15 「どうして、じゃまするの?」
「ひかりさん」
「はい、何ですか先生?」
雨が降り注ぐ中学校。雨宿りの為に渡り廊下で外を見上げていたひかりは、沈黙を破って話し掛けて来た先生――校長の幽霊を振り返った。
「ひかりさんは、自分の記憶を探していると言ったね?」
「そうですけど……」
「もし記憶が戻ったら、どうするつもりなんだい」
「え?」
ひかりはすぐに返事が出来なかった。記憶を探しているというのに、もし思い出したらというその先のことまでは一切考えていなかったのだから。実体化の練習をしていた時は出来るようになったらあれがしたい、これがしたいとばかり考えていたというのに。
「……多分、家族に会いに行くと思います。でも」
両親と、もしかしたら兄弟もいたかもしれない。たとえ見えなくても家族を見て、そして――その後は?
家族の傍で過ごすのか。拓斗と別れて、本当の家族と一緒に。
「私は……」
今は記憶が戻っていないからそう思うのかもしれない。けれど少なくとも今のひかりは、まるで知らない本当の家族よりも拓斗の傍に居たかった。
「すまない、答えにくいことを聞いたな」
「いえ、今までちっとも考えなかった私の方が可笑しいんです」
「……それだけ、真城君の傍は居心地がいいということだろう」
「そう、ですね」
拓斗と一緒に居られなくなるくらいなら、記憶なんてずっと戻らなくてもいい。むしろひかりが何者でどうやって死んだのか、思い出す方が恐ろしく感じていた。
「先生は勿論生前の記憶はありますよね」
「ああ」
「家族や知り合いに会ったりしたんですか?」
「死んだ当初は家族や生徒達を見守っていたこともあった。だがもう、生きている時の知り合いはいないからね」
「そんなに長い間、ずっと幽霊のままで」
「……心残りが、まだあるんだ」
「心残り?」
「未練があるから、私はまだ成仏できずにいる。……幽霊はみんな、そういうものだ」
自嘲気味にそう言った校長に、ひかりはそっと胸に手を当てた。
ひかりが忘れてしまった記憶の中で、何か未練が残っていた。だから彼女は幽霊になってしまった。
「私は、何が心残りだったんだろう」
だが彼女はその未練すら、欠片も思い出せない。思い出すことは恐ろしいというのに、ひかりはそれが気になって仕方が無かった。
「水泳……地獄だ」
「何言ってんだよ拓斗、むしろ天国だろ」
夏が近づき中学校でも今年初の水泳の授業が行われる。ぞろぞろと他の生徒に続いてプールサイドへやって来た拓斗は重たい重たいため息をついて項垂れた。
「水気持ちいいし泳ぐの楽しいし、何より女子の水着が見られる! まさに天国だろうが」
「天国なのはお前の頭だけだ」
酷く楽しげな充を見る拓斗の目は冷たい。彼とは違って泳げない上、毎年一度は水の中で足がつる拓斗にとって水泳は鬼門だ。
準備運動を終えて順番に水の中を歩く。今日は初回なので水に体を慣らす為に本格的な授業は行われないというのが拓斗にはまだ幸いだった。
この時間は好きに泳いでいいと言った体育教師にわっと生徒達が歓声を上げた。泳げない拓斗にはまだ幸いなことで、好き勝手にプールに入る生徒達に続いて拓斗もプールの端でそっと水に浸かり、授業終了まで大人しく過ごすことにした。
充はというと、一応拓斗の近くにはいるが目線は柵を挟んだ先のプール、女子生徒が泳ぐそちらへ向けられている。心底楽しそうに眺めている彼に、拓斗は呆れた表情を隠さなかった。
「はあ……」
「なんだよちっとも興味ありませんって顔しやがって。お前だって本当は」
「お前と一緒にするな。少なくとも西野ほど見境がない訳じゃない」
「へえー、そういうこと言うんだなあ拓斗君は。じゃあ和香子ちゃんの水着姿見ても何とも思わない訳だ」
「瀬田? なんで急に瀬田の話になるんだ?」
きょとん、と拓斗が目を瞬かせる。本当に意味が分からないとばかりに首を傾げる拓斗に、充は内心和香子に同情した。一度会っただけの充でも分かったというのに鈍感なやつだと思わずため息が出る。
「……じゃあ、仮にひかりちゃんが見えたとして、水着だったら嬉しくないか」
「ひかりだったら何にせよ見えるようになった時点で嬉しいけど」
「そういう話じゃねえよ」
「私が何て?」
「うわあっ!」
拓斗と充の会話に突然別の声が割り込み、そして同時に拓斗の肩にぽん、と手が置かれた。しかしそれに驚いたのは拓斗ではなく、声が聞こえない充の方だった。
「あれ、ひかりどうしたんだ?」
「今日からプールだって言ってたから見に来たの」
ひかりの声が唐突に現れることにすっかり慣れてしまった拓斗は実体化した手に肩を叩かれても平然としていた。しかし充はというと、拓斗の肩に突然現れた手首から先しかないひかりの手を、目を見開いて凝視したままだ。
奇声を上げた充に傍にいたクラスメイト達が振り返るが、拓斗を見ていることが分かるとまた何かあったのだろうとすぐに視線は散らばった。
「拓斗……その手」
