相合傘
「なあ、知ってるか相合傘の話?」
ある朝の休み時間、クラスメイトであり幼稚園からの幼馴染でもある猪狩瞬が俺、瀬古聡にそんな話を振ってきた。
「相合傘? 高校生にもなって何でまた相合傘なんだよ? ……ん? そうか、リア充? お前俺を裏切ってリア充になりやがったな!」
俺は猪狩の首元につかみかかる。
「お、落ち着け、落ち着けって。お前、今この辺で流行ってる都市伝説を知らないのか?」
「都市伝説?」
そこまで聞いた俺はようやく猪狩の首をつかんでいた手を放した。
「おう。何でも最近雨の日になるとな、出るんだってさ」
「出るって、何が?」
俺が聞くと、乗ってきたな、と言うような口調で猪狩は言う。
「そいつは雨の時に傘をさして一人で帰ってる男子高校生を見つけると、傘を忘れてしまったので相合傘してくれませんか? って聞くらしいんだよ。それがまた美人な女性らしくて、よく引っかかる人が多いらしい」
「へー、それで?」
「それではいとかいいですよ、とか答えてしまったら最後、その女がそのままどこか知らないところに連れてってしまうんだってさ」
「……あの、一つ聞いていいか?」
そこまで聞いた俺は猪狩に聞く。
「ん? どうした? 怖くてトイレに付き合ってほしいってか?」
「いや、そうじゃなくて。何で傘に入れた人がどこか知らない場所に連れて行かれるって話が出回ってるんだ? そもそも連れてかれたら被害者がどこに行ったかなんて分からないはずだろ?」
「……うーん、言われてみると」
猪狩も自信がなくなってきたらしい。
「それに、美人な女性って言うけど、それだって誰かが見てなきゃ分からないはずだろ? デマだよデマ。こういう実際にないものってのは確かに都市伝説っぽいな」
「……お前、夢とかロマンのかけらもないのな」
「ほっとけ」
そんなやり取りをしながらふと窓の外を見ると、雨が降ってきていた。今は梅雨時の6月上旬、確かに雨が降るにはもってこいの天気だ。
「まあ、こういう天気だし、そういう噂が湧いてくる気持ちも分からなくはないけどな」
「だったらほら、こういう天気だし、さっきのお化けもきっと……」
「出るわけねーだろ」
俺はバッサリと猪狩の言いかけたことを切り捨てた。
学校も終わり、俺は猪狩と昇降口を出た。俺と猪狩は帰る方向が真逆なので、校門を出れば俺たちは自然と別れることになる。外で降っていた雨は本降りとなっていた。折りたたみ傘を持ってきていなかったら大変なことになるところだっただろう。
「相合傘には気をつけろよ!」
「だからそんな奴いねーって言ってんだろ」
傘を広げて歩き出した俺は、猪狩の軽口を冷静に返す。
「じゃあな」
「おう、また明日。相合傘には……」
「しつけぇ!」
俺は最後に一言突っ込んで、帰り道を歩きだした。だが、これが猪狩との最後の会話となるとはこの時は考えもしなかった。
次の日、学校に来ると猪狩の姿が見当たらない。どうしたものかと思っていると、担任が入ってきて、一言重い口調でこう告げた。
「猪狩瞬君が、昨日車にはねられて亡くなりました」
俺はその言葉を聞いた瞬間、一瞬何が起こっているのか分からなくなった。だが、それが理解できたとき、どうしようもない悲しみが心の底からこみあげてきて、俺は泣いた。そこから先のことはよく覚えていない。全校集会に出て、授業を受け、それだけだ。あとは家に帰ってから、何をする気にもなれずに布団に横になった。
それから一年の時が流れた。俺も進級し、二年生となった。猪狩のことはまだ引きずってはいたが、ある程度立ち直ることができた。だがその一方で、俺の高校ではこんな噂が持ち上がり始めていた。
「なあ知ってるか? この辺りで誰かが車にはねられた事件があったらしいんだが、その事件の被害者が、横断歩道のすぐそばで相合傘を頼んでくるらしいぜ? 断らないとそのままこの世じゃない世界に連れてかれるんだと!」
「やだそれこわーい!」
クラスのお調子者がさも怖そうな声でこんなことを言っていたのである。だいたいこういうやつほどクラスの中心にいたりして、いろいろ面倒だ。しかも口コミ元がギャル風の女子だというからさらにタチが悪い。噂を止めようにも情報源がこいつらではどうしようもない。こいつらは去年俺とはクラスが違ったからおそらく猪狩のことを知らないのだろうが、何というか胸くそ悪い。死んだ奴を噂話に持ち上げて一体何が楽しいって言うんだ。
「おい、瀬古もこっち来いよ! これからが面白いところなんだぜこの話」
「……おう」
