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紫煙と鉄錆のワルツ  作者: 伝福 翠人


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8/8

甘美なる尋問

真夜中のクロフォード邸。


廊下の古時計が、重々しい音で二時を告げた。


アリスティアの寝室は、分厚いベルベットのカーテンによって月光すら遮断され、完全な闇に包まれている。


(……来たか)


ベッドの中で、アリスティアは瞼を閉じたまま気配を感じ取った。


蝶が羽を休めるような、微かな足音。


そして、扉の隙間から漂い込んでくる甘い芳香。


月下美人クイーン・オブ・ザ・ナイト


共和国南部にしか咲かない、一夜限りの幻の花。その香りは精神を鎮め、同時に深層心理のガードを緩めさせる作用がある。


「アリスティア様……? 起きていらっしゃいますか?」


鈴を転がすような声と共に、扉が開く。


蝋燭の灯りを手に現れたのは、透けるようなシルクのネグリジェを纏ったエレナだった。


闇に浮かぶその姿は、舞い降りた天使か、あるいは男を惑わす夢魔サキュバスか。


「……ん……エレナかい?」


アリスティアは寝惚けた演技で半身を起こす。


背中の火傷が引きつり、わざとらしく顔をしかめてみせた。


「申し訳ありません。お背中の傷が痛むのではないかと思いまして……。痛み止めの香を焚きに来ましたの」


エレナはベッドサイドに香炉を置く。


紫煙が立ち昇り、部屋中に妖艶な香りが満ちていく。


(嘘だ。これはただの鎮静剤じゃない。幻覚成分入りの自白剤だ)


(さあ、吸いなさい。そして吐き出しなさい。あなたが五年前、誰を殺したのかを)


二人の思考が、紫煙の中で火花を散らす。


アリスティアは呼吸を浅くし、肺への侵入を最小限に留める。だが、エレナは遠慮なく距離を詰めてきた。


「お薬も塗りますね。……じっとしていてくださいな」


彼女の冷たい指先が、熱を持ったアリスティアの背中に触れる。


軟膏の冷やりとした感触。


そして、指は吸い寄せられるように、あの古傷──三筋の裂傷へと這った。


「……酷い傷」


エレナの囁きが、耳元をくすぐる。


その指先が、傷跡をなぞる。優しく、愛おしそうに。


まるで、恋人の肌を愛でるように。


だが、アリスティアの背筋は、その指から放たれるどす黒い殺気を感じ取っていた。


「この傷……ただの事故ではありませんね? 何かの獣に、切り裂かれたような……」


エレナの指が、傷口に爪を立てる。


痛みはない。だが、そこには明確な「尋問」の意思がある。


「……ああ。古い話だ」


アリスティアは夢見心地な口調で答える。幻覚剤が効き始めたふりをするために、瞳の焦点をわざとずらす。


「五年前……共和国の国境でね。大きな獣と戦ったんだ」


「獣……?」


「そう。誇り高くて、強くて……誰よりも美しい、鋼の獣だった」


エレナの手がピタリと止まる。


『鋼の獣』。それはかつて、ガランド元帥が敵から恐れられた異名。


アリスティアは認めたのだ。自分が、あの夜、元帥と対峙した暗殺者であることを。


(……やっぱり。あなたが、先生を!)


エレナの瞳孔が開く。


憎悪。激情。そして、今すぐこの男の喉を掻き切りたいという衝動。


彼女の右手──アリスティアの視界から隠れた袖口から、一本の細い針が滑り出る。


先端には、脳神経を破壊し、廃人にする毒が塗られている。


「……辛かったでしょう? かわいそうなアリスティア様」


エレナは涙声で囁きながら、針を握りしめた右手を振り上げる。


首筋へ。


頚動脈へ。


その切っ先が皮膚に触れる、寸前。


「……でもね、エレナ」


アリスティアが、ふっと笑った。


朦朧としていたはずの瞳が、月光のように鋭く光る。


「ッ!?」


世界が反転した。


アリスティアが寝返りを打ち、エレナの手首を掴んでベッドに引き倒したのだ。


シルクのシーツが衣擦れの音を立てる。


エレナの上に、アリスティアが覆いかぶさる形になる。


「きゃっ……! アリスティア様、何を……?」


「香のせいかな。君があまりに美しいから、夢を見ている気分だ」


彼はエレナの耳元に唇を寄せ、甘く囁く。


その指先からは、いつの間にか極細の鋼糸が伸びていた。


糸はエレナの手首に絡みつき、彼女が握りしめていた毒針を、音もなく弾き飛ばしていた。


カツン。


針が床に落ちる微かな音。


だが、二人の甘い会話にかき消され、それは誰の耳にも届かない。


(……嘘。いつの間に針を!? 幻覚剤は効いていないの!?)


エレナは戦慄する。


この男の精神構造はどうなっている? この濃度の幻覚剤の中で、なぜこれほど冷静に、精密な糸操りができるのか。


「……夢ではありませんわ。私はここにいます」


エレナは動揺を隠し、妖艶に微笑んで彼の首に腕を回す。


毒針を失っても、まだ彼女自身が武器だ。


爪に仕込んだ毒。体液を変質させる異能。


この距離なら、キスひとつで彼を殺せる。


「ああ……君の香りだ」


アリスティアはエレナの首筋に顔を埋める。


動脈の上。


最も脆弱な場所に、冷たい唇が触れる。


(殺す気? それとも……)


エレナの心臓が早鐘を打つ。恐怖か、興奮か。


アリスティアの「鋼糸」が、シーツの下で彼女の全身を包囲している気配がする。


動けば、切断される。


キスをすれば、毒殺できる。


互いに必殺の間合い。


命のやり取りを、恋人たちの抱擁という皮膜で包み込んだ、狂気の均衡。


「……おやすみ、エレナ。今夜は、君を離したくない」


アリスティアはふと力を抜き、そのままエレナの横に倒れ込んだ。


まるで、薬が効いて眠りに落ちたかのように。


だが、その手はエレナの腰をしっかりと抱き寄せ、拘束している。


「……ええ。おやすみなさいませ」


エレナもまた、抵抗をやめて目を閉じる。


今動けば、殺し合いになる。


そして今の状況ステータスでは、アリスティアに分がある。


毒針を失い、体勢も不利。ここで仕掛けるのは愚策だ。


(……覚えていなさい。この屈辱、必ず晴らしてあげる)


彼女は枕の下に隠したナイフの柄を、指先だけで確かめる。


アリスティアもまた、シーツの下でワイヤーリールのテンションを維持し続ける。


同じベッド、同じ布団。


体温を分け合う距離にいながら、二人の魂は氷原で対峙していた。


ヒュンッ──


窓の外で、風を切る音がした。


帝都の夜空に、一筋の赤い閃光が走る。


信号弾だ。


共和国の、あるいは帝国の、非常招集の合図。


「…………」


「…………」


二人は狸寝入りを決め込んだまま、同時に薄目を開けてその光を見た。


(始まったか)


(第2ラウンドね)


『エーテル・ハート』を巡る暗闘が、いよいよ表舞台へと浮上する。


この甘く危険な鳥籠ベッドから抜け出し、再び血塗れの舞踏会へ踊り出る時が来たのだ。


夜明けまで、あと数時間。


二人の暗殺者は、互いの鼓動リズムを殺意のメトロノームとして聴きながら、浅い眠りへと落ちていった。

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