12 「おやすみ、ひかり」
「……」
拓斗が学校へ行くために家を出てからどれくらいの時間が経っただろうか。ひかりは薄暗い和室の中で膝に埋めていた顔をゆっくりと上げた。その目は痛々しいほど腫れて真っ赤になっている。
拓斗と喧嘩をした。いや喧嘩なんてものではない、ひかりが一方的に喚き散らしただけだ。朝はひかりに声を掛けて行ったものの、きっと拓斗もひかりの存在に辟易したことだろうと、彼女は再びその目に涙を滲ませた。
昨日の調理実習の後、ひかりは校長の所でいつも通り実体化の練習に励んでいた。しかし成果は芳しいものではなく、いくら自分の手を強く意識してもそれは何も掴むことは出来なかった。
拓斗と暮らし、様々なことを見て行くうちにどんどんやりたいことは増えていく。生焼けのカップケーキを口に押し込んでいた拓斗を見て、手が実体化出来たら作って上げようと黒板に書かれていたレシピをしっかりと頭に刻んでいた。
「拓ちゃ――」
放課後になり校長と別れたひかりが急ぎ足で拓斗の元へと戻ったその時、彼は知らない女の子からカップケーキを受け取っていた。
「ありがとう、貰っとく」
そう言って笑っていた拓斗に、ひかりは思わず彼を呼ぶ声を途切れさせた。ひかりの知らない彼女はすぐに顔を伏せていて、照れているのだろうと傍から見ればすぐに分かる。充も絵里香も、そんな彼女を微笑ましそうに見ていた。
「……」
とられたと、最初に思ったのはそれだった。拓斗にああしてお菓子を渡すのは、喜んでもらうのは自分のはずだったのに。
ひかりの心の中で様々な感情がせめぎ合って、ぐちゃぐちゃになる。ドロドロと、黒い感情でいっぱいになりそうで、彼女達が去ってからもしばらく拓斗に声を掛けられなかった。
「ひかり、今日は遅かったな」
「……」
彼女がやっとの思いで拓斗を呼ぶと、彼は当然のようにそう言った。
違うよ、ずっといたんだよ。拓ちゃんが気付かなかっただけなんだよ。と、言いたくても言えない気持ちを押し殺して黙り込んだ。
「私は……幽霊だよ」
取り残された家の中で半透明の両手を見る。何度見たって生きている人間ではない、実体を持たない手だ。お菓子一つ作ることも出来ない、無力な手だ。
楽しそうに笑い合う拓斗達の姿がひかりの頭の中で思い出される。あの場所にひかりは入れない。振り返ってもらえない、可愛いと言ってもらえる顔もない。
自分の存在を、誰にも分かってもらえない。
だからこそ、拓斗の言葉にあんな風に感情を爆発させてしまった。部屋に籠って、気付かれないように泣いた。
そのうち拓斗が帰って来る。そうしたら追い出されてしまうだろうか。無視されるだろうか。元々ひかりが勝手に何の関係もない彼の家に転がり込んだのだ。勝手に怒り出して騒ぐ幽霊など、迷惑な騒音にしかならない。
「拓ちゃん……ごめんなさい」
お願いだから、捨てないで。
「――ただいま」
「っ」
玄関の方からガチャガチャと鍵を開ける音がしたかと思えば、すぐに拓斗の声が聞こえて来る。息を呑んだひかりは少しずつ近づいて来る足音に怯え、膝を抱えて体を縮めた。
「……ひかり」
部屋のすぐ前から聞こえて来た声にひかりは大きく体を震わせた。と、同時に床の間の掛け軸が音を立てて落ちる。
「ひ、」
「よかった、いるんだな。ただいま」
音を立ててしまったことに彼女が動揺していると、聞こえて来たのは心底安堵したような柔らかい声だった。
「ごめんな」
おかえりなさいとも言えずに黙り込んでいたひかりの耳に、その言葉が飛び込んで来る。
「俺、自分のことばっかりでさ。記憶がなくて、しかもいきなり幽霊になってて平気なはずがないのに、それなのに全く気付いてやれなくてごめん」
「……」
「今朝は久しぶりに酷い目に遭ってさ……俺がどれだけひかりに頼ってたか思い知らされた。俺は記憶の手掛かり一つ見つけてやれてないっていうのに」
違う!
