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紫煙と鉄錆のワルツ  作者: 伝福 翠人


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王立歌劇場の惨劇

王立歌劇場ロイヤル・オペラ


帝都の文化の象徴であり、貴族たちの社交場。


今夜の演目は喜劇『フィガロの結婚』だが、劇場を包む空気は、喜劇とは程遠い緊張感に満ちていた。


「アリスティア様、軍服姿も素敵ですわ」


「君こそ。その真紅のドレスは、まるで血のように鮮やかだ」


特別桟敷席。


アリスティアは、珍しく帝国の少佐としての軍服(正装)に身を包んでいた。


今日の任務は、隣の席に座る軍需大臣の警護。


昨夜の信号弾は、共和国による大規模テロの予兆と断定されていた。


「……少し、空気が重いですわね」


エレナが扇子で口元を隠した貴婦人に、アリスティアは慣れた手つきで愛想を振りまく。


その視線が、無意識に舞台袖の柱時計へと走るのを、アリスティアは見逃さない。


(八時開演。現在は八時十五分。……あと五分か)


エレナの脈拍がわずかに速い。


恐怖ではない。苛立ちのリズムだ。


彼女はこのテロ計画を知っている。いや、おそらく「仕掛け側」の一員として、配置についているはずだ。


「大丈夫だよ、エレナ。僕がついている」


アリスティアは彼女の手を握る。


その指先から、微かな振動が伝わってくる。


(さあ、何が起きる? 君はいつ、その美しい牙を剥くんだ?)


一方、エレナはアリスティアの笑顔に吐き気を覚えていた。


(能天気な顔をして。……作戦開始時刻になっても動かないなんて、現場の班長は何をしているの?)


彼女への指令は、混乱に乗じて大臣を暗殺すること。


だが、肝心の爆破工作が遅れている。


共和国の潜伏工作員たちの質の低下に、彼女は舌打ちを噛み殺した。


「……申し訳ありません、アリスティア様。少し目眩が」


「おや、大丈夫かい? 医務室へ案内しようか」


「いいえ、化粧室で少し休めば治りますわ。……すぐに戻ります」


エレナは席を立つ。


その背中を見送るアリスティアの目が、爬虫類のように冷たく細められた。


「……ああ。気をつけて」


舞台裏の薄暗い廊下。


エレナはドレスの裾を翻し、早足で進む。


突き当たりの用具室。そこには、共和国の工作員三名が潜んでいた。


「遅い! 何をしているの!」


エレナが扉を開けるなり叱責すると、男たちは脂汗を流して振り返った。


「ど、毒婦ヴァイパー殿……! だ、駄目なんです、起爆装置の配線が……」


「帝国の新型妨害電波のせいで、遠隔操作が効かねえ!」


無能。


エレナは冷ややかな目で見下ろす。


こんな三流の工作員たちと連携しなければならない屈辱。


しかも、客席にはアリスティアがいる。


あの男(仇)は、この程度の杜撰な工作など、赤子の手をひねるように潰すだろう。


(……このままでは、作戦は失敗する。私も巻き添えにされる)


ならば、どうするか。


答えは一つ。


「失敗」を確定させ、証拠(彼ら)を消し、自分だけは生き残る。


「……貸して」


エレナは男から起爆装置を奪い取ると、配線を乱暴に引きちぎった。


そして、懐から小瓶を取り出し、回路に垂らす。


彼女の体液で精製した、高揮発性の発火剤。


「手動でやるわ。あなたたちは大臣の退路を塞ぎなさい」


「は、はい! さすがは毒婦殿!」


男たちが歓喜の声を上げて部屋を出ていく。


その後ろ姿を見ながら、エレナは音もなく呟いた。


「さようなら。……祖国のために死ねて本望でしょう?」


彼女が垂らした液体は、ただの発火剤ではない。


気化すれば、数分で肺を焼き尽くす遅効性の毒ガスになる。


ドォォォォンッ!!


数分後。


舞台袖で爆音が轟いた。


予定より小規模だが、パニックを起こすには十分だ。


客席から悲鳴が上がる。


「きゃあああ!」


「テロだ! 逃げろ!」


怒号。振動。落下するシャンデリア。


その混乱の只中で、二つの影が動いた。


「伏せろ!」


アリスティアは軍需大臣の首根っこを掴み、座席の下へ押し込んだ。


同時に、硝煙の向こうから現れた工作員たちが銃を乱射する。


「死ねェッ、帝国の犬ども!」


だが、その弾丸は誰にも当たらない。


アリスティアの両手が、指揮者のように宙を舞っていたからだ。


キィィィンッ!


