甘美なる尋問
真夜中のクロフォード邸。
廊下の古時計が、重々しい音で二時を告げた。
アリスティアの寝室は、分厚いベルベットのカーテンによって月光すら遮断され、完全な闇に包まれている。
(……来たか)
ベッドの中で、アリスティアは瞼を閉じたまま気配を感じ取った。
蝶が羽を休めるような、微かな足音。
そして、扉の隙間から漂い込んでくる甘い芳香。
『月下美人』
共和国南部にしか咲かない、一夜限りの幻の花。その香りは精神を鎮め、同時に深層心理のガードを緩めさせる作用がある。
「アリスティア様……? 起きていらっしゃいますか?」
鈴を転がすような声と共に、扉が開く。
蝋燭の灯りを手に現れたのは、透けるようなシルクのネグリジェを纏ったエレナだった。
闇に浮かぶその姿は、舞い降りた天使か、あるいは男を惑わす夢魔か。
「……ん……エレナかい?」
アリスティアは寝惚けた演技で半身を起こす。
背中の火傷が引きつり、わざとらしく顔をしかめてみせた。
「申し訳ありません。お背中の傷が痛むのではないかと思いまして……。痛み止めの香を焚きに来ましたの」
エレナはベッドサイドに香炉を置く。
紫煙が立ち昇り、部屋中に妖艶な香りが満ちていく。
(嘘だ。これはただの鎮静剤じゃない。幻覚成分入りの自白剤だ)
(さあ、吸いなさい。そして吐き出しなさい。あなたが五年前、誰を殺したのかを)
二人の思考が、紫煙の中で火花を散らす。
アリスティアは呼吸を浅くし、肺への侵入を最小限に留める。だが、エレナは遠慮なく距離を詰めてきた。
「お薬も塗りますね。……じっとしていてくださいな」
彼女の冷たい指先が、熱を持ったアリスティアの背中に触れる。
軟膏の冷やりとした感触。
そして、指は吸い寄せられるように、あの古傷──三筋の裂傷へと這った。
「……酷い傷」
エレナの囁きが、耳元をくすぐる。
その指先が、傷跡をなぞる。優しく、愛おしそうに。
まるで、恋人の肌を愛でるように。
だが、アリスティアの背筋は、その指から放たれるどす黒い殺気を感じ取っていた。
「この傷……ただの事故ではありませんね? 何かの獣に、切り裂かれたような……」
エレナの指が、傷口に爪を立てる。
痛みはない。だが、そこには明確な「尋問」の意思がある。
「……ああ。古い話だ」
アリスティアは夢見心地な口調で答える。幻覚剤が効き始めたふりをするために、瞳の焦点をわざとずらす。
「五年前……共和国の国境でね。大きな獣と戦ったんだ」
「獣……?」
「そう。誇り高くて、強くて……誰よりも美しい、鋼の獣だった」
エレナの手がピタリと止まる。
『鋼の獣』。それはかつて、ガランド元帥が敵から恐れられた異名。
アリスティアは認めたのだ。自分が、あの夜、元帥と対峙した暗殺者であることを。
(……やっぱり。あなたが、先生を!)
エレナの瞳孔が開く。
憎悪。激情。そして、今すぐこの男の喉を掻き切りたいという衝動。
彼女の右手──アリスティアの視界から隠れた袖口から、一本の細い針が滑り出る。
先端には、脳神経を破壊し、廃人にする毒が塗られている。
「……辛かったでしょう? かわいそうなアリスティア様」
エレナは涙声で囁きながら、針を握りしめた右手を振り上げる。
首筋へ。
頚動脈へ。
その切っ先が皮膚に触れる、寸前。
「……でもね、エレナ」
アリスティアが、ふっと笑った。
朦朧としていたはずの瞳が、月光のように鋭く光る。
「ッ!?」
世界が反転した。
アリスティアが寝返りを打ち、エレナの手首を掴んでベッドに引き倒したのだ。
シルクのシーツが衣擦れの音を立てる。
エレナの上に、アリスティアが覆いかぶさる形になる。
「きゃっ……! アリスティア様、何を……?」
「香のせいかな。君があまりに美しいから、夢を見ている気分だ」
彼はエレナの耳元に唇を寄せ、甘く囁く。
その指先からは、いつの間にか極細の鋼糸が伸びていた。
糸はエレナの手首に絡みつき、彼女が握りしめていた毒針を、音もなく弾き飛ばしていた。
カツン。
針が床に落ちる微かな音。
だが、二人の甘い会話にかき消され、それは誰の耳にも届かない。
(……嘘。いつの間に針を!? 幻覚剤は効いていないの!?)
エレナは戦慄する。
この男の精神構造はどうなっている? この濃度の幻覚剤の中で、なぜこれほど冷静に、精密な糸操りができるのか。
「……夢ではありませんわ。私はここにいます」
エレナは動揺を隠し、妖艶に微笑んで彼の首に腕を回す。
毒針を失っても、まだ彼女自身が武器だ。
爪に仕込んだ毒。体液を変質させる異能。
この距離なら、キスひとつで彼を殺せる。
「ああ……君の香りだ」
アリスティアはエレナの首筋に顔を埋める。
動脈の上。
最も脆弱な場所に、冷たい唇が触れる。
(殺す気? それとも……)
エレナの心臓が早鐘を打つ。恐怖か、興奮か。
アリスティアの「鋼糸」が、シーツの下で彼女の全身を包囲している気配がする。
動けば、切断される。
キスをすれば、毒殺できる。
互いに必殺の間合い。
命のやり取りを、恋人たちの抱擁という皮膜で包み込んだ、狂気の均衡。
「……おやすみ、エレナ。今夜は、君を離したくない」
アリスティアはふと力を抜き、そのままエレナの横に倒れ込んだ。
まるで、薬が効いて眠りに落ちたかのように。
だが、その手はエレナの腰をしっかりと抱き寄せ、拘束している。
「……ええ。おやすみなさいませ」
エレナもまた、抵抗をやめて目を閉じる。
今動けば、殺し合いになる。
そして今の状況では、アリスティアに分がある。
毒針を失い、体勢も不利。ここで仕掛けるのは愚策だ。
(……覚えていなさい。この屈辱、必ず晴らしてあげる)
彼女は枕の下に隠したナイフの柄を、指先だけで確かめる。
アリスティアもまた、シーツの下でワイヤーリールのテンションを維持し続ける。
同じベッド、同じ布団。
体温を分け合う距離にいながら、二人の魂は氷原で対峙していた。
ヒュンッ──
窓の外で、風を切る音がした。
帝都の夜空に、一筋の赤い閃光が走る。
信号弾だ。
共和国の、あるいは帝国の、非常招集の合図。
「…………」
「…………」
二人は狸寝入りを決め込んだまま、同時に薄目を開けてその光を見た。
(始まったか)
(第2ラウンドね)
『エーテル・ハート』を巡る暗闘が、いよいよ表舞台へと浮上する。
この甘く危険な鳥籠から抜け出し、再び血塗れの舞踏会へ踊り出る時が来たのだ。
夜明けまで、あと数時間。
二人の暗殺者は、互いの鼓動を殺意のメトロノームとして聴きながら、浅い眠りへと落ちていった。