ひかりは声にならない声で叫んだ。
ずっと拓斗に寄りかかっていたのはひかりの方だった。彼に捨てられたくなくて、実体化が出来るように必死に練習していたのだって彼の役に立ちたいと、喜ばせたいと思う気持ちが大部分だった。記憶の手掛かりよりも、彼女にとってそれらの方がずっと重要だった。
思い出せない記憶よりも、拓斗と過ごす今の方がひかりには余程大事だったのだ。
「俺、ひかりのこと何も分かってない。今だって、昨日ひかりが怒った理由をはっきり理解してる訳じゃないんだ。」
「……た」
「だから話してくれ。怒ってもいい、上手く言えなくてもいい、不安なら泣いても当たり散らしてもいい。俺はもっとひかりのことを知りたい」
拓ちゃん。か細い擦れた声で呼んだ名前は、彼に届いたのか分からない。
戸の向こう側で、拓斗が小さく笑った。
「俺で良ければいくらでも話を聞くし、一緒に居るからさ」
「……して」
「ん?」
「どうして、そんなこと言ってくれるの……」
「だってそりゃあ」
恐る恐る、震える声で尋ねたひかりは殆ど間を置くことなく返って来た言葉に涙も呼吸も止まった。
「朝起こしてくれて、一緒に登校して、危ない時は教えてくれたり心配してくれて、家で今日あったことを話して。そんなの、家族みたいなものだろ?」
「家、族」
「少なくとも俺はそう思ってる」
この家で拓斗は一年間ずっと一人で生きて来た。けれどテレビの音と独り言だけがBGMだった家が、ひかりが来てから変わった。
一人では面白くなかったテレビを見て笑ったり、宿題に口を挟まれたり、力の練習の為に浮かせていたものが飛んで来たり。本当に賑やかになった。
「ひかりの好きな時でいいから、気が向いたらここから出てまた話しかけてくれると嬉しい。……待ってるからさ」
そう言って、拓斗は戸の前から居なくなる。足音が遠ざかっていくのを聞いたひかりは、立ち上がるどころか力が抜けたように動けなくなった。
「家族……。ふふ、変なの。幽霊なのに家族ができちゃった……」
ひかりは顔を覆いながら笑い、泣いていた。家族だなんて言われて、ひかりの存在を認めてくれたようで――。
「……ううん、そうじゃないんだ」
違う。拓斗がひかりの存在を認めてくれていたなんて、もっとずっと前から分かっていたはずだ。充にひかりのことを話した時から、そして部屋をもらった時から拓斗はひかりのことをちゃんと認めてくれていた。見えなくても、見てくれていた。
ひかりは顔から手を退けて、両手をそっと膝の上で握りしめた。その手は相変わらず半透明で、幽霊そのものだ。だけど――。
「私は、ここに居る」
誰にも見えなくても、拓斗がそれを認めてくれる。
ジリリリリ。
「……ふあ」
耳をつんざく目覚まし時計の音に目をこじ開けた拓斗は、欠伸をしながら騒音を止めた。目覚ましが鳴り止めば他には何も聞こえない。拓斗は少し寂しい気持ちになりながら服を着替え、そして自室を出て階段を降りた。
聞こえるはずのない音が彼の耳に入って来たのは、そんな時だった。
「何だ?」
一階に降りると、静まり返っているはずのキッチンから音がする。それだけではない、まるで調理中と思しき音と共にベーコンの焼ける香ばしい匂いが漂って来たのだ。
「……え?」
「あ、拓ちゃんおはよう!」
恐る恐るキッチンを覗き込んだ拓斗は、目の前の光景に思わず目を疑った。
「ひかり……?」
火の付いたコンロ、その上のフライパンで焼かれるベーコン、冷蔵庫から出された卵……そして、それを割ってフライパンに入れる、両手。
手首から先の手が、朝ごはんを作っていた。
「お前、手が!」
「あはは……手だけだけど、実体化出来ちゃった」
「やったな! すごいぞひかり!」
傍から見れば手首だけが動き回る異様な光景だ。しかし拓斗は満面の笑みでキッチンに飛び込むと、躊躇うことなくその両手を握りしめた。
体温はなく冷たい、だが柔らかな女の子の手だった。
「た、拓ちゃん」
「ずっと頑張ってたもんな! おめでとう、ひかり」
「ありがとう……だけどね、拓ちゃんのおかげなんだよ?」
「俺の?」
「うん」
突然握られた手に戸惑いつつも、ひかりは拓斗の手を握り返してそう言った。
存在感を強くすること、見てもらいたいと強く願うこと。ひかりは校長にそう教えられた。記憶もなく自分の存在すらあやふやだった彼女は、拓斗が認めてくれたからこそ自分の存在を強く認識することが出来たのだ。
首を傾げる拓斗にひかりは少しだけ笑って、そっと手を離した。
「一昨日は、ごめんなさい」
「ひかり」
「私、怖かったの。記憶が戻らないことよりずっと、拓ちゃんに捨てられるかもしれない方がずっと怖くて……だから拓ちゃん達が学校で仲良くしてるの見て、嫉妬しちゃった。私はいらないんじゃないかって不安になっちゃって……」
「そんなことない!」
だが彼はひかりのことを家族だと言ってくれた。幽霊の彼女の居場所を作ってくれた。
「うん。だからね、家族って言われたのすごく嬉しかった。私の声を聞いてくれたのが拓ちゃんで、本当に良かった」
ありがとう、と彼女がそう言った瞬間、宙に浮いていた手が突然拓斗の視界から消失する。
「え?」
「ごめん、ちょっと寝るね。力使い過ぎて疲れちゃった。……朝ごはん、ちゃんと食べて……」
すう、と小さな寝息が聞こえて来たのはその直後だった。初めてポルターガイストを使った時もこんな風だったと思い出し、彼は小さく笑みを溢した。
「おやすみ、ひかり」
……フライパンの焦げた匂いに気付くまで、あと数秒。
次回から二日に一度の更新になります。