1 「私、幽霊なの!」
真城拓斗は、とある一部を除けばごく普通の中学二年生である。
見た目は少し気弱そうな顔をしているが特筆するようなものはなく、やや平均よりも低い身長を気にしているだけのどこにでもいるような男子中学生。女子生徒に噂されることも基本的にはない。
しかしながら、とある一部、や基本的にはない、という所が拓斗を拓斗足らしめている個性的な部分であることは間違いなかった。
「はあ……」
癖のようになった溜息を吐きながら拓斗は学校の帰り道を一人歩いている。右手で後頭部を擦り「頭痛い……」と小さく呟きながら。
帰り際、部活中のサッカー部のボールが拓斗の頭を襲った。その所為で家に帰るはずが行先は保健室へと早変わりし、見慣れた先生に「また真城?」と心配はおろか呆れた顔をされてしまったのだ。
昔から拓斗は頻繁に怪我をしていた。いや怪我だけではない。道を歩けば犬に吠えられ、雲一つない青空の下に出れば急に土砂降りになり、食べ物を食べれば当たってお腹を壊す。
クラスメイトが言った言葉を引用するのなら、拓斗は“神懸った不幸体質”である。拓斗からすれば不幸を連れて来る神に取り憑かれるなど冗談ではないのだが。
小学生の頃はその体質をネタにいじめられていたものの、中学生になる頃にはそのあまりの不幸の連鎖に同情されることが増え、徐々にいじめは無くなった。が、下手に傍にいると一緒に災難が降りかかる為、周囲の人間からは一定の距離を取られることが多い。
保健室に寄っていた所為で遅くなってしまった――とはいえよくあることだが――拓斗は薄暗い夕焼けの空を見上げた。
夜の暗い青と焼かれたような茜色が混じり合った空はどこかぞっとするような綺麗な不気味さを持っている。まるで、あの世とこの世が混ざり始めたような――。
「危ないっ!」
背後から焦ったような女の子の声がしたのは、そんな時だった。
「あ」
反射的に振り向いたその先には猛スピードで自分に向かって走って来る車。まるで止まる気配のないその凶器に、拓斗は咄嗟に逃げようと足を動かした。
「うわっ」
しかしその瞬間、彼は足元にあった石に思い切り躓いた。大きく体が傾くと、その瞬間目の前を車が走り抜ける。
しかし安堵したのもつかの間、よろめいた拓斗の頭が道の端の電柱に衝突したのはその直後のことだった。よりにもよって、先ほどボールが当たったその場所に。
「いって……」
悶えるように頭を押さえて蹲ると、すぐ隣を騒がしいパトカーが通り過ぎる。「前の車、すぐに停車しなさい!」とスピーカーの音声がぐわんぐわんと拓斗の耳に響いて余計に辛い。
とんだ災難だ。だが拓斗にとっては然程珍しいことでもない。よろよろと立ち上がった彼は、車に引かれなかったのは幸いだったなと思いながら痛む頭を押さえ、ふと先ほどの声は誰だったのかと気になった。女の子のあの声が無ければ、今頃拓斗が帰る場所は自宅ではなく集中治療室か霊安室になっていただろう。
だが拓斗がいくら周囲を見回しても声を掛けたであろう女の子はどこにもいなかった。そもそも先ほど振り返った時にだってその子の姿は見えなかったのだ。もうどこかへ行ったのだろうかときょろきょろ辺りを見ていると、頭を動かした所為で余計に痛みが酷くなり思わずしゃがみ込んだ。
「大丈夫なのかな……」
「え?」
再び先ほどの女の子の声が聞こえた。それも拓斗のすぐ目の前で。
痛みも忘れるように勢いよく顔を上げた彼だったが、ところが目の前には誰の姿も存在しない。
「今の声……」
「え、もしかして聞こえてるの? もしもーし!」
「だ、誰だ!?」
誰もいない。ただ薄暗い道だけしかないその場所で、だが声だけは拓斗の目の前から聞こえ続けた。
混乱する拓斗をよそに、謎の声は「やっぱり聞こえるんだ!」と心底嬉しそうに言った。
「んー、でも見えてないのかな……」
「何なんだ一体……誰かここにいるのか?」
「いるよ! 君には見えてないみたいだけど……ひゃっ、ちょっとどこ触ってるのよ!」
「はあ?」
拓斗が声のする辺りに手を伸ばした瞬間軽い悲鳴が上がり、彼はますます首を傾げる。
「どこって、どこだよ」
「人の胸触っておいてよくもそんなこと言うわね!」
「む、胸!?」
「まあそりゃあ触られた感覚はなかったけどさー」
ぶつぶつと文句を言う女の子の声に、拓斗はただでさえ痛い頭に別の種の頭痛を覚えた。
姿は見えない。だが声は聞こえる。しかし見えないものの人型ではあるらしい。
「もしかして」
「あ、言い忘れてたけどはじめまして。私、幽霊なの!」
