13 「やっぱり、拓ちゃんは優しいな……」
「ひかりー、助けてくれー」
「拓ちゃん……」
情けない声を上げながら机に突っ伏した拓斗を、ひかりは呆れた顔をしながら見つめていた。
普段さんざん不幸な目に遭いながらも少し疲れたように笑うだけの彼がこんな風になっている理由は簡単な話だ。――中間テストである。
拓斗の成績ははっきり言ってよろしくない。それは普段の不幸体質でテスト当日に限って遅刻せざるを得ない状況に陥ったり、解答欄を全てずらして書いてしまったり、という意味ではなく単純に勉強が分からないという意味の方だ。
「……それで、どの教科が分からないの?」
「全部」
「全部って拓ちゃん……」
「だって中間は美術とか技術とか家庭科とか無いからどうしようもないんだよ……」
国数理社英、拓斗は五教科全てが苦手分野だ。
もう駄目だー、と嘆く拓斗に隣でふわりと浮く彼女は一つ溜息を吐いた。少し前にひかりに向かって家族だと言ってくれた時のかっこよさは一体どこに行ったのだろうと。
「……もう、しょうがないなー。教えて上げるからちゃんと聞いてよ?」
「ひかり、ありがとう!」
ひかりが仕方なさそうに――しかしどこか嬉しそうに言うと、途端に拓斗ががばっと顔を上げて満面の笑みをひかりの方へと向けた。
「ひかりが教えてくれるんなら百人力だ」
「まったく、調子が良いんだから」
いつもは年下扱いする癖に、とひかりが口を尖らせながら机に広がる教科書に視線を落とす。手を実体化させてぱらぱらと一通り捲ってみると、やはりどの問題を見ても然程難しそうには見えない。ひかりが拓斗よりも年上なのは殆ど確実なのだ。
「じゃあどれからやる?」
「樋口に睨まれたくないから数学……」
「数学ね、分かった」
拓斗から範囲のページを聞いたひかりは早速彼の前にノートを開かせて、教科書に載っている例題を示した。
「この問題、解いてみて」
「……まず何をどうすればいいか分からない」
「解説読みながらでいいから」
「……」
のろのろと鉛筆を持った拓斗だったが、いつも絵を描く時とはまるで違い、その手は一向に動こうとしない。ゆらゆらと鉛筆を揺らして眉間に皺を寄せた彼は暫し小さく唸った後、「訳分かんねえ!」と叫んだ。
「何なんだよxとかyとか、数学なのに何でアルファベット出て来てんの英語に帰れよ……」
「帰ったとして英語は大丈夫なの?」
「いや無理だけど……」
「……じゃあ最初だから、説明しながら解いていくね」
ひかりは小さく溜息を吐くと、拓斗が投げ出した鉛筆を手に取ってノートに問題を書き写した。そして教科書の解説に添うようにして、彼が頭を抱えたxやyなどの文字を使う説明から計算方法まで拓斗が納得するまで何度も解説する。
ひかりによってどんどん書き込まれていくノートを見ていた拓斗は鉛筆を握る手首から先に視線を移すと「そういえばそうだよなあ」と呟いた。
「拓ちゃん?」
「いや、前までは口で説明してもらってたからさ、こうやって実体化できるようになってから教えてもらうの初めてだなって」
「こっちの方が分かりやすいでしょ? 実体化できるようになるまで毎日練習したんだから」
「……じゃあ俺ももう少し頑張らないとな」
「うんうん、頑張ってね」
やややる気を見せた様子でノートを覗き込んだ拓斗は、ペンケースから別の鉛筆を取り出して真剣な顔で数式を睨み付けた。
「じゃあ次の教科やろうか」
「ま、待ってくれひかり!」
三十分後、次の教科書を手にしたひかりに拓斗から強烈なストップが入った。
「ちょっと休憩しないか……」
「うーん、そうだねえ。分かった」
ひかりは目の前にぐったりと潰れた拓斗を見て頷いた。ここまで集中してやってきたのだからいいだろうと教科書を置いた彼女は、「お疲れ様」と拓斗の頭を撫でてから扉の方へと向かう。
「じゃあ飲み物とか取ってくるね」
「あ、待てひかり。俺が持ってくるから」
「いいよ、拓ちゃん疲れてるみたいだし」
「駄目だ、実体化しててお前の方が疲れてるだろ。ひかりは休んでてくれ」
「……じゃあ、待ってるね」