呼ばれた俺は立ち上がってそいつの近くに行く。
「で、何でもそいつは誰かを探してるんだとよ。何か恨みがあったのか、それともやりきれない思いがあったのかまでは分からねーけどな。んで、こないだそれを見かけたってやつが声を聞いたって言うんだ。それが怖くてよぉ……」
波風立たないようにやっているから俺もこいつらと特別仲が悪い訳ではないが、あまり仲良くしたいと思わないのもまた事実である。俺はいつも適当に付き合って、その場を離れるのだ。いつしか俺の周りには本当の友人らしい友人はいなくなっていた。
「雨、か」
放課後、俺が昇降口を出ると、昼には降っていなかった雨がざあざあと降っていた。こういう日は決まって猪狩のことを思い出す。あいつと最後に交わした会話は、ちょうどこんな強さの雨の日だったからだ。
「帰るか」
俺は傘をさした。ただ降りしきる雨足のやや強い道を俺はいつものように左に曲がろうとして、
(……いや、今日はあっちに行こう)
こんな雨の中、何故そう思ったのかは分からない。だが、俺の足は右、猪狩が昔使っていた帰り道の方へと向いていた。
「そういや、この辺りでよくあいつと遊んだっけ」
しばらく歩くと、公園が見えてきた。あじさいの咲く、美しい公園だ。幼稚園の帰りには、よくあいつと遊んだような気がする。公園には赤と青二種類のブランコがあった。ここでよく赤のブランコを巡って取り合いになったなぁ。
「なあ、何でだよ、猪狩……」
忘れていたつもりだった。だが、やはり俺は心のどこかであいつを求めていたのかもしれない。そこまで思って俺はそんなことに気付いて、そして。
「どうして、どうしてだよ」
雨粒に交じって、一筋の雫が落ちて行った。
(さて、帰るか)
誰の目にも届かないところで初めて出した心の底からの叫び。それは俺の気持ちを整理し、すっきりさせるにはちょうど良いものだった。
「……もうそろそろか」
そして俺は、あいつが逝ってしまった交通事故現場のすぐ近くに来た。
「なあ猪狩。お前の噂が、学校で語られてるんだぜ。お前が、誰かを探して、人に声をかけ続けてるって。お前はもう、ここにはいないのになぁ? ちくしょう」
見通しの良い交差点だったはずなのに、雨のせいか視界が悪くなっていたのだろう。あいつは乗用車にはねられて、この世を去った。
「さて、行くとするか」
俺がそのままその場所まで歩を進めようとしたそんな時だった。
「おにーちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど、いーい?」
いつの間にいたのか、すぐ後ろに女の子が立っていた。赤いワンピースを着た女の子だった。
「……別にいいけど、どうしたの?」
俺は女の子の目線までかがむと、女の子に聞く。
「あのね、その傘に入れてほしーの!」
すると、女の子は無邪気にそう答えた。手元に傘がないところを見ると、どうやら傘を持っていなかったのだろう。
(でも、何だろうなこの違和感)
俺は彼女を見て、どこか変だなと思った。だが、それが何かは分からない。
「入れてくれるの?」
女の子は反応のない俺にもう一度そう聞く。
「いいよ。おいで」
俺はその声で我に返ると、慌てて女の子を傘の中に入れて歩き出した。
その子と話すのは楽しかった。この子の名前はゆかりちゃんというらしく、この近所の小学校に通っているのだそうだ。
「おにーちゃんは、中学生?」
「いいや、その上の高校ってところに通ってるんだ。ゆかりちゃんもそのうち通うことになると思うよ」
「ふーん……」
こんな調子で和やかに会話は進んでいったのだが、たまにおかしな点があった。例えば、好きなアニメの話をした時。
「ゆかりちゃんは、どんなアニメを見てるの?」
俺は大体この年頃の子供は何かしらのアニメを見ているものだ、と思ったので聞いてみたのだが、
「えっとねー、ビューティー美咲!」
「……えっと、それ、何?」
俺も新聞をたまに読んだりはするから、大体何のテレビ番組がやっているかは知っていた。だが、ゆかりちゃんの言ったそれは、俺の聞いたことのない番組だった。
「えー知らないの? ○○テレビで日曜日に朝8時半からやってるやつだよ!」
ゆかりちゃんは熱弁するが、確かその枠でやっていたのは『ふたりでヒロイン!』と言う番組だった気がする。この近辺に住んでいるのにテレビ局が違うのはおかしいので、おそらくBSにでも加入しているのだろう。
他にもあった。それは、ゆかりちゃんにどんなことをして遊ぶか聞いたとき。彼女はこう答えたのである。