その声は、ひどく生き生きとした声でそう名乗った。
「君って本当に危なっかしいね」
「俺の所為じゃない……」
その後家までの道のり、拓斗は久しぶりに何事もなく無事に帰ることが出来た。と言っても実際には何事もあったのだが、その度に「危ない!」と謎の少女の声が聞こえ、何とか回避することが出来たのだ。
鍵を開けて家の中に入ると、「広いねー」と呑気な声が着いて来るのが姿の見えない拓斗にも分かった。
「勝手に入って来るなよ」
「あ、お邪魔しまーす」
「そういう意味じゃないんだけど……」
あまりにも呑気な声に拓斗は一人首を傾げた。幽霊だと名乗ったというのに全くと言っていいほどおどろおどろしい感じがしないのだ。幽霊よりも透明人間だと言われた方が納得できそうな気さえした。
「お前……本当に、幽霊なのか?」
拓斗は重たい鞄を置いてソファに腰掛けると、先ほどから声の聞こえる方向に顔を向けて訝しげにそう尋ねてみる。
「うんそうだよ。ひかりって言うの、よろしくね」
からっとした明るい声で名乗った幽霊――ひかりに、拓斗は少々返す言葉に悩んだ。幽霊とよろしくしていいのだろうか。一緒に道連れにされそうだ。彼の普段の不幸具合を考慮すると無いとは言えない。
「君は何て言うの?」
「真城拓斗」
「拓斗……じゃあ拓ちゃんだね!」
「はあ!?」
初対面で――実際に対面はしていないが――随分と馴れ馴れしい呼び方に拓斗が驚いて困惑の声を上げる。そんな呼び方母親にしかされたことがない。が、当の本人は嬉しそうな声で「拓ちゃん、拓ちゃんね」と頭に刻み込むように繰り返していた。
「で、なんでお前は」
「ひかりだってば」
「……ひかりは、どうして俺に着いて来たんだ。家族とかの所に行かないのか?」
「うん、行かないというか行けないの」
「?」
「私、ひかりって名前以外何にも思い出せなくて……自分がどうやって死んだとか、どこに住んでたとかちっとも分からないの」
「え、」
「気が付いたら知らない場所に居て、体が半透明になってた。他の人に話しかけても聞こえないし……拓ちゃんが初めて私の声を聞いてくれたの」
「そう、だったのか……」
厄介ごとが舞い込んで来る前に家に帰そうと目論んでいた拓斗だったが、そう考えていたことに内心ひかりに謝りたくなった。
拓斗が小さく俯くと、今までよりも近い場所から「拓ちゃん?」と不思議そうな声が掛かる。
「何でもない。それより、何か手掛かりはないのか? 何か思い出せそうなこととか」
「うーん……ちっとも。あ、でも」
「何だ?」
「顔は自分じゃ見えないから分からないけど多分私、年は高校生ぐらいじゃないかな」
「え、高校?」
「うん、身長とかがそのくらいかなって。中学生かもしれないけど、多分大学生ではなさそう」
ひかりの言葉に拓斗は思わず目を瞠った。何しろ自分が考えていた彼女の年齢とは大きくかけ離れていたのだから。
「……てっきり小学生かと思ってた」
「何それ酷いっ!」
「だってやけに無邪気だし遠慮もないし」
もうっ、と怒る声を聞いていても拓斗には余計に年下にしか思えない。
しかし、と拓斗は目の前の何もないはずの空間を眺める。
姿は分からず年も曖昧、死因もいつ死んだのかも不明。はっきりと分かるのは特別珍しい訳でもないひかりという名前の少女だということだけ。手掛かりはないに等しかった。
「せめて苗字が分かれば調べられるかもしれないけどなあ……」
「え? もしかして、協力してくれるつもりなの?」
「……俺にしか声が聞こえないんなら俺が思い出すのに協力するしかないだろ。それに――」
いきなり現れた見知らぬ幽霊。勝手に家まで着いてきて勝手に身の上話をされて、またいつものように厄介ごとに巻き込まれたと言えばそうだが、正直な所拓斗が関わる理由などない。
だが彼は頷いた。
「お前……ひかりには助けてもらったから」
あの時彼女の言葉がなければ本当に死んでいたかもしれない。怪我には慣れているものの別に体が頑丈だという訳でもないのだ。あのスピードで車に突っ込まれていたら間違いなく無事では済まなかった。
と、くすくすと笑い声が聞こえて来る。普段ならば誰もいない部屋でこんな笑い声が聞こえてきたら酷く驚いただろう。
「ひかり?」
「ううん、幽霊でも役に立てることってあるんだなって思って。……拓ちゃん、ありがとう。記憶が戻るまでよろしくね。代わりに私が助けるから」
「……よろしく」
今度こそそう言った拓斗に、見えもしないのに目の前の空気がにっこりと微笑んだような気がした。