重たい体を起こした拓斗が部屋から出て行く。そしてその背中をじっと見ていたひかりは、一人になった部屋で誰にも聞かれることのない呟きをぽつりと漏らした。
「やっぱり、拓ちゃんは優しいな……」
テスト勉強でいくらかっこ悪い所を見ても、ひかりにとっては誰よりもかっこよく見えた。
「そういえば、ひかりって実体化できるようになったけど、食べられないよな……」
ジュースとクッキーを持って戻って来た拓斗は、いざジュースをコップに注ごうとしたところでその事実に気付いた。コップを二つ持って来た訳だが、彼一人しか飲めないのならば意味がない。
「分かんないよ、口を実体化出来たら食べられるかも!」
「できるのか?」
「試してみる」
途端にふっと実体化していたひかりの手が消える。そしてむむむ、と小さく呻くような声が拓斗の耳に入って来た。
ひかりは自分の口に両手を当てその存在を確かめる。顔自体は分からないので無理だと思うが、目を閉じて手で触れる自分の唇を想像するとなんだかやれそうな気がした。
「っうわ!」
「どう、見えてる?」
「あ、ああ……実体化した」
拓斗は自分の傍に浮かぶひかりの唇に、少々動揺しながら何度も頷いた。手首から先が宙に浮いている時もそうだが、かなりシュールというか冷静に考えると少し怖い。
「ねえ、ちょっとクッキー食べさせてみて」
「お、俺が!?」
「手まで実体化させる余裕ないから」
ずい、と近寄って来る唇に恐れればいいのか照れればいいのか混乱しながら、拓斗は言われるがままクッキーを手に取りそれを彼女の口元へと持って行く。
「ほら」
「ありがとう、いただきまーす」
すこん。
一口で食べられる小さなクッキー。拓斗がそれをひかりの口の中に放り込むと、直後軽い音を立ててクッキーが床に転がった。
「……」
「……あー、まあ、そうか」
唇しか実体化出来ていないのだから、そこを通り過ぎればそのまま下へと落ちる。よく考えなくても分かることだった。
しかし拓斗から見ればそうでも、彼女からすれば食べたものが突然口の中から消失したことに混乱する他なく、恐る恐る落ちたクッキーに目を落としたひかりは先ほどの拓斗のようにぐったりと項垂れた。
「食べた、かった……」
「ま、まあそのうち、そのうちな!」
「歯とか食道とか胃とか……体全部実体化できないと駄目ってこと、だよね……」
そんなのいつまで掛かるんだ、とクッキーをしばらく恨めしそうに見ていたひかりだったが、そのクッキーを一向に手に取る気配のない拓斗に気付いてゆっくりと顔を上げた。
「拓ちゃん食べないの?」
「いやだって、お前が食べられないのに」
「そんなこと言ってたら拓ちゃん餓死して私の仲間になっちゃうよ?」
「……ブラックジョークはやめろ」
さらっと言われた言葉に拓斗が顔を引きつらせる。その冗談はどうなんだ。
「ともかく、拓ちゃんが食べるのはちっとも気にしないから食べてよ。あ、そうだ」
「ひかり?」
何か思いついたらしいひかりが明るい声を出すと、すぐに消えていた手が現れてクッキーを掴み取った。
「はい拓ちゃん、あーん」
「……へ?」
「さっきのお礼」
ひかりの顔も見えない――というよりも知らないというのに、何故か拓斗はその瞬間にっこりと笑顔を見せるひかりが見えた気がした。
「ひ、ひかり!」
「ほら早く口開けて。私の分までちゃんと食べて、ね?」
「……いただきます」
ひかりの分まで、なんて言われたら食べざるを得ない。拓斗が口を開くとすぐにクッキーが放り込まれ、今度は勿論床に落ちることはなく彼の口の中に納まる。
充が知ったらさぞ羨ましがられるだろうな、と拓斗はクッキーを咀嚼しながら頭の片隅で思った。
「さて、もうちょっと休憩したら次の教科やるからね」
「まだあと四教科もあるのか……」
「あのさ、一応言っておくけど……数学は確かにもう終わったけどテストまで勉強しなくて良いってことじゃないからね?」
「なんだと」
「なんだとじゃないよもう……」
ひかりから呆れるようにそう言われ、憂鬱になった拓斗はやけになるようにクッキーを食べる。