不可視の鋼糸が網目のように展開され、銃弾を弾き、あるいは軌道を逸らしている。


さらに、アリスティアは指を弾く。


糸が工作員の首に巻きつき、操り人形のように同士討ちをさせた。


「な、なんだ!? 体が勝手に……!」


「うわぁっ、撃つな! 俺だ!」


一瞬で制圧。


アリスティアは冷徹に状況を分析する。


(雑だ。精鋭じゃない。……捨て駒か?)


その時、舞台の反対側から、口から泡を吹いて倒れる工作員たちの姿が見えた。


彼らは何かを叫ぼうとして、喉を掻きむしり、絶命していく。


(……毒。それも、呼吸器系を焼くガスか)


アリスティアの視線が、混乱する群衆の中を彷徨う。


そこに、ドレスの裾を口元に当てて、怯えるように逃げ惑うエレナの姿があった。


「アリスティア様……! アリスティア様!」


涙声で叫ぶ彼女。


だが、その足元には、先ほど「口封じ」された工作員たちの死体が転がっている。


(……やるね、エレナ。身内を切り捨てたか)


アリスティアは口元を歪めた。


彼女は作戦の成功よりも、自分の正体(身元)が割れるリスクを排除したのだ。


それほどまでに、自分との「生活」を守りたいのか。


あるいは──自分を殺すのは、自分だけだという独占欲か。


「エレナ! こっちだ!」


アリスティアは瓦礫を飛び越え、エレナの手を取る。


その瞬間、屋上へと続く階段の方角から、強烈な殺気が放たれた。


「……!」


二人は同時に反応した。


この殺気は、捨て駒ではない。


指揮官クラスだ。


歌劇場の屋上テラス。


夜風が硝煙を吹き飛ばしていく。


そこに立っていたのは、隻眼の男。今回のテロを指揮していた共和国の大佐だ。


「……失敗か。毒婦め、裏切ったな」


大佐は舌打ちし、懐から信号弾を取り出そうとする。


だが、その手は動かなかった。


いつの間にか、五本の鋼糸が彼の手首を拘束していたからだ。


「こんばんは、大佐。素晴らしい夜景ですね」


アリスティアが、闇の中から静かに歩み寄る。


背後には、怯えたふりをしたエレナ。


「き、貴様……『人形師』か!」


「ご名答。さて、教えていただきましょうか。……『エーテル・ハート』の在処を」


アリスティアは指に力を込める。


糸が肉に食い込み、血が滴る。


大佐は激痛に顔を歪めながらも、視線をアリスティアの背後──エレナへと向けた。


「……ハッ。そういうことか。貴様、その女に……」


まずい。


エレナは直感した。


大佐は、自分がアリスティアの婚約者として潜り込んでいることを知っている。


彼が口を開けば、全てが終わる。


(……死になさい)


「いやぁぁぁっ!!」


エレナは突然、狂ったような悲鳴を上げた。


「アリスティア様、後ろ! まだ敵が!」


「!?」


アリスティアが一瞬、背後の虚空へ注意を逸らした隙。


エレナは大佐に向かって駆け出し、よろめくようにして彼にぶつかった。


「触るな、汚らわしい!」


大佐が怒鳴ろうとした口の中に。


エレナの手のひらに隠されていたカプセルが、叩き込まれた。


バリィンッ。


口内でガラスが砕ける音。


即座に広がる、青酸の味。


「ぐ、が……!?」


大佐は目を剥き、喉を押さえて後退る。


言葉にならない泡を吹き、手すりを乗り越えて──そのまま、夜の闇へと落下していった。


「あ……あっ……!」


エレナは手すりにしがみつき、震えながら下を覗き込む。


その背中に、アリスティアが駆け寄った。


「エレナ! ……くそッ、落ちたか」


アリスティアは大佐が石畳に叩きつけられる音を聞き、舌打ちをした。


重要参考人が消えた。


それも、あまりにも不自然なタイミングで。


彼はエレナの肩を抱く。


彼女は恐怖で震えているように見える。


だが、アリスティアの鼻は、微かに漂うアーモンド臭──青酸ガスの残滓を捉えていた。


「……怖かったろう。もう大丈夫だ」


彼は優しく囁きながら、心の中で冷ややかに拍手を送っていた。


(見事だ。僕の注意を逸らし、確実に口を封じた。……これで君の正体を知る者は、誰もいなくなったわけだ)


「アリスティア様……私、私……」


エレナは彼の胸に顔を埋める。


その瞳は、暗闇の中でらんらんと輝いていた。


(危なかったわ。……でも、これで邪魔者は消えた。あとはあなただけよ、アリスティア)


燃え上がる歌劇場を背景に、二人は強く抱き合う。


それは愛の抱擁などではない。


互いに生き残り、互いを殺すために必要な「共犯者」としての、血の契約だった。

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