかりのたこ焼きを口に入れて「あっつ!」と悶えていた。
「火傷した……」
「そりゃあ焼き立てだもん」
「……というかこれ、たこ入ってない」
「ええ!? ちょっと文句言いに行こうよ!」
「いや、もういい……」
げんなりとしながら残りのたこ焼きを食べる拓斗に、ひかりは小さく溜息を吐いた。諦め癖がついている拓斗は、「まあ美味しいしいいか」と己を納得させるようにそう頭の中で考える。
「あ、金魚すくいだ」
拓斗がたこ焼きを食べている間、ひかりは不意に目先にあった金魚すくいの店を見つけてふらふらと近寄った。小学生くらいの男の子が挑戦しているようだが、中々苦戦しているらしく一匹も取れないうちに紙が破けてしまう。
「もう一回!」
ゆらゆらと優雅に泳ぐ金魚たちに対抗心を燃やした子供はポケットから小銭を取り出して再び挑戦し始めた。慎重に慎重に、と呼吸を留めんばかりに真剣になっている男の子を見ていると、ひかりもいつの間にか見入ってしまう。
「逃げるな!」
金魚を追って必死に救おうとする少年に聞こえないと分かっていても「頑張れ!」と応援してしまう。そして端に追い詰められた金魚を何とか一匹すくい上げた瞬間、ひかりは彼と同時に「やった!」と声を上げてしまっていた。
「ねえ拓ちゃん、拓ちゃんも金魚すくい……あれ」
ようやくひかりが拓斗の方を振り返ると、そこには既に彼の姿はなかった。
「ひかりのやつ、どこ行ったんだ……」
たこ焼きを食べ終わった拓斗がひかりに声を掛けると、しかし彼女からの声が返って来ることはなかった。どこかへ行ったのだろうか。仮に傍に居たとしてもひかりが返事をしない限り拓斗には分からないが、彼が呼んでいるのにひかりが返事をしないということはまずない。
溜息を吐いた拓斗は、ひとまず待っていれば帰って来るだろうとその場に留まろうとした。……のだが、ちょうどそこへ団体で来たらしいおばさんの群れが姦しく騒ぎながらずんずんと彼の方向へとやって来たのが見えた。
「え、ちょ」
嫌な予感がしたもののもう遅い。まるで竜巻に巻き込まれるようにその群れに飲み込まれた拓斗は、そのまま流されるように離れた場所まで追いやられてしまった。
「……はあ」
何とか抜け出しそして時間をかけて元の場所に戻った拓斗だったが、しかし一向にひかりは戻って来ない。むしろ居なくなった拓斗を探してどこかへ行ってしまったのではないかと考えるものの、ひかりを探す手立てが彼にはない。
「あれ、拓斗じゃん。お前来てたんだな」
途方に暮れていた拓斗は、不意に自分の名前が聞こえて背後を振り返った。するとそこには水飴を持った充と、そして落ち着かない様子の絵里香がいたのだった。
「充と、部長?」
珍しい組み合わせだな、と拓斗が首を傾げた。絵里香が充のことを好きなのは拓斗も知っているものの、失礼ながら絵里香が祭りに誘えるとは思わなかったのだ。
「真城、違うからね!」
「違うって」
「だから、西野君とはさっき偶然会っただけだから! それに和香子だって一緒だし!」
拓斗の考えていることを悟ったらしい絵里香が捲し立てる。動揺しながら必死に弁解する絵里香に充は何を思っているのか。そう思った拓斗が充に視線をやると、彼は慌てている絵里香をただ可愛いなあ、とでも言いそうな顔で見ていただけだった。
絵里香の気持ちに気付いてそう思っているのか、それともただ女の子は皆可愛いのいつもの精神なのかは拓斗には分からない。
「瀬田も、っていないけど」
「ちょっと飲み物買って来るって言ってて……あ、携帯」
絵里香が言葉を止めて鞄に触れる。携帯が震えていたのが分かったらしい彼女がそれを取り出して画面を覗き込むと、数秒沈黙した後に「はあ!?」と酷く驚いたような声を上げた。
「部長どうしたんだ?」
「……和香子が、他の友達に捕まったから二人で回ってって」
「え、そりゃあ残念だな」
充が少し驚いたように目を瞬かせる。が、拓斗には――恐らく絵里香にも和香子の意図が分かってしまった。彼女に気を使って充と二人にしてくれたのだろう。一緒に来た絵里香を放って他の友人の方へ行く、というのは和香子の性格からすればあまり考えにくい。
「それじゃあ、俺もそろそろ」
和香子がせっかく気を遣ったのだから自分が居たら邪魔だろう、そう思って拓斗がさっさと二人と別れようとすると「真城まで!」と大慌ての絵里香が彼の腕を掴んだ。
「せっかくだから真城も一緒に回ればいいじゃない! あんたが居れば和香子も戻って来るかもしれないし!」
「いや、俺がいたら逆に瀬田に怒られるから……というか、俺ちょっと今人探してるからさ」
「人? 真城も誰かと一緒に来たの?」
「ああ、まあ」
「なら私も一緒に探そうか? あ、その前に携帯で連絡すればいいじゃない」
動揺していた絵里香が、拓斗の言葉ですっといつもの表情に戻る。世話焼きの癖が出たらしく一緒に探す気満々の彼女に、拓斗は少し困って首を横に振った。
「携帯は、あいつ持ってないから」
「それじゃあ困るわね……じゃあどんな人? 男とか女とか、歳は?」
「部長、本当に大丈夫だから……」
「拓斗、もしかしなくてもお前が探してるのって、ひかりちゃんか?」
会話に割り込んだ充がそう尋ねて来たので、拓斗は無言で頷いた。そうすれば充は「あー」と至極納得したような声を上げ、拓斗が探すのを拒んでいた理由を悟った。
「っていうかよりにもよってあの子とはぐれたのかよ……」
「しょうがないだろ、おばさんの集団に引きずられたんだよ」
「それは怖いな」
「……ひかり、って前に真城が言ってた子、だよね」
「あ」
「あれ拓斗、絵里香ちゃんにも話したのか。ひかりちゃんがゆう――」
「ああああ! 西野ちょっと待て!」
怪訝そうな顔をした絵里香に充が何気なく彼女にとってのNGワードを口にしようとして、しかしその前に拓斗が何とか遮った。咄嗟に充を引っ張って絵里香と距離を取った拓斗は彼女に聞こえないように気を付けながら小声で話し出した。
「部長はひかりって名前を知ってるだけだ。しかも幽霊とかすごい苦手だから言わないでおいてくれ」
「あ、そうだったのか。というか幽霊怖いとか絵里香ちゃん可愛いな」
「お前どんな子にでもそう言うだろうが」
「そりゃあ女の子は皆可愛いし……って今はひかりちゃんのことだろ。あの子見えないしどうやって探すんだよ」
「だから困ってるんだよ……家で待ってる訳にも行かないし」
「うーん……とりあえず鳥居の前で待ってればいいじゃねえの。あそこの前の道なら帰る時に必ず通るだろ」
「あ、それいいな」
「二人ともー、どうしたの?」
「ああ悪い、絵里香ちゃんが可愛いなって話だよ」
「なっ」
こそこそ話す拓斗達を不審に思った絵里香が近づいて来たので。充が咄嗟にそう言って案の定絵里香が爆発しそうになっていた。そんな様子を見た拓斗は何とも言えない顔で充を一瞥する。
確かに充が絵里香のことをそう言ったのは事実だが、この調子の軽口を続けていたら将来刺されそうだと拓斗は確信した。