「……なあひかり、一つ提案があるんだが」
「提案って?」
「テストの時、後ろでこっそり答え教えてくれても……」
「する訳ないでしょ! 拓ちゃんの馬鹿!」
「だよなあ」
流石に冗談だったらしいが、拓斗はそんなことを言ってしまう程には追い詰められているようだと気付き、ひかりの方が頭を抱えたくなった。
「もー、良い点とったら何かご褒美上げるからもうちょっと頑張ってよ」
「え、ご褒美?」
「うん」
「……何でもいいのか?」
ぴたり、とその言葉を聞いた瞬間クッキーを掴んでいた拓斗の手が止まる。そのあまりの食いつきの良さにひかりは慌てて弁解するように言葉を重ねた。
「私にできることなんてあんまりないけど……」
「……じゃあ一つ、頼みたいことがあるんだけど」
「何?」
「テストで良い点取ったら、ひかりが作ったカップケーキが食べたい」
へ、とひかりが驚いたように小さく声を上げた。
「駄目ならいいけど」
「だ、駄目じゃない! 勿論いいに決まってるでしょ!」
「そっか、じゃあ楽しみにしてる」
力いっぱい頷いたひかりに拓斗が小さく笑う。それを見て、彼女は体温のない自分の顔に熱が集まって来るような気がした。
嬉しくて堪らない。
「……拓ちゃん、楽しみにするのはいいけど、ちゃんと良い点取らないと駄目だからね」
「が、頑張る」
しっかりと釘を刺しながらも、ひかりの声からは喜びが滲み出ていた。
テストが終了した翌日、その最初の授業である数学――つまりテストの返却の時間である。拓斗は真ん中の列の二番目――もっとも先生と目が合いやすいその席ではらはらしながら自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
この時間は毎度心臓に悪い。心臓発作が起こったらどうしようかと若干真剣に考えながら、落ち着くために窓の外を眺めた。ひかりは今日学校に来ていない。やることがあるから、と言って一人家に残っているのだ。
「真城」
「……は、はいっ!」
彼女は今頃どうしているだろうかと考えていると、名前を呼ばれたのにも関わらず一瞬気が付かなかった。視線を鋭くする樋口に拓斗は慌てて席を立ち教卓の方へ行こうとして、机の脚に躓いて転んだ。
「何をやっとるんだお前は」
「すみません……」
「そんなことだからケアレスミスが多くなるんだ。……が、まあ今回はいい」
「え?」
よろよろと立ち上がった拓斗の目の前にテストの解答用紙が差し出される。その右上に掛かれた数字を見た瞬間、彼は思わず目を疑った。
「な、七十五点……」
平均点を越えたのは一体いつぶりだろうか。思わず本当に自分の解答用紙かと疑いながら席に戻った拓斗は、改めて何度も一番上に書かれた自分の名前を見直してしまった。
勿論カンニングなどしていないし、テスト中ひかりに頼ることもしなかった。これも毎日根気よくひかりが教えてくれた成果だった。
「早くひかりに言いたい……」
しかし彼女は学校へ来ていない。どうして今日に限っていないのか。拓斗はその日、ずっとそわそわしながら異様に長く感じる授業を受け、放課後になるのを待った。
「あー終わった終わった。拓斗、テスト明けで部活ねえしどっか寄って」
「悪い西野、俺急ぐから!」
充の声を殆ど聞き流して拓斗は教室を飛び出す。昇降口に辿り着く前に一度転んだが、気にすることなく靴を履き替えて正門へと向かった。
数学だけではない、その後返却された国語や理科もぎりぎりだが平均点だった。社会と英語はそれ以下だったものの、今までの成績と比べると驚くほど点が取れていた。理科の担当教師には「どうしたんだ、とうとう運が向いて来たのか!?」と両肩を思い切り揺らされた所為で頭が痛くなった。
帰路でいつも通りいくつかのトラブルに遭遇したものの、急ぐ足を緩めることなく家の前に辿り着いた。張り切り過ぎだ、と息を切らした自分に笑ってしまう。
「……ただいま」
「拓ちゃんおかえりなさい!」
拓斗が玄関の扉を開けると、家の中から甘い匂いがした。