「ん? ああそういえば西野には言ってなかったな。ひかり、手とか一部だけだけど少しの間実体化……見えるようになったんだ」
「西野君、やっほー」
拓斗の影に隠れるようにしてこっそりひかりが手を振ると、充は驚きの表情のままぎこちなく手を振り返した。
「それで、何の話してたの?」
「いや、こいつが女子の水着に喜んでただけだ」
「しょうがないだろ、女の子は可愛いものなんだから」
開き直るように胸を張った充に、ひかりは「あー、いつもの」と納得するような、呆れるような声で呟いた。
「拓ちゃん達は泳がないの?」
「俺は泳げない。西野、お前は泳がないのか?」
「いや今は泳ぐよりも観察したいっていうか……」
「……」
「ひかりが呆れてるぞ」
無言のひかりに、表情は分からないなりに悟った拓斗が充に告げる。そのくらいの意思疎通はいつの間にか図れるようになっていた。
「泳げないなら練習しようよ。手伝ってあげようか?」
「手伝うってどうやって?」
「こう……沈まないように支えるとか」
ひかりの手が拓斗の体に添えられる。くすぐったさに思わず体をよじった拓斗は気恥しさも手伝って「それはいい」と彼女の手を外そうと動いた。
その瞬間、拓斗の足に水温よりも冷たい何かが絡みついた感触がした。
「え」
「拓斗?」
さばん、と音を立てて拓斗の頭が水に沈む。唐突に消えた彼に充が首を傾げる中、彼の体に触れていたひかりも巻き込まれるように水の中に入る。そして彼女は何が起こったのか分からずに拓斗を、そして彼の足を掴む白い手を見た。
「っ!?」
同じく自分の足を見た拓斗も絶句する。ひかりとは違う青白い手が自分の足を凄まじい力で引き摺り込んでいたのだ。そして彼には見えなかったが、その手の先に長い髪の女がぎょろりとした目で拓斗を見ているのがひかりには分かった。
その女を見るのは初めてではない。彼女は以前、ひかりを取り込もうとした怨霊だった。
「拓ちゃん!」
「どうして、じゃまするの?」
拓斗の体を必死に水面に持ち上げようとするひかりに感情の色のない女の声が投げかけられた。それに答える余裕のないひかりは、息が出来ずにもがく拓斗を全力で引き上げ何とか顔を水の外に出した。
「っぐ、はあっ」
「溺れてんのか!?」
苦しげに水面に顔を出した拓斗に充も状況を把握する。充が拓斗の腕を掴んで引き上げるとひかりの負担はぐっと減ったが、しかしすぐさま状況は一変した。
「西野君!?」
「あなたも、いっしょに」
今度は充の足も引きずり込まれたのだ。抵抗するもあっという間に水の中に消える充をひかりは見ていることしか出来なかった。
今も拓斗は引きずり込まれそうになっているのだ。ひかりが充を助けようとすれば今度は拓斗が危ない。彼女一人では二人同時に助けることなど不可能なのだ。
これだけ周囲に人がいるのに誰も気付かない。そして、助けを呼ぼうとひかりが声を上げても誰も聞くことはない。しかしそれでも彼女は咄嗟に叫んでしまっていた。
「誰か、助けて!」
ひかりの叫びと同時に充の伸ばされていた手が完全に水の中に沈む。ところが直後、その手はすぐさま水面から再び外へ飛び出した。
「ひかりさん!」
「先生っ!」
充の手を掴んだのは、初代校長だった。どうしてここに、と彼女が尋ねる暇もなく二人の幽霊は必死に溺れる拓斗達を水面へと引っ張り上げていく。
「どうして」
流石に二人の力には及ばなかったらしい怨霊の少女の手が少しずつ拓斗達の足から離れていく。
「せんせ……」
完全に手が離れ姿を消していく怨霊の悲しげな声が、最後にひかりの耳に焼き付くように残った。
「げほっ」
「な、何だったんだよ……」
ぜえぜえと大きく呼吸を繰り返す拓斗と充。特にまるで状況が分かっていなかった充はしきりに掴まれていた手足に触れ、顔色を悪くしていた。
「ひかり……今の」
「前に襲われた怨霊の子、だった。先生が一緒に助けてくれて」
「そうか……ひかり、校長先生、助かりました」
「……」
「拓斗! 何が起きたんだよ今の!?」
拓斗の言葉に校長は無言で眉間に皺を寄せる。しかし勿論それに気付かなかった彼は、説明を促す充に怨霊に引きずり込まれそうになっていたことを申し訳なさそうに話した。
「お、怨霊って」
「前からこの学校に居たんだって。……悪い西野、俺の所為でまた巻き込んで」
拓斗を助けようとしたから充まで巻き添えになってしまった。そう言って謝る拓斗に、充は驚きの冷めやらぬまま首を振る。確かに下手したら死んでいたが、それは拓斗だって同じだ。
「確かにびびったけど……お前の所為じゃねえし」
「ホントにそう思ってるのか。いつも俺の所為で」
「あーあーごちゃごちゃ煩い。だったらお前罰として女子の方のプールに飛び込んで来い。それで許す」
「……いや柵あるし無理だろ」
「そこは根性でどうにかしろよ」
意気消沈していた拓斗だったが、充とのやり取りで徐々にいつもの調子を取り戻していく。そんな拓斗と彼を責めない充にほっとしたひかりは、しかしずっと険しい顔で黙りこくったままの校長を少し不安げな目で見ていた。