「えっとねー、まりつき!」
「そっかー、まりつきかぁ」
適当に相槌を打っては見たものの、少し変だ。まりつきなんて今時の子供がするだろうか。俺の知ってる小学生は一輪車や縄跳びをして過ごしていたはずで、まりつきは確かもうひと昔前の子供の遊びだったような……。だが、一人くらいはそういう子供が残っているのかもしれない。俺はそう思うことにしてそのままゆかりちゃんとの会話を続けた。
そのまま5分ほど歩いていくと、目の前に横断歩道が見えた。あそこだ。あそこがあいつが引かれた事故現場。どんなに考えても、あいつはもう戻ってこない。
「ねえ、おにーちゃんは何でここに来たの? お買いもの?」
ゆかりちゃんがそんなことを聞いてくる。
「いや、別に用事があったわけでもないんだけどね。ちょうどこんな雨の日に、俺の友達が交通事故でね……」
「……そっか」
「あ、ゴメン、そんなつもりじゃなかったんだけど」
ゆかりちゃんに交通事故のことをつい話してしまった俺は慌てて謝った。
「じゃあ、いこ?」
ゆかりちゃんはまっすぐ前を指差す。
「うん」
その指に従って、俺は歩き出した。
「ところでゆかりちゃんは……」
横断歩道の真ん中まで歩いた俺はゆかりちゃんに声をかけようとした。だが、隣を歩いていたはずのゆかりちゃんは、そこにはいなかった。
「あれ、ゆかりちゃん?」
ゆかりちゃんは、まだ横断歩道の手前にいた。確かに一緒に横断歩道を渡っていたはずなのに。
「ゆかりちゃ……」
俺は、ゆかりちゃんを呼ぼうと後ろを振り向いて、気付いた。俺のすぐそばに、大型のトラックが突っ込んで来ようとしていることに。そしてそこでさらに恐ろしいことに気付いた。歩行者用の信号機が、まだ濁ったネオンのような赤を演出していることに。そして、あんなに離れているはずのゆかりちゃんの声が、俺の頭にはっきりと響く。
「それなら、おにーちゃんも、いっしょにいこ?」
ニタッと笑うゆかりちゃん。そこで俺は全てを悟った。この子は、最初から俺を殺す気だったのだ、と。俺に話しかけたのも、すべては俺をここに導いて殺すため。ゆかりちゃんが現れた時、何もかもが不自然だとは思っていたが、いつの間にかそんな気持ちさえ失われてしまっていた。
(まさか、俺が感じた違和感って……)
俺は必死に思い出す。そういえば、あのどしゃ降りの中、彼女はいきなり俺の後ろに現れた。しかも、彼女の服、髪、体。全てにおいて、全く濡れてはいなかったのだ。ようやくつかんだ違和感の正体、だがそれに気付いたときには既にトラックが近づいてきていた。俺はその場から急いで離れようとして、足がもつれ倒れてしまう。
「うわぁあ!」
俺は道路にへたり込んでしまって立てなくなってしまった。あの距離なら走って避けられたであろうはずのトラックが、もう目の前に迫っている。どうあっても避けることなどできないだろう。
(俺は、俺は、まだ死にたくない!)
トラックは無情にも、俺のすぐ眼前に迫ってきていた。もうダメだ、そう思ったその時だった。俺は突然強い力で体を突き飛ばされた。横断歩道をゴロゴロと数メートル転がる俺。おかげで、俺はトラックに引かれることなく済んだ。
「バカ野郎、気をつけろ!」
急ブレーキをかけて止まったトラックの運転手は、窓を開けて怒鳴るとそのまま走り去っていった。呆然としたまま横断歩道を見ると、もうそこにゆかりちゃんの姿はなかった。
「今のはいったい……?」
俺は立ち上がって、周りを見渡す。どう見ても、誰かがいたような痕跡はない。じゃあ、一体誰が? そう思いながら、横断歩道を立ち去ろうとすると、頭の中にこんな声が響いた。
「だから言っただろ、相合傘には気をつけろって」
「えっ?」
そのどこか聞き覚えのある声に俺は慌てて振り返るが、当然その場には誰もいなかった。
あとあと知ったことだが、どうやらあの交差点では、猪狩の他にも女の子が亡くなっていたらしい。その子の名前は村山ゆかりちゃん。もう数十年ほど前のことだそうだ。結局あの子がそのゆかりちゃんなのかどうかははっきりしないが、俺にも分かっていることが二つある。一つは、俺があのゆかりちゃんという女の子に殺されそうになったということ。そしてもう一つは、誰にかは分からないが、命を救われた、ということだ。あれから俺は、あの交差点に行くときには必ず二輪の花を供えるようにしている。一つはもちろん猪狩の分だが、もう一つは、そのゆかりちゃんの分だ。彼女が仲間を求めて、これ以上犠牲者を増やさないために。